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短編

サイコパス令息を卒業した夫が、サイコパス伯爵と呼ばれるようになった理由

作者: 紺青

「うーん……」

「なにか不備でもありましたか?」


 夫のジェフリーが険しい顔をして、なにやら唸っている。

 メアリーは目の前のテーブルに目を走らせた。

 ころんとしたフォルムのフルーツ柄のティーセットや取り皿が用意されている。

 茶や菓子はまだ並べられていないが、テーブルセッティングに問題はない。


 今日は午後からジェフリーの弟夫婦とのお茶会だ。

 お茶会と言っても形式ばったものではなく、おいしいお菓子とおしゃべりを楽しむもの。


「メアリー、この椅子に座ってみて」

 

 ジェフリーが引いた椅子におとなしく腰かける。

 彼はその隣の椅子に座って、じっとメアリーを見つめた。


「ジェフリー様?」

「うーん……」


 ジェフリーは悩まし気な様子で立ち上がると、自分が座っていた椅子を持ち上げて場所を変える。

 今日用意されているのは正方形のテーブルで、角を挟んで隣り合った位置に椅子が移動した。そして、そこに腰を下ろした。


 また、メアリーを観察するようにじっと見ている。メアリーの夫の行動が少々おかしいのはいつものことなので、彼の結論が出るのを静かに待つ。

 ジェフリーの弟夫婦を招待した時間まで、まだゆとりがあるので大丈夫だろう。

 

 しばらく悩んだ後、結局椅子を元の位置に戻して深めに座った。


「メアリー、お願いがある」

「なんですか?」

「ここに座ってくれないか?」

「えっ? ジェフリー様の膝の上に、ですか?」

「……だめか?」

 普段、表情が動かないジェフリーの懇願するような目にメアリーは弱い。


「ジェフリー様が重たくなければいいですけど。あの、ドレスもかさばりますし……」

「かまわない。試しに座ってみてほしい」

「……」

 ジェフリーは悩みだしたら、結論が出るまで検証する。

 周りを見渡すと、使用人たちがお茶会の準備に勤しんでいるが、こちらを見ないようにしてくれている。

 その気遣いに感謝しながら、ジェフリーの膝の上にそっと座る。


「きゃっ」

 あまり体重をかけないように、浅めに座ろうとしたのにジェフリーが横抱きするようにしてメアリーを抱え込む。彼の整った顔が思ったより近くにある。


 空色にも銀色にも見える瞳でじっと見つめられて、鼓動が跳ねた。瞳と同じ艶のある空色の髪も、テーブルに並ぶ磁器のティーカップより美しい造形も、結婚して一年経っても慣れることはない。


「……やっぱり、これもダメだ」

「ジェフリー様がなにについて悩んでいるのかはわかりませんが、この体勢ではお茶が飲めないですし、重くて足がしびれてしまいますよ」

「……したくなる」

「え? なにがしたくなるんですか?」

 ジェフリーが小さな声でなにか呟いたので、思わず聞き返した。


「こんなに近くにメアリーの顔があると、キスしたくなる。お茶どころじゃ、なくなる」

「なっ!!」

「メアリーが聞き返すから、答えただけだ」

 片方の口の端がわずかに上がる。そんなちょっと悪そうな表情も似合うから、手に負えない。


「もう! ジェフリー様は冗談や嘘が上手くなりましたよね。からかわないで下さい!」

 親を通して出会い、婚約した頃は人の言うことを真に受けて、直球な物言いしかしなかったジェフリーだが、今ではメアリー相手にからかうようなことも言えるようになった。


「冗談じゃなくて、本気だって言ったら?」

 その言葉に、むくむくとやり返してやりたい気持ちが湧いてきて、目の前にある形の良い薄い唇に口づけする。

「それはお互い様ですよ」

 勝ち誇った気持ちで微笑むと、ジェフリーの切れ長の瞳に熱が灯った。

 メアリーを片手で危なげなく抱えながら、もう片方の手で後頭部に手を寄せると彼の方から唇を近づけてくる。そのまま食べられてしまいそうなほど、濃厚な口づけがしばらく続いた。


 婚約したばかりの頃はメアリーの名前を呼ぶことすらできず、結婚間近になってようやく唇を重ねるくらいのゆっくりしたペースだったのに。

 結婚して閨を共にするようになってから、こういった色事に長けていった。彼は何事も取り組めばすぐに習熟させることができる。

 

「ジェフリー様!!」

 昼間だと思えない濃密な時間からやっと解放されて、軽く睨みつけるとジェフリーの目尻が下がる。

「困ったな……したくなる。この先も」

 耳たぶを撫でながら、流し目でそんなことを言われたら女性なら誰でも腰が砕けるだろう。

 綺麗な人だとは思っていたけど、結婚してから醸し出される色気の暴力がひどい。


「わー、兄様、なにやってんの? 昼間っから。結婚して一年経つよね? ゲロ甘~。ほら、使用人たちも困ってるよ」

 思っていたより時間が経っていたのか、招待していたジェフリーの弟のミッチェルが妻のビアンカをエスコートして現れた。


「まぁ、仲が悪いより良いほうがいいんじゃないかしら? でも、他のお客様の前ではしないほうがいいかもしれないわね」

 からかうようなビアンカの言葉に、メアリーはすばやくジェフリーの膝から降りる。


「お見苦しい所をお見せしてしまい、申し訳ありません。今日はラファ君はお義母様に預けているのですか?」

「ええ、今日はお義母様とデートしてるの。だから、今日はのんびりできるわ。メアリー様とも顔は会わせているけど、なかなかゆっくり話せないし……」

 甥っ子のラファエルに会えないのは残念だが、ビアンカと話せる機会をメアリーも楽しみにしていたのだ。

 ビアンカは年下なのだけど、包容力があってメアリーは姉のように慕っていた。ふんわりとした外見を裏切るなかなか鋭い物言いも好きだ。


 次期侯爵夫人であるビアンカは子育てにも積極的に関わり、義母と侯爵家を切り盛りし、趣味の芸術活動に勤しんでいるのでなかなか忙しい。

 メアリーもビアンカも『美しい物を愛でる会』という美術や芸術を愛する淑女による派閥に属しているし、王妃殿下が発足した『国独自の磁器を作るプロジェクト』にも参加している。

