見捨てられた國のヒミコ20Ⅹ0 (3)
見捨てられた國のヒミコ(20Ⅹ0) Ⅽ.アイザック
(3)
福島市はかつて栄えた都市だが今は人影もない。ヒミコのトラックと装甲車は静まり返った無人の街を過ぎていく。やがて「越後街道」と呼ばれた旧道に突き当たった。そこからいわき市とは反対方向の会津若松に向かう。しばらくは大きな湖に沿って進んだ。この地域はかろうじて定着した残留民がスーパー台風によって無残に滅んだ所だ。護岸が湖に崩れ落ち、つぶれた小屋がいくつも重なり合っている。復旧されずに放置されたインフラはあっという間に自然に侵食される。災害の痕跡を秘めたまま草木に覆われ風雨に朽ちてしまうのだ。ときには道路の一部分だけが偶然にきれいなまま残されているが、ガードレールやポツンと立つ道路標識はびっしりと蔦かずらが繁茂し、奇異な景色の中でいっそ緑が美しくすら見える。
「ヒミコ、基地のドローンが近づいている。前方一キロにスペースがある。」
「分かったわ、アースボーイ。着陸を指示して。」
ヒミコはドライバーが交代することを山下夫人に伝えた。
「いわきに連れて行ってくれるから心配しないで。」
「ヒミコさん気を付けてね。」
夫人はそれまで耳にした通話からヒミコが子供の救助に向かうらしいことを知っている。
「大丈夫。」それから籠の中の猫に向かって声をかけた。
「サンタ、元気でね…。聞こえてる?」
急に改まった口調で夫人が言った。
「ヒミコさん、私にできることはないかしら。私は看護師だったのよ。」
「えっそうなの。…それならいわきの国立病院が人材を求めているはずよ。」
「私はあなたのお役に立ちたいのよ。」
ふいに頭上にローターの回転音が響いた。ドローンが到着したのだ。
「ありがとう、その時はお願いね。」ヒミコが急いで答えた。
アースボーイのいうスペースは小さな店舗の駐車場跡地だった。草が茂った箇所もあって、村田が慎重に着地を試みる。ヒミコはトラックを降りた。ローターの風がヒミコを叩き、短い髪を掻き毟る。
ドローンが停止するとサングラスの村田が姿を見せた。
「ヒミコ、もう少し状況を見てからで良いのじゃないか?」
「大丈夫よ。」
村田はサングラスを外してヒミコを見つめた。
「ミサイルが飛んできてからじゃ遅いぞ。」
「アースボーイが監視してるわ。」
「…あのロボットか。」
「そう、彼はパーフェクトよ。」
村田は「フン」と鼻で応えるとヒミコの胸に吊るされた拳銃を見て、小さく首を振った。
「トラックと山下さんをお願いね。」
コクピットに乗り込んだヒミコはナビに目的地の座標が入力されているのを確かめた。六基のローターが回転数を上げる。ふわりと機体が浮いた。姿勢制御の計器に目を配る。異常はない、出発だ。
「飛行時間は十二分を予定。」ナビの自動音声が伝える。
「アースボーイ、何か見える?」
「百キロの範囲で監視してる。攻撃用ミサイルの発射装置は見当たらない。もし発射を検知したらすぐに迎撃する。良いか。」
「良いわ。」
「携帯型の対空ミサイルは存在の有無を断言できない。この場合、発射を探知しても意味は無い。幸運を願う。」
「有難う。」
ヒミコは胃袋がギュウッと縮むのを感じた。日本政府のドローンを攻撃する武装勢力がいてもおかしくなかった。新潟はカオスだとアスカは言う。
旧街道に沿ってその上空をドローンは飛ぶ。街道は所々でかなり狭まってはいるが車両の通行は可能だ。新潟に難民キャンプが生まれてすぐにUNHCRの要請を受け、日本政府が人道回廊として最低限の整備をした。この回廊は難民キャンプに国連の支援物資を運ぶ重要なルートともなった。それはまだヒミコが子供のころだった。
以来この回廊をたどって日本政府の庇護を受けようとしたソビエト人が幾人もいたが、その多くが強盗団の襲撃で命を落とした。このため政府は旧防衛省に難民保護を指示。旧防衛省は大幅に縮小され内閣府防衛局としてかろうじて組織を保っていたが、即応予備自衛官のしくみを復活させて海外に移住した自衛官に呼びかけ、数百人の隊員を集めて内閣府の要請に応えた。ところが政府の予算は限られている。防衛局に残された僅かばかりの装備を活用しなければならない。さらに隊員数を分割して年交代で任務に就けることにした。陸将の階級を持つ防衛局長は「今のところこれ以上のことはできない。」と明言した。
それでもこの対応は効果を見せた。強盗団と呼ばれる武装勢力の活動が弱まったのだ。同時に回廊を使って亡命を試みるソビエト人が激減した。日本政府が難民を警護する自衛官を派遣したことが情況に影響したと考えられた。
新潟の難民はネオ・ソビエトの独裁的政治を批判して迫害を受けた人々で、ついには政権による殺害や拘束を逃れようとボートや漁船で日本海を渡った。普通の難民と違ったのは、彼らの多くは国内に残してきた家族の脱出を助けようと新潟にとどまったことだ。これがネオ・ソビエト当局をいたく刺激した。当局の報道官は「新潟の一部にテロリストの拠点がある。国連機関はこの謀略を容認するごとき行動をとることなく速やかに手を引くべきだ。」として国連難民高等弁務官事務所を非難した。
この直後から正体不明の一団が難民キャンプを襲うという信じがたい事件が続発した。彼らは難民に発砲するだけでなく国連の支給した食料や物資を奪ったことから「強盗団」と呼ばれた。そして強盗団の凶行はこれに止まらなかった。身の危険を感じてキャンプを離れた人々を人道回廊で襲撃したのだ。このため「強盗団」はネオ・ソビエトの公安組織である連邦保安局の意図を受けて行動する集団ではないかと疑われた。
