平凡令嬢と咲かない白薔薇 ~静かな恋の始まり
エルスパーナ侯爵邸の東庭にある古い温室は、冬の寒さのなかでひっそりと息を潜めていた。
もともとは南方から珍しい花木を育てるための場所だったが、当主の興味が移って久しい今では手入れが行き届かず、曇りガラスの向こう側はどこか薄暗く、埃と古い土の匂いが充満している。
アニェスはその温室の隅にある木製の椅子に腰掛け、厚手の本を膝に開いていた。
彼女は特別な美人でもなければ、社交界で花形として持て囃されるような華やかな才覚もない。
両親からも「お前は本当に普通の、手がかからない娘だな」と苦笑まじりに言われるような、ごく平凡な侯爵令嬢だった。
何かを強く望むこともなく、ただ流れる時間に身を任せて生きている。
「失礼します」
膝の上の文字を流すように読んでいると、低い落ち着いた声がして、温室の引き戸が静かに開いた。
入ってきたのは、見慣れた灰色の麻の作業着を着た若い庭師、レイだった。
彼は無造作な黒髪を揺らしながら、手入れ用のハサミと麻袋を抱えている。
「あ、レイ。……こんな寒い日に、お疲れ様」
「はい。お嬢様こそ、こんな場所で本を読んでいては体を壊しますよ」
レイは過剰にへりくだることも、かといって無礼な態度をとることもない。
ただ淡々と、雇われた職人としての礼儀を守りながらそこに立っていた。
彼はアニェスにとって、屋敷の中で最も話しやすい存在だった。
他の使用人たちは侯爵令嬢である彼女の顔色を伺い、どこか気詰まりな態度をとるが、レイだけはいつだって同じ調子だったからだ。
「ここは風が当たらないから、意外と暖かいのよ。それに、静かだし」
「そうですか」
レイはそれ以上詮索せず、手際よくハサミの準備を始めると、温室の奥にある白薔薇の鉢植えに向き合った。
その薔薇は一昨年の冬を越して以来、花をつけず、ただ細い枝ばかりが伸びていた。
アニェスは膝の上の本から目を離し、黙々と作業をするレイの手元を眺めた。
彼の大きな手には、ところどころに小さな傷や土の汚れがあった。
一目で、長く体を動かして働いてきた人間だとわかる。
けれど、その手つきは驚くほど優しく、無駄がなかった。
「ねえ、レイ」
「何でしょうか」
「その薔薇、もうずっと花をつけていないわ。今年もダメかもしれないのに、どうしてそんなに丁寧に手入れをするの?」
レイはハサミを動かす手を止めず、静かに答えた。
「枯れてはいないからです。枝の先は生きていますから」
「でも、咲くかどうかなんてわからないでしょう?」
「だから手をかけるんです。咲くかどうかわからないから放置するなら、最初から庭師など置いていません」
当たり前のように返されたその言葉に、アニェスは少しだけ胸を突かれた。
「……そうね。そうかもしれない」
自分自身のことを振り返る。
自分にはこれといった取り柄がなく、将来どうなるかもわからない。
親が決めた縁談があればそれに従うのだろうし、それが上手くいかなくとも、ただ流されて生きていくんだろうとどこか諦めていた。
――まるで、この咲かない白薔薇のように、「どうせ私なんて」と心のどこかで決めつけていたのは自分の方ではないか、と。
「お嬢様は、何か咲かせたい花でもおありですか」
ふと、レイが作業の手を止め、振り返らずに訊ねた。
その問いは唐突だったが、まるで彼女の迷いに寄り添うような響きがあった。
アニェスは少し戸惑いながらも、手元で閉じられた本の表紙に目を落とした。
「……わからないわ。私はただの普通の人間だから、何かを大きく変えようなんて思ったこともないもの」
「普通、で結構ではありませんか」
レイは静かに立ち上がり、剪定したばかりの枝を麻袋に入れた。
「屋敷の庭の木々も、派手な大輪の花ばかりではありません。地味に葉を茂らせ、ただ季節をやり過ごしているものも多い。でも、そうやって目立たない木々が、庭全体の土台を支えているのです」
レイはアニェスの方を向き、ほんのわずかに目を細めた。
「誰かに褒められなくとも、自分の根元がしっかりしていれば、それで十分だと私は思います」
その言葉は、アニェスの心にあった澱みをスッと消してくれた。
特別な人間にならなければいけないと思い込んでいたわけではない。
ただ、”普通であること”をどこか退屈で無価値なもののように感じていた自分に気づかされたのだ。
「……ありがとう、レイ。なんだか、少し気が楽になったわ」
「……仕事をしたまでです」
レイは少しだけ気恥ずかしそうに視線をそらし、再びハサミを手に取った。
外では相変わらず冬の冷たい空気が流れていたが、温室の中には、土の匂いと、どこか温かい静けさが満ちていた。
アニェスはもう一度本を開き、今度はしっかりと、その文字を一つずつ自分のペースで読み進めていく。
急激な変化などない。
身分違いの二人の間に、劇的な恋のドラマが起きるわけでもない。
けれど、この静かな温室で交わされる穏やかな時間が、これからの二人にとってかけがえのないものになっていく――そんな予感を、アニェスはそっと胸に抱いていた。
※この作品はaiちゃんとの共同作品です。