 顔を合わせる機会は多いのだが、他の参加者がおしゃべり好きなので、ビアンカと個人的に話せるタイミングがなかなかない。


「私もビアンカ様にお会いできるのを楽しみにしていました。体調は大丈夫ですか?」

「ええ、順調に育っているわ。悪阻もないし、ラファエルの時と比べるとだいぶ楽かもしれないわ」

「それなら、よかったです。楽しみですね」

 元々ふくよかだったビアンカは第二子を妊娠中で、更に柔らかい雰囲気になった。


「二人ともいらっしゃい」

 ジェフリーには羞恥という感情がないのか、立ち上がって挨拶をすると顔色も変えずに自分の席に着いた。


「で、兄様。なにを悩んでいたの? どーせなにか悩んでて、斜め上に発想を飛ばして、膝上抱っこすることになったんだろ?」


 ジェフリー兄弟にはコーヒー、メアリーとビアンカにはおみやげに持ってきてくれたハーブティーが用意された所でミッチェルが切り込んで来た。

 ジェフリーと兄弟として長年過ごしてきただけある。ミッチェルは先ほどの騒動をまるで見ていたかのように言い当てた。


「常々思っていたんだが……椅子の配置が……」

「椅子の配置?」

「メアリーの隣に座ると気配や温度や匂いはわかるけど、顔が見えない。四角いテーブルで角を挟んで座ると顔は見えるけど、少し距離が遠くなる」

「はははっ。そんなことで悩んでたの? 爵位も継いで、伯爵様になったっていうのに?」


 ジェフリーは伯爵家の一人娘であるメアリーに婿入りした。優秀な彼はあっという間に領政を把握して、のんびりしたい父によって最近、爵位を譲渡された。

 伯爵家や領地の事に関しては優秀で、すぐに結論を出すし、行動力もある。

 彼が悩むのはだいたいメアリー絡みのこと。


「で、膝上抱っこになったんだ。イチャイチャしちゃうから、これも却下だね」

「ああ。メアリーの存在を丸ごと感じられるけど、顔が見えない」

「ところで、膝上抱っこは誰の入れ知恵? 父様? 母様? まさかメアリー義姉さんから?」

「違います!」

「お義父様に聞いた」

「「「え?」」」


 弟夫婦とメアリーの戸惑いの声が重なる。

 父はメアリーと同じく冷たく見える容姿をしていて体型も厳ついが、中身は凡庸で大らかだ。母は気さくで穏やかな人で仲の良い夫婦だ。でもメアリーの前では膝上抱っこどころか、イチャイチャしている所を見せたことがない。


「兄様、先代伯爵様になにを相談してるんだよ! はははっ。ほんとーに兄様っておもしろいよな~」


 膝上抱っこをジェフリーの弟夫婦に見られたことと、両親の隠された?実態を知って、メアリーをよくわからない疲労感が襲う。

 

「四角いテーブルではなくて、丸いテーブルにして角度を研究することにする」

「はははっ、くだらね~。でも、兄様は本気なんだよね?」

「当たり前だ。領地の視察に行くとメアリーに会えない。会える時は常に見ていたいし、気配を感じたい」

「相変わらず、すごい熱量ね」

 ビアンカが呆れたように相槌を打つ。


「ああ。メアリーがよく見られてかつ、気配や匂いや温度を感じられる角度を必ず探し出してみせる」

「最適解が見つかったら教えてよ。うちにも導入するから」


 ジェフリーは伯爵としての仕事は問題なく進められるのに、メアリーのことになるといちいち小さなことで悩みだす。

 夫のジェフリーがちょっぴり変わっているのは知っていたけど、まだまだ未知の引き出しがたくさんありそうだ。


「相変わらず意味不明な思考回路だけど、愛されてるのは確かね」

 ビアンカの言葉に、メアリーは頬を染めて小さく頷いた。



 ◇◇



「これは陶器製のタイル? この色使いすてきね! そういえば、すごいわね。王宮内に窯まで作っちゃうなんて! 王妃殿下も本気ね!」

「カシュール国のものね。聞いたことがない国だけど、独特の雰囲気でいいわね~。なんでも陛下が色々やらかしているから、話が通りやすいらしいわよ」

「色使いもいいけど、デザインもいいわね……。同じシリーズの花瓶やポプリポットもあるわよ。高貴な血が流れていても、ほんと男って色恋が絡むとバカになるわよね~」


 王宮内で不敬な言葉が飛び交いメアリーははらはらしていた。

 ジェフリーと婚約してから参加している『国独自の磁器を作るプロジェクト』のため、メアリーは王宮内の一室で打ち合わせをしていた。


 筆頭公爵家のパンサー夫人を含めて、高位貴族の高齢の夫人を中心とした気心知れたメンバー。

 情報通で富も権力も握っている彼女達に怖いものはない。

 資料をめくる手は止まらないが、大事な内容を話していたかと思うと、ゴシップが放り込まれる。メアリーは下手なことは言えないので聞き役に徹している。いつもははっきりと物を言うビアンカも置物のようにおとなしい。


 彼女達の軽口は、ほとんど事実だ。

 今代の王は凡庸な上に、優秀な王妃に劣等感を持っていて、色恋に逃げているともっぱらの噂だ。

 王妃が二人王子を生んでから、娶った側妃に夢中で、側妃の生んだ王女を猫かわいがりしているという。

 現在は王妃と立太子した第一王子が実質この国を動かしていると言っても過言ではない。


 幼い頃から心労の絶えない王妃の唯一の心の拠り所が陶磁器だったようだ。

 王太子が結婚し、王太子妃が第一子を出産して、将来への道筋が見えてきた所で、自分のやりたかったプロジェクトを立ち上げたのだ。


「素地の配合は完成していて、今は窯の試運転をしているんでしょう? 順調ね~。あの職人を引き抜けたのが大きいわね……」

「一体どこから連れてきたの?」

「えーと、お母様の従弟の奥様の叔父様の孫の娘の友達の隣の家の人です」

 資料を必死で追いながら、メアリーが答える。


 磁器は原料の採掘と配合が命だ。

 陶磁器は金になる産業なので、どこの領地も職人やレシピの流出はいくら王族の頼みといえども差し出したくない。


 メアリーが件の人物を知ったのはたまたまなのだが、鉱物や石に詳しい風変わりな男はなんと国内外にない新しい原料を発見した。シーウェル伯爵領に窯はないし、宝の持ち腐れになると王妃に情報を提供したのだ。