この状況の中、日本政府が難民保護の名目で武装自衛官を派遣したことによって強盗団は一時的ではあったが鳴りを潜めた。しかしネオ・ソビエト当局は自衛官の新潟派遣を激しく批判した。難民はテロリストだと変わらず主張し、新潟沖にミサイル駆逐艦を航行させたことから一気に緊張が高まった。日本政府は自衛官の派遣はあくまで国連職員とNGO関係者の保護が目的だと訴え、人員の規模を縮小することで事態の鎮静化を図ろうとした。
この措置にソビエト側は特に反応は示さず、表面的には小康状態が保たれている。しかしこの直後、ソビエトの友好国と思われる高句麗王国政権が自国の漁民の避難港を探すという名目で調査隊を鳥取と富山湾に派遣した。調査隊はつまり軍隊であると疑われた。不測の事態がいつ起きてもおかしくなかった。
一方でソビエトは中華連邦と領土問題を抱えており、中華連邦の海底調査船が複数日本海に展開していることに神経を尖らせていた。
日本政府とUNHCRにとって危機的な状況は続いている。内閣府のアスカが「新潟はカオスだ」と表現したのはこのような理由からだった。
ヒミコのドローンは旧街道と大きな川が最接近する地点、西会津に至った。十キロ西方が新潟との境界線だ。それは昔の自治体の県境のことだがヒミコはそれを超える許可を得ていない。
日本政府は巨大地震の前も後にも自国の領土を放棄していない。ネオ・ソビエト連邦が北海道の東部を、中華連邦が九州をそれぞれ実効支配していると宣告した際には「どこにも正当性がない」と強く抗議したが、国際社会の関心は薄かった。統治能力を失った国の「負け犬の遠吠え」のように受け止められたのかも知れない。
そして今も、ヒミコは新潟から島根に至る日本海側の地方に立ち入ることが政府から許されていない。やがてはどこかの国がその地の実効支配を通告してくる可能性がある。あからさまに言えば日本政府は列島において無力だった。
川が大きく弧を描いた内側に広々とした砂州が出現し、そこに乗用ドローンが降りていた。一人乗りのちいさな機体にUNの文字が見える。ヒミコはその近くに着地した。けれども人の姿がない。
「子供たちは川岸の茂みの中だ。」とアースボーイが報せる。
「どのあたり?」
「ヒミコの正面、草むらを十メートル入った灌木の後ろだ。」
ヒミコはすぐに草むらに分け入った。
「心配いらないわ。安心して。」と声を掛けると低い枝葉の陰から少年が姿を見せた。近づくと彼の背中でシャツを掴む少女に気づいた。もっと幼く、髪が明るい栗毛色だった。衛星画像で見た二人に違いないと思えた。
「ケガはない?」
少年が黙って頷く。彼は少女を庇護するのが務めと感じているらしく後ろ手でかばいながらヒミコを油断なく見つめた。
「日本語が分かるのね。…あなたはソビエト人なの?」
「ソビエト人。そして日本人だ。」
二重国籍を持っているらしい。
「年はいくつ?」
「十歳。」
ヒミコは疑問を覚えた。あの大震災の後に生まれたなら、彼の出生届を受ける役所はどこにも無かった筈だ。日本人という根拠は何か。
「お名前は何というの?」
「ケンイチ・ミハイロビッチ・クズネツォフ」少年は淀みなく答えた。「妹はカオル、カーチャと呼んでる。」
「そう、ご両親の名は?」
それには答えず、ケンイチと名乗った少年がいきなり切迫した様子で叫んだ。
「お母さんを助けに行かなきゃ!」
驚くヒミコを尻目にケンイチはドローンを指さした。
「これならお母さんも一緒に乗れるよね。助けに行こうよ。行ってよ。」
「一体どういう事なの。」
「お母さんは狙われていたんだ。」
「狙われるっていったい誰に。」
「決まってる。悪者たちだよ。」
ヒミコには腑に落ちるものがあった。
「あのドローンには一緒に乗れないからあなたたちだけを逃がしたということ?」
「そう。お母さんは捕まったかも…。」
ケンイチの両眼から不意に涙が流れ落ちるのを見てヒミコは慌ててアースボーイに告げた。
「ボーイ、国連事務所の日本側担当者を呼び出して。」
アースボーイは二十キロ離れた装甲車の中にいる。
「名前は?」
「忘れたわ、早くッ。」
「UNHCR日本側担当者カミヤでいいか。」
「いいわ。」
「カミヤにコールしている。二元中継になる。」
すぐに電話が繋がり中年らしい男の声が響いた。
「神谷だ。誰だ。内閣府か?」
「私はヒミコ。」
「なんだって? 誰なんだ。」
ヒミコはケンイチに質した。
「お母さんの名は?」
「ハナエ・クボ・クズネツォフ。」
隣でカーチャがヒミコに向かって何度も頷いた。縋るような顔だ。
「ハナエ・クボ・クズネツォフの子供二人を保護している。事情を知りたい。」
神谷は大きな声を上げた。
「そうか二人は無事か、よかった。…で、あんたは誰だ。」
「私はヒミコ。二人は母親を心配している。ハナエ・クボは安全な状態なのか。」
「今はまだ所在を確認できていない。彼女は子供を逃がしてから身を隠すと言っていた。だから探しているんだが見つからない。」
「私は内閣府のヒミコ、事情を説明してほしい。」
「ハナエ・クボの夫、ミハエル・ドミトリー・クズネツォフは今もソビエト国内で反体制活動を行っている。ネオ・ソビエト当局はミハエルを指名手配して行方を捜しているが見つけられていない。
近年ミハエルはインターネットを駆使してソビエト共産党の指導者層の資産状況を世界に暴露している。当局側はミハエルの妻ハナエ・クボがこのネット配信に深く関わっていると見ているようだ。そしてハナエ・クボが二人の子供とともに新潟の難民キャンプに滞在しているのを突き止めたとして彼女と子供らの身柄を引き渡すようUNHCRに申し入れてきた。
こちら側が引き渡し要請の国際法的根拠がないと突っぱねるとソビエト政府は捜索隊を送ることになるだろうと通告してきた。この直後、見知らぬ十数人の人物が新潟キャンプに姿を現し、驚いたことに国連の保護官が軟禁されてしまった。」
