1章4話 世界で初めての鬼
朝6時。桃井大樹のEmoAIエージェントが、いつものように爽やかな声で起こしてくれた。
『おはようございます、大樹さん。昨日のポジティブトークン獲得量は47でした。軽音部での演奏が特に高評価を受けています』
ベッドから起き上がりながら、大樹は満足そうにため息をついた。47トークン―クラスでも上位の数字だ。
『現在の累計トークンは407ポイント。シルバーランクに到達しました。おめでとうございます!』
「え?」
大樹は飛び起きた。スマートバンドを確認すると、確かに『407ポイント』という数字が青く輝いている。
「やった!ついにシルバーランクだ!」
思わず声を上げてしまった。360トークンから一気に407トークン。昨日の軽音部動画が想像以上に反響を呼んだようだ。
『本日より交通優先レーンおよびエモーショナルボーナストラックの利用が可能です。快適な通学をお楽しみください』
大樹の胸が高鳴った。あの噂に聞く優先レーン、そしてAR演出付きの特別ルート。今日から自分もその世界の住人になれるのだ。
朝食もそこそこに家を出た大樹は、駅のゲートで初めてシルバーランク専用レーンへと向かった。通常レーンには既に列ができ始めているが、優先レーンはガラガラだ。
「すげぇ...これがシルバーランクの世界か」
改札を通ると、スマートバンドと連動して床に青いガイドラインが表示された。それに従って進むと、通常ホームとは別の、より広くて清潔なプラットフォームに出た。
電車が到着すると、大樹は息を呑んだ。窓がわずかに大きく、座席も通常車両より余裕がある。そして何より―
「うわっ!」
座席に座った瞬間、窓の外の景色が変わった。実際の都市風景に重なるように、幻想的な光の粒子が舞い、建物が虹色に輝き始めた。エモーショナルボーナストラック―AR技術による特別な景色演出だった。
「これは...すごいな」
感動に浸っていると、隣の席に誰かが座った。
「あら、大樹くんもシルバー到達?おめでとう」
振り返ると、同じクラスの猿山理子だった。ショートボブの髪に眼鏡、いつものフーディー姿。彼女のスマートバンドは、さらに深い青色に光っている。
「理子さん!君も?」
「私はもう600トークン超えてるわよ」理子はさらりと言った。
600ポイント。大樹の407ポイントをはるかに上回る数字だった。
「すごいな...どうやってそんなに稼いでるの?」
「データ分析して、情報発信とか。私の得意なことを活かしてるだけよ」
理子は窓の外のAR演出を眺めながら、ふと表情を曇らせた。
「でも最近、ちょっと気になることがあってね」
「気になること?」
「海外のSNSで奇妙な投稿が増えてるの。感情的になった人が突然倒れたとか、黒い影に包まれたとか」
大樹は眉をひそめた。
「都市伝説じゃなくて?」
「私も最初はそう思ったんだけど」理子はスマホを取り出した。「データパターンが妙にリアルなのよね。しかも現象に共通点がある」
「共通点?」
「低スコア層。月間100トークン以下の人たちに集中してるの」
理子の分析画面には、世界地図上に赤い点が散らばっていた。確かに一定のパターンがあるように見える。
「でも、感情的になったら影に包まれるなんて...」
「うん、現実的じゃないわよね」理子は苦笑した。「きっとストレスで幻覚でも見てるんでしょう。でも、なんとなく気になって」
電車は学校の最寄り駅に到着した。優先レーンから降りる乗客は少なく、大樹と理子はゆったりと改札を抜けた。
「じゃあ、また教室で」
理子は軽く手を振って先に行った。大樹は彼女の後ろ姿を見送りながら、なぜか胸騒ぎを感じていた。
学校に着くと、いつもと変わらない朝の風景が広がっていた。生徒たちが談笑し、部活の朝練に向かう者もいる。すべてが平和で、完璧な一日の始まりのようだった。
教室に入ると、いつものように田中が一人で机に伏せていた。
周りの生徒たちは、みなクラスメイトとの談話に勤しんでいる。田中の周りは、まるで目に見えない結界でも張られているかのようだった。みんな気にはしているのだろうが、どう声をかけていいか分からないのだ。
大樹は理子の話を頭の片隅に置きながら、田中に近づいた。
「田中、大丈夫?」
声をかけた瞬間、周りが急に静かになった。みな、田中を気にかけていたようで、その反応を窺っていた。
田中はゆっくりと顔を上げた。その目には、大樹が見たことのない種類の絶望が宿っていた。まるで深い井戸の底を覗き込むような、光の届かない暗闇。