 その男は王妃と意気投合し、『国独自の磁器を作るプロジェクト』の主要職人として、ひたすら薄く美しいフォルムの磁器を作り出すことに執心しているらしい。


「ほんとメアリーちゃんを誘った時は、若い子の感性をちょっと借りられたらな~くらいの軽い気持ちだったけど、今ではなくてはならない存在ね。ありがと」

「ふふふっ。連れてきた私に感謝してくださいな」

 なぜかジェフリーの母であるブラッドフォード侯爵夫人が胸を張る。

 メアリーの陶磁器好きを知ったブラッドフォード侯爵夫人に連れられて『美しい物を愛でる会』という美術や芸術を愛する淑女による派閥に参加するようになったことから、こちらに参加することになったのだ。


「あら、お手柄はメアリーちゃんとジェフリー君を引き合わせたブラッドフォード侯爵様でしょ! ……うーん、今流通しているものは男性的で力強いものが多いわね。なんかピンとこないのよね」

 人前ではシーウェル伯爵と呼ぶが、気心知れたメンバーしかいない場では、ジェフリーも君付けだ。メアリーもジェフリーも子供か孫のような扱いなのだろう。

 

「王妃殿下主導だから、もっと優美な感じの方がいいわよね」

 原料、窯、職人が揃ったので、今の課題はデザインだ。

 王家の磁器セットということで、国内外にアピールできるようなテーマや特色が欲しい。

 手元にある国内外の磁器のシリーズについて、まとめた資料を前にみんなが考え込む。


「異国でも少ないですが、花や動物をモチーフにした可愛らしいシリーズもありますよ。資料の32ページ目です。異国の例や私達で考えたサンプル資料を添えて、王妃殿下にテーマとなるモチーフや色などを決めていただいて、さらにデザインを絞り込むという方向性でいかがですか?」

 陶磁器の話になると、メアリーの口数がとたんに多くなる。


「そうね……王妃殿下に決めていただくにしても、サンプルがあった方がわかりやすいわよね。王妃殿下のイメージで各々異国の例かサンプルを五個、次回までに提出すること。今日はそんなかんじでいいかしらね?」

 パンサー公爵夫人が場をまとめると、控えていた王宮の侍女達がお茶の準備を始め、場にほっとした空気が流れる。


「で、最近のジェフリー君はなにについて悩んでいるの?」

 メアリーを可愛がってくれているカーンズ侯爵夫人が、サーブされた鮮やかな黄色に金の装飾が入ったティーカップを観察しながら、何気なく問う。周りのおしゃべりがぴたっと止まり、メアリーに視線が集まった。


「テーブルで座る配置です。四角いテーブルで隣り合うと顔が見られないし、角を挟んで座ると顔は見えるけど、距離が遠いみたいで……。丸いテーブルの角度を研究して最適な角度を探しているみたいです」

 ジェフリーがいつもメアリーのことで悩んでいて、突飛な行動を取ることはこのメンバーには周知の事実だ。

 皆の好奇心を満たすまで、メアリーが解放されることはない。

 なるべく端的に淡々と説明しようとしたのに、説明している途中から「きゃー」と楽しそうな悲鳴が上がる。


「ジェフリー君、おもしろすぎ! メアリーちゃんへの愛が止まらないわね~」

「本当に我が息子ながら、メアリーちゃんへの執愛が怖ろしいわ。木工の家具職人を紹介しなくちゃね……」

 ブラッドフォード侯爵夫人がジェフリーによく似た美しい顔に悩まし気な表情を浮かべている。


「お茶会に行って、リアル膝上抱っこ見せられた私の気持ち、わかりますか?」

「ビアンカ様! その話は……」

 ビアンカの爆弾投下に、無難な所で話を終わらせようと思っていたメアリーの顔が引きつる。


「きゃー、見たい見たい! メアリーちゃん、今度ジェフリー君連れて来て実演して! 三パターン全部ね」

「じ、実演は無理です!」

 この話がこれほど盛り上がると思わなかったメアリーは戸惑う。

 プロジェクトの参加者は年齢層が高めなので、どんな話でも新鮮に映るのかもしれない。


「ジェフリー君たら、サイコパス令息だなんて言われていた影もないわね~」


『サイコパス』とは、共感性が低く、傲慢で自分さえ良ければいいという人のことを現す言葉だ。外見や性格などは個人差があるようだが、己の利益のみを追求し、外面が良く、相手をコントロールすることが得意な人物を現すようだ。


 ジェフリーは無口で無表情で、口を開けば直情的で失礼な物言いをする。

 当時流行っていた歌劇に出てくる『サイコパスな吸血男爵』に似ていることから、『サイコパス令息』などという不名誉なあだ名がついた。


 しかし、メアリーと婚約して幾分雰囲気が柔らかくなり、所構わずメアリーを溺愛する様子に『サイコパス令息』と呼ばれることはなくなった。


「でも、サイコパス令息を卒業しちゃったせいで、人気がすごいわね! 伯爵様になってからは特に」

「この前の夜会で、デビューした第一王女もジェフリー君にぞっこんみたいよ。サイコパス令息時代を知らない若い子に人気みたいね~」

「愛人狙いの下位貴族のご令嬢や、既婚者からもね」

「まさに、傾国の美男子ね! メアリーちゃんも大変だ!」


 メアリーは小さくため息をつく。

 寄って来る女性にはすげない態度を取り、いつもメアリーに気持ちを傾けてくれるジェフリーの気持ちを疑ったことはない。それでも、夫に女性が群がるのはあまり気分のいいものではなかった。