「神谷さんに危険はないの?」
「私はその場を逃れた。とにかくハナエ家族を隠そうとしたが子供連れでは危ない。とりあえず子供たちだけでもドローンでいわき市へ避難させようとした。…もういわきに着いたわけだ。」
「UNのドローンは故障して西会津の河川敷に不時着した。」
「えっ、…ということは? どうなった?」
「いま不時着の現場にいる。子供たちを保護したと言ったでしょ。それからドローンを無人機が追ってきたから撃墜したわ。」
神谷は一瞬絶句した。
「…ヒミコ、あんたが撃墜したのか。」
「国連機を攻撃する意図があると判断したわ。」
ヒミコはこの件でアスカが調査に乗り出すという村田の言葉を思い出していた。
心の隅に不安をよぎらせたヒミコに、神谷は意外な言葉を口にした。
「そうかそれは良かった。こっちも腹が決まった。」
「えっ?」
「国連の安全保障理事会に訴える。ネオ・ソビエト連邦が新潟に侵攻を試みていると指摘してやる。難民保護官を不当に拘束したことも。安保理の今月の議長国は確かフィンランドだ。だからどうということもないのだが、理事会が開かれるだけでネオ・ソビエトには大きな牽制になるだろう。」
「分かったわ。子供たちはいわきに連れていくので母親のハナエさんを引き続き探してもらえるかしら。」
「そのつもりだ。ドローンを使うなら高度を上げるな。目立たぬように。無事を祈る。」
ヒミコは兄妹に言った。「お母さんは国連のカミヤさんが探してくれるって。だから安心して。そして私たちは安全な所へ行かなければ。」
二人の子供を乗せてドローンが離陸した。高度七十m、時速二百キロで飛行する。
「アースボーイ、異常は無い? もうすぐボーイの装甲車を追い越すわ。」
「異常は無い。科学基地で会おう。」
ヒミコは怒りを抱えていた。新潟に外国政府が人員を勝手に送り込んだという。アスカはこの事態を知っているのか。彼女は残留民問題対策の事務局長であると同時に列島の安全保障と外交を担当すると聞いている。問題がはらむ深刻さの前にただ傍観したとしたらあまりに残念だ。これまでもヒミコが全く関知しない時間軸の中で北海道の一部と九州が外国の支配下に置かれている。南太平洋にいる敷島は諦めてしまったのか。ヒミコの中に悔しさが込み上げても「自分に何が出来るか」見当も付かなかった。
三十分後いわきの庁舎上空に到着した。太平洋に面している。直ぐ側が小名浜港だ。ガランとしてだだっ広い駐車場にドローンを降ろす。屋根の骨組みだけの小さな構造物がある。初めて目にしたヒミコは違和感を覚えたのだが、これは公用車の駐車スペースだと後で知った。途中で建築を中止したらしい。理由は国連の支援物資を運ぶトラックのために港の施設を増設しなければならなくなった。そこへ予算を振り向けたことによるという。
庁舎の駐車場の一隅には動く気配のない装甲車が置かれていて、地面だけでなく車体のあちこちから雑草が生えている。かなり以前に示威のつもりで留置いたらしい、とアスカが説明してくれた。「案山子のようなものね。」とヒミコは思うのだった。
そのアスカが不在でヒミコは当てが外れた。胸に溜まったうっ憤を無言で飲み込むしかなかった。ヒミコの気持ちを知る筈もない赤っぽい眼鏡をかけた四十代と思われる婦人が対応した。彼女はまず「横山」と名乗ってからヒミコの拳銃に何度か視線を走らせ、ようやく口を開いた。
「この子たちが日本政府の庇護を求めているわけですか。」
ヒミコが黙って頷くと横山は「ヒミコさんは二人をよくご存じなのですか。」とかさねて聞いた。
「今日会ったばかりよ。」
横山は小豆色の眼鏡のツルを神経質そうに指で触った。
「データを残さねばならないので質問させてもらいます。」
誰へともなくそう言ってケンイチに向き合った。
「二人の名前を教えて。それから両親の名前も。」
ケンイチが答える。カーチャは兄のシャツを握りしめていた。緊張しているのだ。横山にはどことなく冷淡な雰囲気があった。
「ソビエト人なのね。」
「お母さんが僕たちは日本人だと言った。」
「生まれがどこかわかる?」
「モスクワ。」
横山が何も言わずにパソコンを触る。キーを叩く音が微かに響き、そしてピタリと止まった。
「無いわね。」そう呟いてまたキーを叩いた。
「無いようね。」
横山はヒミコに告げた。
「この子たちの出生届が見当たりません。念のためモスクワ以外のサンクトペテルブルグ、ノボシビルスク、ウラジオストクの領事館をすべて当たりましたが、母親のハナエ・クボの婚姻届けすら見つけられません。」
「…だから?」
ヒミコは子供たちが難しい状況に立たされているようで漠然とした不安に包まれていた。
「クボ・ハナエさんは国内で十五人が本籍登録されていますが、国民番号がわからない以上この子たちとの関係は何も証明されません。結局、日本人ではなく難民の保護として対応しなければなりません。問題は保護者がいないのでその意思を知るのが困難だということです。UNHCRの新潟事務所に保護者の探索を依頼することから始めなければなりません。」
「それなら国連のカミヤさんが探してくれてるわ。」
「では結果を待ちましょう。それまで一時的に収容の措置を取ります。」
違和感を覚えてヒミコが聞き返した。
「収容と言いました?」
「逃亡されたらこちらでは対応できませんから。」
「ちょっと待って。なぜこの子たちが逃亡するの?」
「幼い子供の行動は予測できません。結果は私たちが責任を負わねばならないのです。…母親とキャンプにいたということですが、その母親の目的は何でしょう。何を希望しているのでしょう。いずれは家族で日本に亡命したいのか、それとも第三国へ渡りたいのか。その意思を確認し具体化できるまでこの子たちを…言葉を換えればしっかり保護する必要があるのです。」
