1章5話 はじめての戦い -トークンの代償-
黒い霧に包まれた田中が、ゆっくりと右手を持ち上げた。
その動きは緩慢で、まるで水の中を動いているかのようだった。
「田中、落ち着いて—」
大樹の言葉は最後まで続かなかった。
田中の右手が振りかざされ、大樹の胸元に向かって迫ってくる。
避ける暇もなく、その手が大樹の体に触れた。
衝撃が来るかと体が強張るが、黒い手は大気の体を—通り抜けた。
「っ!」
物理的な痛みはない。
すぐに接触した胸元を確認したが、外傷もない。
だが、通り抜けた瞬間、何とも言えない質力を感じた。
胸の奥から何かが引き剥がされるような、
今まで満たされていた場所にぽっかりと穴が開いたような虚無感。
『警告:ポジティブトークンが100ポイント減少しました』
スマートバンドの無機質な音声が、現実を突きつける。
「え?」
大樹は震える手でバンドを確認した。
今朝あれほど誇らしく光っていた『407ポイント』の文字が、『307ポイント』に変わっている。
一瞬で100ポイント。
一週間かけて稼いだトークンが、たった一度の接触で消えた。
「きゃー!」 「なんだよあれ!」 「逃げろ!」
教室にいた生徒たちが悲鳴を上げながら次々と廊下へ飛び出していく。
何人かは走りながらスマホを取り出し、この異常事態を撮影しようとしていた。
大樹だけが、その場に立ち尽くしていた。
シルバーランクの特権、今朝味わったばかりのあの優越感が、急速に遠ざかっていく。
田中—いや、田中だったものが、今度は左手を振りかぶった。
黒い霧を纏った腕が、斜めに振り下ろされる。
「くそっ!」
大樹は咄嗟に右へ転がった。
田中の手が空を切り、机を叩き壊す。
木片が飛び散る中、大樹は息を整えながら立ち上がった。
(逃げないと...このままじゃトークンがなくなる。せっかく手に入れたシルバーランクを失う)
その時—
「た...すけ...て...」
掠れた声が聞こえた。
黒い霧の奥から、まだ人間だった頃の田中の声が漏れている。
大樹の心が揺れた。
(頑張っても報われない、アンダー層への格付け...田中はどんな気持ちで毎日過ごしていたのだろう...)
実はずっと、助けて欲しかったんじゃないのか。自分がトークンを稼いでる間も、ずっと。
そんな風に考えると、今、助けるべきなんじゃないかと思えてくる。
でも、自分のトークンが...
考えがまとまらないなか、田中が動く。
今度は両手を上げて、こちらに駆け出してきた。
「田中!」
大樹は咄嗟に、前へ踏み出した。
そして思い切って姿勢を低く、田中の胴体にタックルで抱きつく。
「うわっ!」
黒いモヤに触れた瞬間、全身から力が吸い取られるような感覚に襲われる。
シルバーランクの優越感が、砂のように崩れていく。
体が重くなり、膝が震える。
『ポジティブトークンが50ポイント減少しました。残り250ポイント』
でも同時に、大樹は気づいた。
抱きついた箇所—田中の胴体部分の黒いモヤが、わずかに薄くなっている。
「モヤが...減ってる...?」
「大樹くん!」
声の方を見ると、理子が壁際でスマホを構えていた。
教室から逃げ出さず、この異常事態を冷静に観察・記録していたのだ。
「理子さん!危ない、逃げて!」
「待って」理子の声は震えていたが、その目は鋭く光っていた。
「私、昨日海外の論文読んでて...感情エネルギーの物質化に関する仮説理論があったの」
田中が大樹を振り払おうと暴れる。
大樹は必死にしがみつきながら叫んだ。
「今そんな話してる場合じゃ—」
「聞いて!黒いモヤはネガティブトークンの物質化。
反対の性質があるポジティブトークンで相殺できるはず。
でも単純な接触じゃ効率が悪すぎる」
大樹はようやく振り払われ、後方に転がった。立ち上がりながらスマートバンドを見る—残り250ポイント。
「もう150ポイントも減ってる!このままじゃ俺のトークンが無くなる!」
田中が再び襲いかかってくる。大樹は机を盾にしながら必死に距離を取った。
「理子さん!何か方法は—」
「賭けだけど...」理子がスマートバンドを操作し始めた。
「昨日の論文の応用を試してみる」
「早く!もう持たない!」
大樹は倒れた椅子を投げつけて時間を稼いだ。
田中はそれを黒い腕で払いのけ、着実に距離を詰めてくる。
「私のトークンを物質化する...理論上は可能なはず...」
理子のスマートバンドから、突然白い光が溢れ出した。
その光は空中で渦を巻き、やがて棒状のかたまりへと形を変えていく。
「できた!」
理子の驚きの声と共に、白く輝く棒が宙に浮かんだ。
長さは1メートルほど、表面には細かな光の粒子が螺旋を描いている。
「受け取って!」
理子が棒を投げる。
大樹は片手でキャッチした—その瞬間、温かい感覚が手のひらから全身に広がった。
「トークンの結晶化...まさか成功するなんて」
理子のスマートバンドを見ると、数字が激減している。
「でも私のランクも一気にブロンズに落ちちゃった」
田中が右斜め上から腕を振り下ろしてきた。
だが大樹には、その動きがスローモーションのように見えた。
「その動きはもう見慣れた!」
大樹は左に回避し、手にした白い棒を田中の右脇腹に叩き込んだ。
バシュッ!
光と闇がぶつかり合う音が響いた。
打点を中心に黒いモヤが晴れていき、その下から田中の制服が露出する。
田中の表情が一瞬変わった。
苦痛と安堵が入り混じった、まだ人間らしさの残る表情。
「う...おぉぉ...」
掠れた声が漏れる。
「効いてる!」大樹は希望を感じた。
「行けるかも!」
「急いで!」理子が叫んだ。
「多分その武器、長くは持たない!」
確かに、手にした白い棒は少しずつ光を失い始めていた。
時間を追うごとに、その輝きが薄れていく。
大樹は再びおにと対峙する。
田中を覆う黒いモヤは、右半身がかなり薄くなっている。残るは左半身と、そして—頭部。
二本の角が生えた頭部には、特に濃い闇が渦巻いていた。
「田中、もう少し耐えてくれ、もう少し—」
大樹は白い棒を構え直した。
これで本当に田中を救えるのか。
そして、自分のトークンはどこまで削られるのか。
でも今は、そんなことを考えている場合じゃない。
「行くぞ、田中!」
大樹は白い武器を握りしめ、自ら距離を詰めていった。