「ちょっと、相手を閉じ込めたくなっちゃう気持ちもわからないでもないんですよね」

「やだー、メアリーちゃん。実はヤンデレ? それならお薦めの小説があるわ。貸してあげる♡」

 メアリーの呟きを拾った義母がどこから取り出したのか、どっさりと恋愛小説を渡してくれた。



 ◇◇



「こうして、のんびり歩くのも久しぶりですね」

「そうだな」


 メアリーはジェフリーと共に大通り沿いの緑豊かな公園を歩いている。

 治安もいいし、道路が舗装されていて歩きやすく、整備された植樹の緑とその先に広がる青空が気持ちがいい。

 若い貴族令嬢や令息に人気のスポットだ。


 婚約していた時は、散歩してその先にあるオープンカフェでお茶するのが定番のデートコースだった。


「結婚してからは、なかなか出かけられませんでしたからね」

「そうだな」


 ジェフリーの空色の髪が太陽の光を受けて七色に輝き、すっきりしていて整った顔を引き立てる。

 その向こうに貴族令嬢の一団がいて、ジェフリーを見てきゃーきゃー騒いでいるのが目に入った。

 王宮でした会話が頭に蘇り、少し気分が下がる。


 自分から視線を外したメアリーに気づいたジェフリーが、騒いでいる一団に目を向けると、ひときわ甲高い歓声が上がる。

「なにがいいのか、自分ではわからない」

 ジェフリーは自分の頬を撫でながら、溜息をついた。


「ジェフリー様は顔もスタイルも抜群ですからね。人気があるのも仕方ないですね」

 その美しい顔を見上げる。憂いを帯びてまつ毛を伏せる様子も絵になる。

 毎日見ているメアリーでも、そうなのだ。煌びやかなものが好きな貴族令嬢にはたまらないだろう。


「害虫のように叩き潰せないから厄介だな……」

 ジェフリーはメアリーの腰に手を回して、足早に歩き出した。


 二人はどこに行っても注目の的だし、人が寄ってくる。

 ジェフリーには、伯爵という地位と外見に寄って来る女性が。

 メアリーには、王妃や高位貴族の夫人との縁を目当てにした貴族が。

 もう婚約していた頃のように互いだけを感じてゆっくりデートするのは難しいのかもしれない。


「メアリーも、だけど」

「私?」

「元々、綺麗だったけど、俺と婚約してからますます綺麗になった」

「そうですか?」

「結婚してからは、もっと」

「……ありがとうございます。ジェフリー様にそう言ってもらえると嬉しいです」

 ジェフリーはいつでも誉め言葉やメアリーを想う気持ちを言葉にしてくれる。心がふわふわして嬉しくて、少し強張っていたメアリーの顔に、自然な笑みが浮かぶ。


「……メアリーにも人がたくさん寄って来るし、閉じ込めたくなる」

 低い声でささやかれた瞬間、気付くと背面に大木があって、ジェフリーと彼の両腕に囲まれていた。

「えーと……?」

「外であんまり可愛く笑わないでほしい」

「……わかりました」

「あとできるだけ頬を染めないでほしい。瞳も潤ませないで」

「ジェフリー様といると自然とそうなってしまうんですが……。善処します」

 うれしくて緩んでしまう表情を、両手で引っ張って、なんとか真顔に戻す。


「ごめん、行こうか」

 エスコートのために差し出された腕に手を添える。

 気を取り直して歩き出したメアリーは強い視線を感じた。


 そこにはメアリーと揃えたような濃い紫の瞳と髪色をして驚いたようにこちらを見ている男性がいた。

 その男性がすごい勢いで迫って来たので、思わずジェフリーの背面に隠れる。


「あの……お名前を伺ってもいいですか?」

「人に名前を聞く時は自分から名乗るものだ」

「ああ、イヴァン・バルツァルと言います。あなたは?」

「口の利き方がなっていないな。なんの用件だ?」

「あの用件があるのはそちらの女性で……珍しい髪色だなと思いまして……」

「この国ではよくある色だが。独特のなまりがあるな。異国出身か。で、なんの用だ?」

 少し会話しただけで、ジェフリーはこの国の者ではないとわかったようだ。確かに服装や名前は異国風だ。


「え? せっかく会えたので少しお話できたらな、と。そこのカフェでお茶でもどうですか?」

「ただのナンパか。夫の前で堂々と妻を誘うな」

「ああ、そうなんですね。残念です。それではまた」

 へらりと軽薄そうな笑みを浮かべて、意外とあっさりと男は撤退した。

 確かに二人には人が寄って来るが、往来でこんな風に不躾に声をかけられたことはない。

 せっかく楽しい気分になっていたところに水をさされた気がした。


「家に帰るか?」

「伯爵邸で二人でのんびりお茶するのもいいですが、せっかくジェフリー様とお出かけする機会なので、行きましょう」

「そうか」

「こういったことにも慣れて行かないといけないでしょうし……」

「メアリー、無理はしなくていい。メアリーのペースでいいと思う」

「ありがとうございます」


 結婚するまでは、どこか自分への評価が低く落ち込みやすいジェフリーを気遣うのはメアリーだった。

 最近はメアリーの方が気遣ってもらっている気がする。

 それくらい彼に甘え切っているのだろう。もっと、しっかりしないといけない。


「カフェでは個室ですし、伯爵家のものとは違ったティーカップを見るのも楽しみなので」

「そうだな。テーブルの形状もチェックしよう」


 行きつけのカフェには、予約を入れてあったので人目に付かない廊下を通り個室に案内される。

 注文したものが給仕されて、二人きりになるとメアリーは、やっと一息つくことができた。


「ジェフリー様、あの……外で、あのようなことはちょっと止めてほしいというか……」

「それは無理かな。キスは我慢した」

 結婚前の王宮の夜会で、ジェフリーに壁に追い詰められて初めてキスした時のことを思い出して、メアリーの頬が染まった。

 あの頃と比べたら、ジェフリーは成長したのだろうか?

 でも羞恥の感覚が普通の人とはずれているような気もする。


「うーん……」

「メアリーが可愛いのがいけない。閉じ込めたくなる」

「気持ちはわかります。私も時々、ジェフリー様を閉じ込めたくなります。誰にも見られないように」

「お揃いだな」

「そうですね。そういう相手に重たくて狂ったような気持ちを向ける人のこと『ヤンデレ』って言うらしいですよ。お義母様に借りた小説で学びました」

「俺も読んでみよう」

「実行しないでくださいね」

「メアリー次第かな?」


 時々なら二人でどこかに閉じこもるのもいいかもしれない。


 ふいに目の前のティーカップの柄が目に留まる。

 白磁のカップに描かれているのは異国の自然の風景。

 見たことのない美しい景色を見ている二人が脳裏に浮かぶ。


「笑っているってことは、実行していいってこと?」

「いえ。二人きりで観光地で籠るのもいいかなぁって想像しちゃっただけです」

「それはいいな。計画は任せて」


 ジェフリーが乗り気なのできっと実行されるだろう。

 いつの間にか、胸のうちにくすぶっていたモヤモヤした気持ちが晴れていった。



 ◇◇



「なんでシーウェル伯爵家じゃなくて王宮なんですか?」


 メアリーと同じ濃い紫色の髪と瞳を持つ男が目の前でにこにこと如才ない笑みを浮かべている。口元にある黒子がどこか妖艶な雰囲気を放っている。

 大通り添いの公園で声をかけてきた男だ。あの後もメアリーが出かける先に姿を現していたイヴァン・バルツァルだ。

 話しかけられることはないけど、意味ありげな様子で見つめられていた。


「商人であれば、チャンスではないですか? この国の王族にでも高位貴族にでも接触するチャンスがありますよ」


 ここは王宮の面談室だが、一番外側にある宮の下位貴族や商人用のグレードの低い部屋だ。さすがに異国の商人を王宮の深部に入れるわけにはいかない。


「僕が興味があるのはこの国じゃなくて、あなたですからね」


 彼の言葉にメアリーの右側から冷気が流れる。

 シーウェル伯爵家に異国の商人からメアリーに会いたいと請う手紙が何通も届いた。調べたところ、本当に存在する商会でこの国ではあまり商いをしていないが、大国に本店を置く力のある商会のようだ。