ヒミコは横山の説明にどこか釈然としないながらも口を出せないでいた。彼女が誤っているとしたら子供たちが日本国籍を持たないと断定したことだが、それが法律的手続きの有無から判断されている以上間違ってはいないと言えるだろう。けれども大地震後の数年間、日本には住民の届を受ける窓口など何処にもなかったのだ。もしハナエ・クボが当時は日本にいて婚姻と出産の届を望んだとしても実現しなかっただろう。その責任はハナエ、ミハイル夫妻にあるのだろうか。
ヒミコが納得していない様子を感じ取ったのか横山が静かな口調で言った。
「ヒミコさん、これは単純な事ではないのです。もしこの子たちの両親が離婚や親権をめぐって係争中だったら私たちは国際的な誘拐事件の手助けをすることになってしまいます。だから少なくとも母親を探し出し家族関係と意思を明かにしなければなりません。場合によっては新潟に返すという選択肢も出てくるでしょう。」
「待ってよ。この子たちは生命の危険を逃れてきたのよ。的外れなことを言わないで。」
「私たちはUNHCRと難民自身の要請に可能な限り応える。わかりますか、私たちが何かを決めるわけではないのです。」
「私はカミヤさんの要請を受けたわ。あの人はUNHCRの関係者じゃないの?」
「国連の準保護員と聞いています。」
「じゃあ問題はないわけね。」
「ここまでは、です。この先は母親の意思を確認しなければなりません。」
横山は机上の小さなマイクのスイッチを押して保安員を呼んだ。
「保安員が来たら子共たちを病院に連れて行って貰います。感染症の検査をしなければなりませんので。ヒミコさんはもう結構ですよ。ご苦労様でした。」
ヒミコは渋々と椅子を立った。子供たちが堪らなく憐れに感じた。こんなのは間違ってる、理由はハッキリとしないのだがヒミコの心は沸騰前の鍋の中のように小さな泡が次々と生まれていた。
ヒミコが席を立ったからか、ケンイチとカオルが互いの体を掴み支え合うように立ち上がった。二人はそのままヒミコを見つめている。何かを訴えるでもなく、苛立ちや不満の色を浮かべるでもなくただヒミコを凝視している。赤児が無心に母の顔を見るのに似ていた。
ヒミコは瞬時に決心した。
「子供たちは私が預かるわ。」
「それは…。」横山が眉を顰めた。「国民援護局の所管するところではありません。」
「いいの、責任は私が引き受けるわ。」
「困るわ。局長の許可もなしに…。」
「横山さんに迷惑は掛けないわ。多分、だけど。」
「そんな…。」
唖然とする横山をしり目に、ヒミコがカオルの手を握って歩むとケンイチも無言で付き従った。ヒミコはどんどん歩を進める。
庁舎を出たところでヒミコが告げた。
「これから私が住んでるお城へ行くわよ。とっても良い所よ。」
「お城?」ヒミコは初めてカオルの声を聴いた。
「そう、とっても頑丈な城。だから安心して。誰もあなたたちに手出しはさせないわ。」
三人が乗ったドローンが舞い上がった。科学基地に十分で着く。ヒミコは予感めいたものを抱いていた。子供たちの母親を捜しに自身が新潟キャンプへ行くことになるかもしれないと。
科学基地は百ヘクタールという広大な敷地を有していた。サッカーグラウンド百五十面を軽く越える広さだ。ひときわ大きな建屋がロケットの組み立て工場。ここで完成したロケットは一キロ離れた発射場まで直立した姿勢で運ばれる。宇宙や地上の交信に使われるアンテナ群のエリア、発電などの化学エリア、居住エリアなどを含めて大きな建造物が立ち並び、基地の周りは塀で囲われていた。
塀の外、約五キロから二十キロの範囲に八か所の迎撃ミサイルの発射基地がある。もし科学基地と小名浜の庁舎がミサイル攻撃を受けるようなことがあれば事実上日本政府が列島から消えてしまう。これを恐れて敷島とタケルが協議し配備を決めた。飯豊山と燧ケ岳などに準備された対空ミサイルとは違い、弾道ミサイルの迎撃が目的だ。
その後四足歩行の攻撃用ロボットが開発されるなど基地の守りは万全なものと言えたが、実は基地の重要な施設、心臓部はその地下深くに作られている。特に地下三階から先はごく一部の科学者しか立ち入れないエリアとなっていてヒミコも足を踏み入れたことが無い。
上空から基地を見下ろしたケンイチが歓声を上げた。
「すごいや、ウラジオストクにこんな大きな建物は無かったよ。」
「ケンイチはいつ海を渡ったの?」
「一年前。」
「お母さんと?」
「うん。お父さんはいなかったけど…。」
「船?」
「イカを釣る漁船だよ。でも明かりは一つも点けてなかった。ヒミコ、真っ暗な海は怖いよ、すごく。」
ドローンが大きく揺れた。
「さあ、地上に降りるわ。」
ヒミコは憤懣を心に秘めていた。庁舎での子供たちへの冷たい扱いが納得できなかった。子供たちを基地に連れてきたのは彼らに
同情したからだが、逆にルールに反した行動と非難されてしまった。しかし二人を「収容」するなんて許さない。きっと兄も同じ意見に違いないとヒミコは思い、それを確かめたかった。
しかしタケルとは会えなかった。ヒミコは呆然とモニター画面に兄の表情を見つめた。
「私と会う時間がないなんて信じないわ。」
「ゴメン。あと僅かでウルトラ・コンピューターが完成する。古典的スーパー・コンピューターで千年かかる計算処理が二秒で終わる。もうすぐなんだ。僕は今時間が欲しい。」
「それはいつ出来上がるの?」
ヒミコの問い掛けが終わるまえにモニターの画像が消えた。
「お兄ちゃん!」
ヒミコは思わず叫んだ。眼に涙が滲む。…でもこれは喜ばなくちゃ、とヒミコは考え直した。…お兄ちゃんが成功を収めようとしている。そして私は黙って見守るしかないのよ。お兄ちゃん頑張って!
