感染症
〈富士詣で功徳分かてよ寢し者に 涙次〉
【ⅰ】
* 時軸の場合と同じやうに、涙坐と護衛のぴゆうちやんは、面談の為、魔界に赴いた。肝戸は、各「思念上」のトンネルの場所を頭に叩き込み、どのトンネルがよく掘られて、通り易いかなど暗記してゐた。それもこれも、涙坐とぴゆうちやんに、快適に仕事をして貰ふ為である。運轉手として、これ程のサーヴィスはない。見上げたものである。
* 当該シリーズ第34話參照。
【ⅱ】
さて、涙坐。面と向かつた【魔】は顔色優れなかつた。尤も、魔界の住民が「顔色優れぬ」など、ざらにある。涙坐は從つて、その事は氣にしなかつた。のだが、これが後に仇になる。
面談の【魔】は「しやつくり【魔】」。いつもしやつくりをしてゐる他は、取り立てゝ目立つところのない、穏やかな【魔】である。彼は、涙坐の面談を心待ちにしてゐた。氣分の安寧、と云ふものを慾してゐたからである。言葉の譬へは惡いが、神經症患者と魔界の「下部」構成員は似てゐるのではないか。我知るところなく、何となく、叛社會的行いをしてしまふのは、神經症の我知るところなく、神經質な振舞ひをしてしまふのと、似てゐた。
で、「しやつくり【魔】」は人間界に出てもよい、と涙坐の判断があり、晴れて「百回栗男」なる(本人が付けたもの。別に巫山戲てゐる譯ではない)人間名を名乘り、更生生活を送る事となつた。この件は、めでたいだけで、別に何も涙坐を害するところはない。
【ⅲ】
ところが‐ 帰りの車中、涙坐はしやつくりが止まらない(しやつくりは感染する事はないのだが)。しかも、その姿が段々と掠れて、見え難くなつていつてしまつてゐる!「オ姉チヤン、透明人間ニナツタ!」ぴゆうちやん、びつくりしてゐる。仕舞ひには、涙坐の着てゐた服だけがクルマの後部シートに収まり、本人の姿が全く見えなくなつてしまつた! 肝戸「惡い病氣を伝染されたみたいですね、お嬢様」急ぎコンパクトをハンドバッグから取り出し、自分の顔を見てみる。透明だ。向かうが見える。
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〈雲海は靈妙なものとアンチなり自然あからさま神秘もなしに 平手みき〉
【ⅳ】
その儘カンテラ事務所入りした。最近では、涙坐に慣れたタロウは吠えなくなつてゐたのだが、「透明人間」では、吠えられても致し方ない。じろさんが出て來る。涙坐の着てゐた服が宙に浮いてゐる。「わ!!」
事情を説明した涙坐。テオは、「だうやら透明人間化としやつくりとは関連ありさうですねえ」と云ふ。惡戲つ子のやうな顔をしたカンテラが、「涙坐ちやん、服、脱いぢやへば」。涙坐「えー」‐「だうせ見えるもんぢやないし」カンテラは、さう云ひながらも、この涙坐の透明人間化が、カンテラ一味に利する事はないものか、冷徹に計算してゐた。
【ⅴ】
躊躇ひながらも(そしてヒック、ヒックと云ひながらも)、涙坐は服を脱いだ。透明である。何処に誰がゐるのかも、分からない。たゞしやつくりの音だけが、低く聞こえる。「テオ、ちよつと」とカンテラ。
「涙坐ちやんが透明人間化した時、何か役立つ面つてあるか?」‐「さうですねえ。やはり... 密偵の作業を補完する、つてぐらゐなら、今すぐ思ひ付くけど‐」‐「兎に角、かうなつた以上は、だうしてもいゝ方へと引つ張つて行かなきや...」
【ⅵ】
と、突然(何の前触れもなく)しやつくりが止まつた。徐々にだが、涙坐の裸身が現れつゝある。肝戸が、タオルケットを涙坐の肩に掛けた。「あら、ありがと」‐「いゝえ。お嬢様」
【ⅶ】
そんな譯で、この病氣、いつ迄續くものやら。他の者には伝染らないのか、他に躰を害するところはないのか、未知數だが、カンテラは「使ふ」つもりでゐる。さてさて‐
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〈ラムネ玉指彈に使ふ猛者もをり 涙次〉
涙坐にとつては飛んでもない事。だが、スパイとしての職務遂行に関はるのなら、彼女も聞く耳を持たねばなるまい。と、まあそんな譯で。さう云へば* 結城輪が「透明人間になりたい」つて云つてたのを思ひ出す作者であつた。お仕舞ひ。
* 前シリーズ第120話參照。