 あまりにしつこいし、不意打ちで強硬手段に出られるのも怖い。

 かといってシーウェル伯爵家では、ジェフリーが乱心した時に止められる者がいない。

 パンサー公爵夫人に相談した所、メアリーは国家プロジェクトに参加している要人ということで王妃殿下の許可を取り、王宮の面談室とジェフリーを止められそうな騎士を借りることができたのだ。


「まぁいいです。場所は交渉に関係ないですからね」

「本題はなんだ」

 しびれを切らしたジェフリーが切り込む。

「シーウェル伯爵はお呼びしていないのですがね……。本当にこの国は遅れていますね。妻は夫の所有物だという認識なんですかね」

「メアリーは物ではない」

「はぁ。シーウェル伯爵は少し黙っていてもらえますか?」

「ジェフリー様」


 膝の上でぎゅっと握られた彼の手に、自分の手を添える。

 彼の手は少し震えていた。メアリーを心配してくれる気持ちはわかるが、まずはこの商人の要望を聞かないと話が始まらない。


「メアリー・シーウェル伯爵夫人、僕と契約して、うちの商会で働きませんか? うちの商会は世界規模だ。この国の小さな磁器のプロジェクト如き足元にも及ばない。大きな世界で力を試してみたくはありませんか?」


「お断りします」


「なぜですか? 聞いたことのない国だからですか? 僕が信用なりませんか? でも、僕や商会については調べたのでしょう? この国にある商会とは訳が違う。僕は確かにまだ半人前で、商会で正式に働いてはいない。でも、商会の後継ぎで身元も確かだ。父にも審美眼があると認められている」


「あなたの人となりや、商会は関係ないです。でも、お断りします」


「あなたは視野が狭すぎる。この国では女性が爵位を継げない、ただ家政を取りまわすだけ。どうせ今回の磁器を作るプロジェクトも王家の手柄になるだろう? あなたはそれでいいんですか? もっと広い世界を見た方がいい」


「私は現状に満足しています。あなたのお話はお断りします」


「女性も自立するべきだ」


「そこに私の幸せはありますか?」


「幸せなど目に見えないものはないのと同じだ」


「そもそもあなたが私を引き抜きたい理由はなんでしたっけ?」


「あなたの陶磁器への熱意、センス。そして、人脈ですね。特に磁器はこれから一大産業になる」


 ジェフリーほどではないけど、目の前の男もそれなりに整った顔をしている。

 どこか信用ならないような笑みを浮かべているのがマイナスだけど。


「それに、美しい紫。まるで僕と対のようだ。この国では珍しくないのかもしれないけど、我が国では見たことがない。顔立ちも整っているし、まるで人形のようではないか。磁器の広告塔にぴったりだ。連れて歩いたら、商談が次々まとまるだろう。王族や金持ちにオプションで夜のサービスをさせるのもいいかもしれない。あなたのように無機質な女を泣かせたいという手合いは意外と多いんだよ」


 隣のジェフリーの手元からピシッという音がした。

 そちらを見ると、ティーカップの持ち手の部分がカップから取れている。

 幸いなことにティーカップの中身は飲み干したのか、空だ。

 賠償という言葉が一瞬、脳裏に浮かぶ。


 よくよく見ると、王宮の窯で焼かれたティーカップの試作品だとわかって、胸を撫でおろす。

 カップにはビアンカが練習で絵付けしたぶさいくな猫が描かれている。

 ビアンカは草花の模写は上手いのに、なぜか動物を描くのは壊滅的に下手だ。


「シーウェル伯爵についても調べてある。この国の貴族令嬢が嫌いなのだろう? 我が国の女を適当に斡旋しましょう。みな自立していて、サバサバしている。肌は褐色で、髪は黄金色。奥方とは違って肉感的で夜も楽しめるぞ? どうせ、貴族の政略的な結婚で、夜の生活もない冷めた夫婦なのだろう?」


 はい、アウト。

 この男、商人――正確に言うと、ただの後継ぎでまだ仕事もしていないみたいだけど――失格じゃない?

 情報収集がお粗末すぎる。


 隣のジェフリーの手元を見ると、持ち手の無くなったティーカップが音もなく縦に二つに割れた。

 もう、切り上げる頃合いだろう。


「シーウェル伯爵家を出て、王妃殿下のプロジェクトを放り投げた私に人が付いてくると思いますか? 下手すると、この国との関係も悪化しますよ? 私一人で新しい場所で人脈や立場を作るほどのバイタリティはありません」


「僕が見込んだんだ。僕の下につけばもっと力を発揮できる。別にこんな小国と縁が切れてもどうということはない」


「私ががんばれる源は夫ですし、陶磁器よりなにより彼が大切なんです」


「愛だとか幸せだとかバカらしい。大事なのは金と地位と栄誉だろう?」


「メアリーはそんなものいらない」


「夫人を縛るのかい? 彼女に自由と富と力を。夫なら快く送り出したまえ」


「自由どころか、お前の奴隷だろ」


「それは、彼女次第かな? 食うか食われるかの世界なんだ。僕ごとき利用してのし上がればいい」


「全部、自分が満足するくらい持っています。あなたにとっては取るに足らない物だったとしてもね」


「じゃぁ、全部奪ったら付いてくるかい?」


 メアリーは立ち上がり、彼にそっと紙の資料を差し出した。


「……王妃殿下のおっしゃる通りですね。頭のおかしい人には言葉が通じない。考え方の違い、文化の違い。それだけではなく、言葉を重ねても分かり合えない人もいる」


 彼はメアリーの差し出した資料をパラパラ見ると顔を青ざめさせた。


「商人として半人前のくせに、ギャンブルにはまって借金だけは一人前みたいですね。裏側の大物にその紫の髪と顔立ちを気に入られて身を差し出せと言われたんですよね? それで、上手く言いくるめて私を代わりに差し出そうと考えたんですよね?」