量子コンピューターについては世界中で不確かな情報があふれている。ヒミコの胸の片隅に小さな不安が宿っていた。
そんな彼女の気持ちを明るくしてくれたのは基地の保健師、松浦だった。五十歳を越えた大柄な女性で、柔和な表情と冷静な仕事ぶりが基地の職員に信頼されている。彼女が子供たちに親切で優しい態度をとってくれたのがヒミコには嬉しかったのだ。
松浦は子供たちを診察し感染症の有無などを調べた。ケンイチに聴診器を当てる際にシャツが酷く汚れているのが目についた。難民キャンプの衛生状態がどのようなものか想像するには十分だったが松浦は動じなかった。
「この後でお風呂に入ればいいわ。カオルちゃんもね。」と二人に伝えた。
「妹はカーチャと呼んで。」とケンイチが告げた。
「あら、それは素敵ね。」
松浦の温かみを感じさせる声にカオルの表情が輝いた。笑顔で保健師に近寄ろうとして立ち止まった。恥ずかしそうにしている。ふくらはぎ迄にようやく届くパンツだけでなく、彼女の衣服は兄の物に劣らず汚れていた。本人もそれに気づいたのだ。
「着替えが必要ね。安心して、きっとヒミコが探してくれる。」
松浦の言葉にヒミコは慌てた。洗濯してあげなくちゃとは思っていたが、その間に裸でいさせるわけにはいかないわけで、そこに思いが至っていなかった。かといって基地に子供用の衣類は無いはずだ。
ヒミコは急いでアスカに電話した。避難民住宅の自治会に子供服の問い合わせをしたかったのだ。
「ヒミコさん?」
アスカの声を耳にした途端にヒミコは自ら地バチの巣か狸の穴に足を突っ込んだような気がした。幼いころ庭の奥に動物が掘った穴を見つけた。それを勝手に狸の穴と決めつけ、怖々と中を覗き込んだのが思い出された。
「ちょうど確かめたいことがあったわ。対空ミサイルで無人機を撃ち落としたのはあなたの決断なの?」
ヒミコは内心(あちゃ~)と叫んでいた。アスカがそれを問題視しているという村田の言葉をすっかり忘れていたのだ。
「その通りです。」仕方なく肯定した。
「私に連絡してから行動すべきだったわ。」
「説明する時間がなかったのよ。無人機が国連機を攻撃する意図があると判断したわ。」
「それについては国連の神谷さんに事情を報告してもらいました。そしてヒミコさんの判断が妥当という指摘をもらったわ。でも内閣府事務局の指示を得なかったのが問題であることは変わりません。ヒミコさん、これからはまず私に連絡しなければならないと頭に入れておいてください。忘れないように。
もう一つ、子供たちを基地に連れて行ったのはどのような理由ですか。」
「えーと、それは…。」
突然の質問にヒミコは頭を抱えた。理由はいくつかあったはずだ。問題はアスカを納得させる説明だ。
「つまり子供たちの心中を考えた結果です。この一連の事態に相当ショックを受けているようですし、なにより母親に危険が迫っていると不安に怯えています。
私は二人を基地に受け入れて日常の生活を助け、心の不安を取り除き、そしてキャンプでどのように過していたかを聞き取ります。母親が親しくしていた人物やNGOの人の名などを教えてもらいカミヤさんに伝えます。母親を探し出し保護するためです。」
アスカはすぐには何も言わなかった。
「基地にいても別に構わないと思うけど。」ヒミコが念を押した。
「そうね、子供たちはあなたに任せます。それから他に何か用があったんじゃないの。」
「そうそう、子供の服が必要です。自治会で不要な衣類があれば貰いたいと思って。男の子が十歳、女の子が五歳です。それから下着と靴も。お願いします。」
ヒミコは安堵した。ミサイルの使用が厳しく追及されるだろうと不安だったのだ。自身の判断に問題があったとは思わないがアスカと軋轢を生じるのは本意でなかった。滅びかかった日本に留まっている数少ない公務員なのだ。
やがて村田の運転するタンクローリー車とアースボーイの装甲車が相次いで基地に到着した。
タンクローリーに同乗していた山下夫人は結局基地に残ることになった。長い間の一人暮らしを経て、数千人が暮らす避難民住宅に入居するのが躊躇われたのだろう。ヒミコは夫人の頼みに押し切られた格好だったが、松浦は彼女が看護師だと聞いて「心強いわ。」と喜んだ。
アスカから子供服の件で連絡が来た。たくさん準備できたという。通話の終わりに「あなたは、いつも私の心を揺さぶるわ。」と彼女が呟いた。
「住宅で暮らすのはほとんどが高齢者。単身所帯も多いわ。その人たちが子供服とか幼児向けの衣類をなぜ取っておくのかしら。ヒミコさん。理由は何かしら。」
「さあ、わかりません。」
「私は結局、あの人たちの気持ちを何一つ理解していないのだわ。」
ヒミコは山形の漁村を訪れた記憶を蘇らせた。外国に移住した子らが孫を連れて帰省するのが夢だと語った住民がいた。ヒミコは移住先の領事館を通じて身内の住所と電話番号を調べ彼らに伝えた。けれどもその夢は実現するのか。ヒミコには分からない。
「自治会でどの様な事が話し合われているのか聞いてみれば。住民の希望や気持ちが分かるかも。」
「日常や生活の困りごとならすぐにでも対応できるのだけど。将来の希望とか夢となるとどうかしら。私たちは国民援護と扶助の枠内でしか動けないのよ。」
「アスカさん、その枠を守るってそんなに価値がある事なのかしら。」
「前にも言ったと思うけど、政府にはこの列島に投資する余裕がないのよ。枠内とはつまり予算の枠。それを超えて公務員ができることは無いわ。」
ヒミコは賛同できなかった。むしろアスカの言う「枠」を踏み出して、そこに新しい制度が必要ならそれに見合う予算を求めれば良いと単純な考えが浮かんだ。しかし自身がアスカに代わって残留民自治会に向き合えるとも思えなかった。アスカの行政としての経験と知識量には到底およばないからだ。それでいて納得できないものがある。
アスカの指摘が正しいとしても、今の援護の有りかたはどこか間違っているのではないか。それに「残留民」の呼称もどこかおかしい。「国民」と呼べない理由があるのだろうか。ヒミコの考えは方向を失って迷った。気づけばアスカの電話は切れていた。
基地の食堂は一階の居住区にあった。広々とした室内に四人掛けのテーブルがいくつも並んでいる。明るいベージュ色の壁が穏やかな雰囲気を感じさせた。窓からヤードに目を向けるとイチョウが十本ほど並んでいる。その裏側には椿が植えられていて、イチョウの葉が黄金色に変わりやがて落葉すると椿の深い緑が眼に飛び込んでくる。ヒミコはこの景色が気に入っていた。
メニューはカレーだ。ヒミコはケンイチ、カオルとテーブルに着いた。子供たちは入浴し清潔な衣類を身に着けている。
「ソビエトにもカレーはあるの?」
ヒミコの問いかけにケンイチが首を振った。
「でもキャンプで何度か食べたよ。」
「ではここの調理師さんのカレーを味わいましょう。」