 口をぱくぱくとさせるだけで、言葉の出てこない様子の男に畳みかける。


「確かにあなたの商会が店を構える国より、小国ですけど身元や裏事情を調べることぐらいできるんですよ。あなたを欲しがっている裏側の大物にコンタクトを取ることもね。私のちっぽけな人脈を使って」


 慌てて退席しようとした男を音もなく三人の騎士が囲んで剣を突きつける。


「なっ!!!」


「ああ、一つだけ。きっと、あなたみたいな人のことをサイコパスって言うんでしょうね。それではごきげんよう。もう、会うことはないでしょうけどね」


 表情が動かなくて、人の機微を読めず、冷たい物言いをするジェフリーは『サイコパス令息』と呼ばれていた。

 でも、ジェフリーはサイコパスなんかじゃない。


 本物のサイコパスは対峙した商人もどきのように、人当たりが良く、聞こえのいいことをいくらでも連ねることができるけど、その内面は極めて利己的で共感性の低い人のことを指すのだろう。


 「助けてくれ!」と往生際悪く叫んで口枷を着けられている。

 騎士に連れ出される男を、唇を引き結んだままメアリーは見送った。



 ◇◇



 王妃殿下にお礼と報告を言づけると、王宮を後にして伯爵邸に帰って来た。


 居室に入ったとたんに力が抜けて床にへたり込む。

 そんなメアリーを後ろからジェフリーが抱きしめた。

 震えているのはメアリーなのか? ジェフリーなのか?


 あらかじめ、ジェフリーには今日の筋書きを話した上で同席をお願いした。

 それでも怒りや恐怖は抑えられなかったみたいだけど。

 メアリーも誰かと言い争うことは苦手だ。

 でもきっと、メアリーと結婚して人間味を増したジェフリーに寄って来る女性も、王妃殿下のプロジェクトに参戦し人脈を着々と広げるメアリーに群がる貴族も増える一方だろう。

 これからもこうして戦っていくしかない。


「あの、ジェフリー様、この体勢だとジェフリー様の御召し物が汚れてしまいますから……」

 床にへたり込んだメアリーをあぐらの体勢で座っているジェフリーが背面から抱きかかえている。

「この体勢が一番メアリーを堪能できる」

「……そうですか」

「今日、がんばった」

「……そうですね」

 あの状況で手も口も出さないという約束をジェフリーは守り抜いてくれた。

 使用人たちの生あたたかい視線が送られている気がするが、今日くらいはいいだろう。

 メアリーの疲れた体にジェフリーの少し高い体温が心地いい。力を抜いてそのままジェフリーに身を委ねる。


「……ジェフリー様、頭を吸っていませんか?」

 頭になにか触れている不思議な感覚がして、ジェフリーに問う。

 それに答えることなく、ジェフリーのゆったりとした呼吸音だけが聞こえる。


「ジェフリー様、何度も言いますけど私は猫ではないですし、人間の髪の毛は汚いんですよ」

「吸ってない。メアリーは猫じゃないんだから、吸うはずないだろう?」

「本当ですか?」

「ちょっと髪に鼻を埋めて、頭に口づけして呼吸しているだけだ」

「だから……」

「やはり、後ろからだと顔が見えないのが難点か……。湯あみをした後なら、存分に嗅いで吸ってもいいんだろう? まずは湯あみだな」

「聞いてますか? ジェフリー様!」

「今日は待てが上手にできたから、ご褒美が必要だと思わないか?」


 ジェフリーのおねだりする顔にメアリーは弱い。

 なにも言えなくなったメアリーを横抱きにして立ち上がり、使用人たちに指示を飛ばす。

 まだ日も高いのに、湯あみの後に存分にジェフリーの好きにされたのは言うまでもない。



 ◇◇



 異国の商人もどきと対峙した数か月後、ジェフリーが大事な用があるからとせわし気に出かけるのを見送った後に、パンサー公爵夫人から迎えに行くと簡易的な言づけがあった。


 わざわざパンサー夫人自ら、伯爵邸に迎えに来たと思ったら馬車は王宮へと向かったのだ。

 王妃殿下のプロジェクトに参戦しているのは高位貴族のご夫人が多いので、事前に予定を調整して開催される。だから日程はだいぶ前から決まっているのが常だ。

 個人の邸宅ならともかく、王宮に急に呼び出されたことはない。


 王宮に着くとカーンズ侯爵夫人や王妃殿下のプロジェクトに参加している夫人達が十人ほど待ち構えていた。

「早く早く。もう、始まりそうよ!」

「え? え? 今日の趣旨はなんでしょう?」

 その中にはジェフリーの母や、ジェフリーの弟の妻のビアンカも当たり前のようにいる。


「あー、メアリーちゃんの髪色は目立つわね。隠さないと」

「そうね、あの子にはメアリーちゃんには内密にって言われてるから、連れてきたことが判明したら発狂するわ。このスカーフで覆えばいいかしら?」

「ああ、いいかんじね」

 メアリー以外は状況を把握しているようだ。

 メアリーの頭部をジェフリーの母がスカーフで覆って、顎の下できゅっと結ぶ。


「あの一体……今日はどういったご用件で呼ばれたのでしょうか?」

「しっ。メアリーちゃん、静かに」

「ジェフリー君に気づかれちゃうわ」


 メアリーを囲うようにして、一団は移動を始めた。

 たどり着いたのは、王宮の人通りの多い廊下だった。

 宮廷に勤める貴族や、お目当ての騎士や文官のいる令嬢などもよく通る場所。


 いつもより心なしか人が多い気がするし、一角に人が集まり始めている。

 ふと廊下を見ると、等間隔で木製の花台が置かれていて、その上に立派な装飾の花瓶が飾られているがなぜか花は生けられていない。

「あれは……」

「さすが、メアリーちゃんね。あれは今日の舞台のために設置されたのよ」

「舞台……?」

「先に言っておくと、あの花瓶も王宮の窯で焼いた試作品で、見た目は高そうだけど装飾も見習いが練習で入れたものよ」

「なんでそんなものが?」

 その光景は異様で、美的感覚に優れた王妃殿下が許可したとはとても思えない。

「王妃殿下の許可はちゃんと取ってあるから大丈夫。さぁさぁ、せっかくのジェフリー君の晴れ舞台だからね。特等席で見ないとね」


 視線の先にいるのは、メアリーの夫のジェフリーだった。

 人待ち顔で廊下に佇んでいる。

 彼の鬼気迫る雰囲気に、周りを取り囲む夫人や令嬢達も声を掛けられないようだ。


 一団が陣取ったのは特等席だけど、彼からは死角になる位置。

「さーあ、始まるよ」

 パンサー公爵夫人の言葉に一団は静かになった。


 そこへ通りかかったのは第一王女だった。


「あら、ジェフリー様。わざわざ王宮に見えたということは、遂に色よい返事をいただけるということかしらね? 特別に許可するわ。わたくしの私室に案内するわ」


 メアリーといる時とは違って、全てを凍てつくすほど鋭利な眼差しを彼女に向けた。


 ジェフリーが対峙するのはこの国の第一王女。

 今年成人を迎えた彼女は側室の子で、年の離れた娘を国王はたいそう可愛がっているという。

 その彼女が夜会で見かけて以来、ジェフリーに夢中になっているというのは、メアリーの耳にも入っていた。


 ジェフリーは幼い頃から同い年の公爵家の令嬢に付きまとわれていた。

 高位貴族や王族まで虜にしてしまうのも納得できるほどの美貌を彼は持っている。

 公爵家の令嬢は他に問題を起こして、大国の三十三番目の側室として嫁がされた。

 彼女が舞台から姿を消した後も、次から次へとジェフリーに群がる女性は湧いてくる。


「その必要はない。やんわりと断ってもわからないみたいだから、きちんと意思表示をしようと思って来ただけだ。話ならここでいい。王女殿下の気持ちには応えられない。以上だ」


 ジェフリーの端的な言葉に年若い王女殿下の眉が吊り上がる。

 小柄で華奢で王族らしく華やかな容姿をしている彼女は、自分の要求が通らなかったことなどないのだろう。 

 そうとう我儘で、各所で問題を起こしていると聞く。

 件の公爵令嬢は王の姪で、今度は娘。王は身内の女性を甘やかしすぎではないだろうか?


「簡単な話じゃない! 離縁して、わたくしと結婚すればいい話よ? 愛人になれとか不倫しろだなんて言っていないわ。 入り婿なのは知っているわ! お父様が伯爵位と領地をくださるそうよ。わたくしが妻になって、伯爵でいられる。悪くない話でしょ?」


 ガシャンッと物が割れる音がした。

 表情のないジェフリーが手近な花台に載った花瓶を床に叩きつけたようだ。

 少し王女殿下から距離はあったから、そこまで破片が飛ぶことはなかったようだが、護衛騎士たちが気色ばむ。


「きゃぁっ!! なにするのよ!! 気を付けなさいよ。いくらすると思っているの? ふふふっ、そうして退路を断ったのね? いいわ、持参金代わりにチャラにしてあげる。さぁ、わたくしの私室にいらして。書類をさっそく揃えましょう」


 護衛騎士の制止をものともせず、つかつかとジェフリーに近寄ると嫋やかな手を差し出す。

 ジェフリーはにべもなくその手を叩き落した。


「痛い! お前、不敬罪で罰するわよ! 王族をなんだと思ってるの!!」


「お前はイミテーションだ。この花瓶と一緒で。これの弁償など、伯爵家の財どころか俺の私財で賄える」


 ジェフリーは少しかがむと花瓶の破片を拾い上げた。

 その破片の先は鋭く尖っている。

 ジェフリーの不穏な雰囲気に、周りで見学していた貴族達から小さく悲鳴や声を呑む音が聞こえる。


「お前!! ……この話を断る気? 正気なの? 婚約破棄された傷物の元伯爵令嬢と若くて美しい王女。比べるまでもないでしょう?」

 

 当てこするためか、過去にメアリーが婚約破棄された話まで引き合いに出してくる。

 それにジェフリーの眉がぴくりと揺れる。


「ああ、比べるまでもない。俺の妻はメアリー、一択だ」


「この愚か者が!! お父様に王命を出してもらってもいいのよ!」


「愚か者はお前だ。お前は外見が整っていればなんでもいいようだな。俺のことなどなに一つ知らずに、見てくれだけで欲しいと言っているだけだろう?」


「そうよ。美しいわたくしに釣り合う男がなかなかいないの。お前の髪の色が気に入ったの。その女より美しい顔と均整のとれた体もね。全部全部わたくしのものよ! わたくしは王女なのよ!」


「お前も話が通じない系だな……」


「ほら、証人がこんなにたくさん。皆が見ている前で伯爵ごときが王族の要求を断れると思う?」


「ああ、ギャラリーがいるならちょうどいい。お前が求めるのがこの顔ならこの顔を切り刻もう」


 ジェフリーは不遜な笑みを浮かべると、花瓶の破片を頬に当てた。当てた先からうっすらと赤の線が滴る。

 隣にいるジェフリーの母に両肩を包み込まれた。そのぬくもりに正気を取り戻し、悲鳴を呑み込む。


「いやあっ!!! やめなさい! いくら自分の体だからって許さないわよ! ……それに、お前の妻だって、その顔に傷が付いたら見捨てるかもしれないわよ!」


「……わからない。メアリーもこの顔を気に入ってるから嫌われるかもしれない。でも、メアリーと離縁させられるくらいならこんな顔いらない」


 ジェフリーは微笑んでいるけど、目に生気がない。


「よく見ておけよ。王族が貴族院も認めた伯爵夫婦に割り入った挙句の果てに、自傷するのを」


「やめてやめてやめてやめて……」


 破片を頬に当てるジェフリーを直視できなくなったのか、ついには王女は手で顔を覆ってしまう。


「この顔をめちゃくちゃにしたあと、お前が気に入っているという髪も全て引き抜いて、永遠に生えてこないように毛根まで焼き尽くしてやる」


 ジェフリーの声は低いのに、辺りがシンとしているせいでよく通った。


「やめてやめてやめて……。狂ってるわ、この男。誰か止めて!! お願い!!」


 王女の命令に従おうとするけど、護衛騎士達もジェフリーの行動が読めずに動けないようだ。

 そこへ静かに現れたのは王妃殿下だった。


「あなたがしたことの結果でしょう? 目を逸らすんじゃない」


 王妃は王女の手を両手で掴むと、顔から外した。

 そしてその頬を両側から掴み、ジェフリーの方へ向ける。

 生気をなくしたジェフリーは相変わらず花瓶の破片を頬に当てたまま、鋭い目で王女を睨みつけている。


「欲しい欲しいと何でもねだって、臣下の信頼を損なう。王族の恥ね。あなたはね、やりすぎたのよ。今までは見逃されてきたけど、残念ながらもう見過ごすことはできないわ。あなたは白い塔行きよ。素行が悪すぎて他国に嫁に出すこともできない。そもそも陛下の血なのかも怪しいしね」