早い夕食だったがヒミコは子供たちに負けず一心にスプーンを口に運んだ。アメリカ軍基地アップルゲートで朝のサンドウィッチを食べたきりだった。
「美味しいわね。」
三人は微笑を浮かべて互いに頷いた。
「食べながらで良いんだけど、お母さんが親しくしていた人の名前を教えてちょうだい。」
ケンイチが少し考えて口を開いた。
「顔は思い浮かぶけど、名前がわからない。」
「頑張って。お友達の名前が分かると国連のカミヤさんもお母さんを探しやすいと思うわ。」
「お母さん、いなくなっちゃったの?」
ヒミコはドキリとした。言葉を選ぶ必要があるのだ。
「いいえ、お母さんはきっとお友達のテントにいるわ。悪人に見つからないように…。」
ケンイチはテーブルの一点を見つめた。必死に記憶を探っている。
「アンナ!」とケンイチは声に出した。
「皆、アンナと呼んでた。思い出した。カメラの帯にアンナ・ウラジミール・ポポフと書いてあった。」
「お母さんのお友達がアンナ。そしてカメラを持っている?」
「アンナはカメラマンだったんだ。」
「年は幾つくらい?」
「お母さんと同じくらい。」
「三十代なのね。家族は一緒かしら。」
「アンナの両親は大陸にいる。アンナは独身なんだ。」
「有難う、よく分かったわ。」
ヒミコはアンナがハナエ・クボをかくまっているように思えた。もしそうなら彼女はすぐに見つかるかもしれない。その場でカミヤに電話した。
ケンイチの話を伝えるとカミヤは「よし分かった。」と力強く応えた。
「ハナエさんが見つかったらどうするの?」
「本人の意思次第だが、日本政府に庇護を求めようと思う。彼女の夫ミハエルが反政府活動のリーダーの一人であることはよく知られている。彼女がキャンプに留まることは危険だ。具体的にはいわき市に送り届けることになる。その際はヒミコの協力が必要だ。」
「分かったわ。連絡を待ってるからね。」
ヒミコがふと気づくとカーチャが椅子の上で眠っていた。手にスプーンを握ったままだ。無理もないと思った。緊張の連続だっただろう。ケンイチも眠そうに見えた。
「食器を片付けてお部屋に行くわよ。」
ヒミコが小さな声でケンイチに伝えた。
子供たちがベッドで眠ったのを見届けてヒミコは食堂へ戻った。コーヒーが飲みたかったのだ。調理は六十代の夫婦が引き受けている。ヒミコが子供のころから変わらない。最近になって、外国に移住した長男が帰国して両親を手伝っている。それは小さな驚きをもたらす出来事だった。それ以来、調理師夫妻の表情が明るくなったとヒミコは感じていた。
ヒミコがコーヒーを注ごうと調理場のカウンターへ行くと調理長の夫人、春子が「コーヒー淹れてあげるよ。」と声をかけた。
彼女はポットを手に、遠慮がちに聞いた。
「あの子たちはどこから来たの。青森?」
「新潟よ。」
「まあ、そうなの。あんな小さな子が難民キャンプに…。」
夫人はカップをヒミコの前に置いてエプロンの端を摘み上げた。そのまま瞼のあたりを拭った。彼女は幼い二人のキャンプでの生活を想像しただけで同情を覚えたようだ。
「ここに来られて良かったわ。」と言った。
ヒミコも新潟での日常がどの様なものか詳しく知らないのだが、夫人の想像したらしいものと自身の推測がそれほど現実から離れていないだろうと思った。
「ほんとうに。」相槌を打った。
コーヒーを飲みながら「山下さんは猫のサンタをどうしただろう。」とぼんやり考えた。以前には侵入したニホンザルを警備ロボが射殺するという出来事があったのだ。
この事態に衝撃を受けたヒミコは小動物の侵入を防ぐために塀の上に電気柵を設けた。これで良しと思えたのだが、ムササビなら柵を飛び超えるかも知れないという意見が出された。さらに鳥類は自由に飛来するだろうとの指摘も。ヒミコは考え込んだ。導き出した答は「小動物と鳥類の侵入は人間が対応する」というもの。至極当然な結論だった。
コーヒーを飲み終えるころ、白衣の男が視界の隅に映った。急いで振り向くとやはり地下三階の研究者だ。ヒミコはテーブルに近づき向かい合わせの椅子に腰を下ろした。
「今日は。」と声を掛けた。
中年の男は顔を少し動かしたが、ヒミコに目を向けたかよく分からないまま大きな声を出した。
「この忌々しいカレーを食ったら一時間ほど寝るつもりだ。用が無ければ放っておいてくれ。」
ヒミコは彼がトランス・ヒューマニズムという新しい分野の研究者だと知っている。それは科学技術を追求することによって人間の生物学的限界を超えようとする学問だ。
「ドクター・タチバナ。」ヒミコは構わずに続けた。
「お疲れのようですね。」
「そう言った。」
「ドクター・タケルは元気かしら。」
立花は顔を上げてヒミコを見た。
「君は…確か。」
「ヒミコです。」
「君がドクター・タケルの肉親なら言っておきたい事がある。彼はもっと人と話すべきだ。余計な事だが…。」
「どういう事? 何を話すの。」
「何でも良い。季節や天気、そして君の悩みとか希望とか。ドクター・タケルの関心と興味がこちらの世界から完全に離れようとしている。彼は今や機械としか話さない。」
「意味がよく分らないわ。」
立花は答えずカレーライスに再び集中した。忙しげに口に運ぶ。放っておかれた形のヒミコは話の糸口をつかもうとした。
「立花さんは何を研究しているんですか。」
ピタリと研究者の手が止まった。
「それは、人間兵器だ。ヒトのクローンを量産する。そこに私の開発したトランス・ヒューマニズムの拡張機能を実装する。とてつもなくおぞましく、目が眩むほど魅惑的な研究だ。だが…。」立花はスプーンで皿を小刻みに叩いた。
「ドクター・タケルはサイボーグでなくロボットを選択した。いったいなぜ私を招聘したのか。なぜ私が潰れかけた政府の求めに応じたのか分かっていない。」
ヒミコを凝視する立花の眼に鋭い光の欠片が宿っている。ヒミコは狂気じみたものを感じて言葉を失った。
「その時に私はここを出るとタケルに伝えた。すると彼は新しい計画のために協力してくれと私を引き留めた。その計画の残酷さと美しさに私は惹かれた。タケルは私が断らないと知っていたんだ。」
言うべき事を言い終えたのかそれとも最後のカレーライスを口に運んだからか立花が突然に立ち上がった。
「寝る!」と一言告げて足早に去って行く。
ヒミコは呆然と立花を見送った。
ヒミコの胸に訳もなく不安が渦巻いた。兄がドクター立花のせいで困難や危険に直面しているのではないかと疑った。じっとしていられずエレベーターに向かう。同時にアースボーイを呼び出した。基地内にいる筈だった。
「地下三階の研究室に行きたい。サポートして。」
「ヒミコは研究室に入れない。」アースボーイが即答した。
「なんですって。それはいったいどういう事?」
「認証を受けたIDが必要だ。」
「じゃあ、私のIDを認証して。」
「認証は研究室だけが行う。」
ヒミコは通信をそのままで兄タケルにも発信した。地下三階に入れるよう兄からセキュリティ・システムに指示して貰いたかったのだ。