「そんな嘘よ! ちょっとお願いしただけじゃない! それなら、命令は取り消すわ! ちょっと結婚したいって言っただけなのに、白い塔行きだなんてひどいわ! それに、お父様が許すはずないじゃない!」


「あなたが数々の問題を起こすから、貴族院から嘆願書が来たの。臣下が付いてこない王族に意味などあって? 陛下は退位することが決まりました。我が息子は王太子として立派に政務をこなしているし、先日、王太子妃が男子を生みましたからね。陛下と側妃と親子仲良く北の塔で暮らすといいわ」


「いやよ! だって白い塔は入って三日で気が狂うと言われているじゃない!! 助けて! やめて。私は王女よ!!」


 王女の護衛騎士達が戸惑っている間に、王妃が引き連れて来た近衛騎士達がわめく彼女を捕える。

 引きずるように王女が連れて行かれるのを見送ったメアリーはジェフリーに駆け寄った。


「ジェフリー」

 メアリーが傍に寄ると、花瓶の破片を投げ捨ててメアリーを抱き寄せると周りを警戒した。


「メアリー、来ちゃだめじゃないか。危険だ。ああいう狂った女の嫉妬はだいたい女性に向かう」

「そうなんですか?」

「ああ。母様に借りた恋愛小説はだいたいそういう筋書きだった。あの女のことを相談したら、参考にと渡された」


 ジェフリーの母の好みはメアリーも知っている。ドロドロの愛憎劇が好みなので、さもありなん。

 今日の筋書きもお義母様と練り上げたのかもしれない。


「大丈夫ですか? ジェフリー様」

 ジェフリーの頬に走る赤い線を見つめる。

 見ていた時は深く刺さっているように見えたけど、上手く見せかけていたようで傷は浅いようだ。


「ああ、王妃殿下と事前に打合せしていたから。手は傷がつかないよう厚い皮の手袋もしている。芝居だから、大丈夫だ。でもフリだけでは本気が伝わらないから、頬の傷は仕方がないかな」


 あの不自然に並んだ花台と花瓶は、割るために置かれていたのだろう。王女の立ち位置を見て、破片の飛ばない位置にある花瓶を割るという手はずだったのだろう。


「無事でよかった。ジェフリー様」

 いつもは人前ではそんなことはしないけど、メアリーの方からきつくジェフリーを抱きしめる。

 

「ああ、落ち着くメアリーの匂いだ。なんでああいう女って臭いんだろう」

 たぶんジェフリーは猫にするようにメアリーの頭を吸っているのだろう。

 そんなこと気にならないくらい、ジェフリーの無事と王女に彼を取られなかったことに安堵していた。


「あらあら、お熱い事」

「いつもは人前でのイチャイチャを制止するメアリーちゃんが止めないから、止まらないわね」

「でも、これを狙ってメアリーちゃんを連れてきたんでしょう?」

「まさか、そんな。王女殿下を退場させるついでに、ジェフリーに群がる愛人候補達に、改めてジェフリーのメアリーちゃんに向ける狂ったような重い愛を知らしめようだなんて、思ってないわよ」

 横槍を撃退したことに安堵している二人に、ジェフリーの母とパンサー公爵夫人の声は耳に入らなかった。



 ◇◇



「はい、できました」


 王女殿下をジェフリーが撃退してから、シーウェル伯爵家に平穏な日々が戻って来た。

 ジェフリーの頬にできた傷を消毒して、傷薬を塗るのはメアリーの仕事だ。


「だいぶ、目立たなくなりましたね」


 ソファに座るメアリーの前に跪いて顔を差し出しているジェフリーの頬を確認する。

 ジェフリーがそのまま前に倒れ込んできて、メアリーの膝にぽすっと顔を埋めた。


「頭を撫でて欲しい」


 就寝前で肩の下まである髪は縛られておらず、サラサラと流れていく。

 空色のような銀色のような不思議な色合いをした髪を撫でる。


「ふふっ。今回はちょっと疲れましたね」


 色味や表情から冷たくて感情が鈍いのだと思われているジェフリーは繊細でとても優しい人だ。 

 元近衛騎士で体を鍛えていて、荒事にも慣れているが、必要なことだったとはいえ人や自分を傷つけることはすごく疲れることだっただろう。


 ジェフリーからは返事の代わりに、すーっと穏やかな寝息が聞こえる。


 メアリーはまだ膨らんでいないお腹をなでる。

 ジェフリーが形振り構わず解決する道を選んだのは、この子のためだろう。

 妊娠が判明して一カ月。まだ安定する時期には入っていないが、妊娠がわかってすぐ彼には伝えた。


 メアリーを不安にさせないために。心労をかけないために。

 王妃殿下の力を借りてまで早期にきっぱりと解決する道を選んだに違いない。


 寄って来る女への牽制も兼ねているのだろう。

 きっと、メアリーの懐妊の話が出回ったら愛人に立候補する令嬢があふれるだろうから。


 王女の事件以来、愛人候補の女性や秋波を送って来る女性はぱったりといなくなった。

 その代わり、『サイコパス令息』を卒業したはずの夫には『サイコパス伯爵』という不名誉な冠が付いた。


「サイコパス令息とかサイコパス伯爵とか言われているけど……」


 まだ存在も感じられない我が子に話しかける。


「あなたのお父さんになる人はちょっと変わってるけど、とても愛情深い人なのよ。会える日を楽しみにしていてね」


 メアリーの膝に頭を乗せて眠ってしまったジェフリーを使用人を呼んで、ベッドに移動させてもらわなければいけない。

 でも、あと少しだけ。

 ジェフリーの髪を撫でながら、今ここにある幸せをメアリーは味わった。

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