ところが兄タケルが電話に出ない。ヒミコは愈々兄の身に何かが起きている不安に囚われた。
「アースボーイ、いま何処?」
「管理センター。」
「すぐエレベーターに来て。」
「ヒミコ、よく聞いて。君は研究室に入れない。何らかの方法で無理に侵入すれば命を失うことになる。」
アースボーイの言葉にヒミコは愕然とした。兄タケルが妹の命を犠牲にする可能性があるセキュリティを設定したことになる。
「お兄ちゃんは私が死んでも良いと考えているの? アースボーイ、あなたは今そう言ったのよ。」
「人間の心理について想像はする。それは人間と会話する際のツールの一つに過ぎない。つまり僕にドクター・タケルの心理を正確に説明する機能は無いよ。」
「私の心理を考えてよ。私は今、とっても驚いて、悲しくて死んでしまいたいくらいよ。」
「ヒミコがドクター・タケルの心理を知りたいのなら本人に直接聞けば良いのに。」
「でもお兄ちゃんが私の通信を受けてくれないの。」
ヒミコの瞼から涙が零れた。
「では僕に任せて。」
アースボーイの自信ありげな言葉の数十秒後、ヒミコの携帯にタケルから通信が入った。
「お兄ちゃん?」ヒミコは眼を丸くした。
「ヒミコ、何があった。」
「何も…ないけど、私、心配で堪らないの。」
タケルは何も言わず黙っている。ヒミコは急いで言葉を繋いだ。
「だからこれから地階の研究室に行こうと思うわ。会って話をしたいの。」
心臓が激しく脈打った。その時、私の命が無くなるの? と言葉にならず尋ねていた。
「それには及ばないよ。僕がそちらに行くから。」
「本当に?」
「どこに行けば良い? 管理センター?」
「私のお部屋に来て。」
二人だけで話したかった。
随分と長く会わずにいたとヒミコは兄を見つめた。同じ基地にいながら二か月ほどは声だけのやり取りだった。タケルも同じ寂しさを抱いていたのか、ゆっくりと歩み寄り兄妹は静かに抱き合った。
「ヒミコ、危険が想定される場合はそこから早く逃げる事だ。大地震を生き延びた命を大切にしよう。」
ヒミコは兄の言葉が耳からこぼれ落ちるに任せて顔の隅々へ視線を当てた。
顔色は良くも悪くもない。眼が落ちくぼんでもいない。目じりの皺が少し増えたかしら…とヒミコは感じた。痩せてはいないし、かといって太ったようにも見えない。漠然とした不安は思い過ごしだったようだ。けれども兄の表情全体から色濃い倦怠感がにじみ出ている。きっと量子コンピューターの開発が難題に突き当たって困っているのじゃないかしら。
「お兄ちゃん、量子コンピューターの開発は少しお休みにしたら?」
「何故だい?」
「だって、いくつもの国の科学者が開発に取り組んでいるようだけど、そういうところは資金もスタッフも豊富でしょうね。でも
ここはそうではないわ。きっと無理なところがあるわ。」
「そんな事を心配していたのかい。安心して。もう僕の研究は最終段階にあるんだ。それよりも…。」
タケルはヒミコの両腕を掴んだ。「どのような危険に遭ったのか教えてくれ。君が西会津に行ったことに関係してるのかい?」
ヒミコは突然に思い出した。兄はヒミコの位置を追跡してくれているのだ。
「その危険というのが私には分からないわ。」
タケルは少し考えていた。
「ヒミコ、MC001に何か頼んだかい。」
「ええ、お兄ちゃんとお話がしたいと頼んだわ。」
「ははあ…、なるほど。」タケルが微笑した。
「なるほどって?」
「いや何でもない。気にしないで。そうだ、腹が減ってるんだ。夕食はまだだろう?」
「もう食べたけど私はデザートを頂くわ。一緒に食べましょ、今日はカレーライスよ。」
「それは楽しみだ。」
兄と二人で食卓に向う。ヒミコはそれだけで幸福感に包まれた。デザートは春子夫人お手製のチーズケーキだ。仄かな甘みと濃厚で滑らかな舌触りが気に入っている。兄の食事に合わせてゆっくりと小さなスプーンを運んだ。
「美味しいかい。」とタケルが聞いた。
「とっても。チーズの風味が豊かだわ。お兄ちゃんのカレーライスは?」
「カレーの風味もなかなかのものだよ。」
「カレーライスにカレーの風味が無かったら驚きだわ。」
タケルがクックッと笑った。
「もう、からかわないで。」
たわいのない穏やかな時間が流れた。
やがて食事を終えたタケルが真顔になってヒミコを見つめた。
「ねえ、思うんだが、国外に移住する気はないかい? それがヒミコのためには良いことだと思うよ。」
「突然?」
「前から考えていたんだ。敷島さんのニュージャパン構想がかなり評判は良いみたいだよ。南太平洋に浮かぶ島、ロマンチックじゃないか。住めば都の言葉もあるし。」
「そんな気になれないわ。」
「ヒミコ、真剣に考えてくれ。こんな見捨てられた場所にいつまでも拘るべきじゃない。」
「見捨てられた場所? お兄ちゃんはそう考えてるの?」
タケルの顔に困惑が生れた。
「いや、僕の場合は違う。自分がやりたい研究が好きなだけ出来る環境だ。だからその点では有難いと思ってる。でも普通の人にとっては望ましい場所じゃあない。
ヒミコはいつでも何処へでも行ける。想像してごらん。たとえば恋人を得て、子供たちと暮らす幸せな自分を。」
「そうね、恋人はさすがに思い浮かばなかったわ。」
ヒミコは「カレーの風味」の仇をとったつもりだったが、タケルは手応えと感じたらしい。
「恋人が女子の一番の関心事だよ。敷島さんの所へ移住したらすぐに実現すると思うよ。どうだいワクワクするだろう。」
「お兄ちゃんが言うのなら考えてみるわ。」
しつこさに負けただけで本心では無かった。
「今月末と六月に衛星ロケットを打ち上げる。それが済んだら移住すれば良い。その時は僕もニュージャパン島まで付いて行ってあげるよ。」
「まるで私が邪魔みたいね。」
ヒミコは兄が笑うと思ったが違った。
「僕はヒミコの幸せをいちばんに考えているんだよ。」
その言葉にそぐわない深い悲しみがタケルの顔に現れたのだ。唐突で意外な表情にヒミコはひそかな衝撃を受けた。兄は何か重大な事を私に隠している、と直感した。
(さあヒミコ、行動は慎重に。そうしないと秘密に辿り着けないよ。)ヒミコはさり気なく口を開いた。
「お兄ちゃん、私を地下の研究室に入れるようにして。国外に移住するにしても、お兄ちゃんの研究室をよく覚えておきたいの。」
タケルが少し首を傾げてヒミコを見つめた。
「それは僕の一存じゃ決められない。他の研究者の考えもある。彼らは自分の研究についてデータを厳重に管理することを望んでいる。ヒミコの希望を伝えて、意見を聞いてみよう。それからで良いかな。」
「うん。」ヒミコは見透かされた思いでドキドキしながら答えた。
「じゃ僕はもう行くよ?」
「うん。またね。」屈託なさそうに小さく手を振ってみせた。
「よく解らないわ。」
ヒミコはこめかみに指をあてた。地階の研究室に入れないと知って驚き、その被害者意識から勝手に不安を膨らませただけなのか?
ドクター立花の思わせぶりな言葉は置くとして、研究データの厳重な管理の為という兄の説明は納得できる。それ以外に兄が何かを隠しているとして、およそ思い当たるものは無い。
ヒミコは一階の管理センターへ向かった。そこはヒミコが最も多くの時間を過ごす職場だ。そしてアースボーイのスペースも設けられている。AIロボ・アースボーイは複数の機器に同時にアクセスしてシステムの点検とアップデートを猛烈な速さでこなしていた。
ヒミコが近づいて声を掛けた。「有難う。お陰でお兄ちゃんと話が出来たわ。」
アースボーイの雪だるま形の顔に当たる部分に青色の小さな光が点滅して、子供のような声が聞こえた。
「どういたしまして。」
「ねえ、あの後すぐにお兄ちゃんから連絡が貰えたんだけど、あなたはその理由を知ってるわよね。」
「ヒミコに危険、と加えれば、最優先の通信として検知されるシステムになっている。ドクター・タケルによるものだよ。」
ヒミコは一気に顔や体が熱くなるのを感じた。
「まあ、そうなの。お兄ちゃん…!」
兄は私をこれまでと変わらずに気にかけてくれている、そう思うとヒミコは明るく、幸せな気分に満たされた。
「ヒミコ、UNのドローンを回収しないのか。」
「ああ、ちょっと待ってよ。今ね…、私はすごく嬉しいのよ。お兄ちゃんはやっぱり素敵だわ。」
「ヒミコの不安か疑問が解消された?」
ヒミコは真顔になった。不安が消えたかと問われると、それは心のどこかで燻っている。
「アースボーイ、量子コンピュータの開発がうまくいってないのじゃないかしら。それが原因で兄が疲れ果ててるのじゃないかと心配なのよ。」
「開発に関するデータは無い。」
「ああ、やっぱり。だから研究を暫くお休みすればと勧めたわ。」
「ヒミコは悲観的だね。」
「だって、いくつもの国が開発に成功したと言っても結局はスーパー・コンピューターに頼ってるじゃない。」
「量子コンピューターの開発は数十年まえに実現している。日本でもそうだ。」
アースボーイの意外な言葉にヒミコは驚いた。ではなぜ兄は何年も苦闘を続けているのか。意味が分からない。
「じゃあ、兄はとうに古くなった研究をしているの?」
「ドクター・タケルは汎用のウルトラコンピューターを開発している。それは古い研究ではない。
当初、量子コンピューターの開発には一つの目的があった。それは通信データの暗号化だ。これにいくつかの研究グループが成功し、スーパー・コンピューターを用いても解読に数百年かかるという暗号化を実現した。けれどその技術やデータが公表されることはなかった。わざわざ暗号を解読する手助けとなるデータを公開する者はいないはずだ。このころ量子コンピューターの開発における情報は機密扱いだった。でも今は違う。現在は技術情報を含めて公開と交流が行われている。
ドクター・タケルの汎用の量子コンピューターは当時の数百倍のビット数を持っているのが知られている。決して古い研究ではないんだ。」
「それを聞いて安心したような、そうじゃないような…。ボーイのAIも量子コンピューターと関係してるの?」
「僕のAIはとっても古いものなんだ。ニューラルネットワークを古典コンピューターに実装したもので、データ群から解答を出力するに過ぎない。ドクター・タケルのコンピューターが完成したら僕のAIはパンクしちゃうかも…。」
「ちょっと待って。全然わからないけど私は今のままのボーイが好きよ。だからコンピューターの話はもう止めて。」
アースボーイの小さな青い光と赤い光が忙しく点滅した。それを見てヒミコは自分が持ち出した事だと気づいた。
「UNのドローンを回収しないの?」とボーイは話題を変えた。
「たぶんバッテリーの不足で自動着地したと考えるけど、型が古すぎて交換できるものが基地にはない。機体を運搬する必要があるよ。どうする?」
ヒミコは考えた。基地で充電しても新潟に運ばなければならない。では新潟に戻すとしてその地の充電設備は保全されているのか。カミヤに聞けば分かるのか。
「アースボーイ、明日にしましょう。私はシャワーをして、眠りたいの。人間には大切な事よ。」
ヒミコは神谷からの着信が無いことを確かめてからシャワー室へ入った。五月といえどもまだ肌寒い。熱いシャワーが一瞬肌に痛く
しかし直ぐに快くなった。ヒミコは全身に湯を浴びながら何も考えられなかった。ヒミコの長い一日が終わろうとしていた。
(つづく)