「俺、もう一週間もポジティブトークンが0なんだ」
田中の声は掠れていた。スマートバンドを見つめる彼の手が小刻みに震えている。
大樹の胸が締め付けられた。ネガティブな感情はネガティブな思考を生み、さらにポジティブから遠ざかってしまう。そんな負のスパイラルに陥った人を、大樹は何人も見てきた。だから―
「まだ大丈夫だって!明日一緒にボランティアに参加して―」
大樹の言葉が途切れた。田中の表情が、一瞬で変わったから。
「人気者のキミに、俺の気持ちがわかるかよ...!」
その声には、これまで押し殺してきた怒りと屈辱が込められていた。教室の空気が急に重くなる。
「毎日トークンを沢山稼いで、シルバーランクだ何だって。俺なんか病院の予約取るのに3週間待ちだぞ」
田中の目に涙が浮かんだ。それは悲しみの涙ではなく、怒りの涙だった。
「ボランティア?一緒に?それで俺にお情けでポイント分けてくれるって言うのかよ」
大樹は言葉を失った。自分の善意が、こんなふうに受け取られるなんて。今朝体験したばかりのシルバーランクの快適さが、急に重い枷のように感じられた。
「違う、そうじゃ―」
「そうじゃない?じゃあ何だよ!」
田中が立ち上がった。机がガタリと音を立てる。
「俺がどれだけ頑張っても、どれだけ人のために何かしようとしても、全部空回り。AIは俺の感情なんて認めてくれない。なのにキミは息してるだけでトークンが湧いてくる」
教室が静まり返った。全員が息を殺して二人を見つめている。
大樹は気圧されていた。田中の絶望が、まるで自分のもののように感じられたから。承認されることの喜びを知っているからこそ、承認されないことの苦しみが痛いほど理解できた。
そんな時、教室にみくりが入ってきた。彼女のスマートバンドは、相変わらず眩しく光っている。
「おはよう!あ、大樹くん、シルバーランクおめでとう!」
みくりの明るい声が、教室の重い空気を一瞬だけ和らげた。でも、それは田中にとっては追い打ちでしかなかった。
「私ももうすぐゴールドなの。今朝で798。あと2ポイントで—」
「うるさい」
田中が小さくつぶやいた。でも、その声には今までにない重みがあった。
「え?」みくりが振り返った。
「うるさいって言ったんだ」
田中が立ち上がった。その動きは緩慢で、まるで重い鎖を引きずっているようだった。
「トークントークントークン...みんなそればっかり。俺の価値は、本当にこの数字だけなのか?」
そして気づいた時には、教室全体が異様な静寂に包まれていた。
田中のスマートバンドが、突然赤く点滅し始めた。
『警告:ネガティブトークン蓄積量が危険域に達しています』
AIエージェントの警告音が教室に響く。
「ネガティブトークン?」
「何それ?」
「聞いたことない...」
誰も聞いたことがないその言葉と、異様な警告音にクラスメイトがざわめく。
大樹は凍りついた。理子の言葉が脳裏をよぎる。『感情的になった人が黒い影に包まれた』―まさか。
そして次の瞬間、それは起きた。
田中の体から、うっすらと黒い霧のようなものが立ち上り始めた。
「な...なんだ...これ...」
田中の声が震えた。自分の手を見つめる。黒いもやが、まるで生き物のように彼の体を這い上がっていく。
細かな文字のような、記号のような、アルファベットにもひらがなにも見える黒の粒子が、田中の周りを旋回し始めた。
「田中!」
大樹が駆け寄ろうとした時、田中の体に劇的な変化が起きた。
肩幅が見る見るうちに広がり、腕が異様に太くなっていく。身長も10センチ以上伸びたように見える。そして頭頂部から、二本の湾曲した角がゆっくりと生えてきた。
「いやだ...俺...どうなって...」
田中の声は既に人間のものではなくなっていた。低く、響くような、洞窟の奥から聞こえてくるような声。
目の白い部分が煤けたように黒ずみ、瞳には赤紫の光が宿った。額の中央に、脈動する暗赤色のシンボルが浮かび上がる。
「きゃー!」みくりが椅子につまずきながら後ずさった。
「なんだよこれ...」後ろの席の理子が青ざめて壁に張り付いている。
教室後方では数人が押し合いながら扉に殺到している。
大樹だけが、その場に立ち尽くしていた。
これは都市伝説なんかじゃない。理子の分析は正しかった。そして今、世界で初めて―人が鬼になる瞬間を目撃している。
完璧な社会の、最初の亀裂。それは一人の少年の心の奥底から生まれ、今まさに現実のものとなった。
大樹のEmoAIエージェントが緊急警告を発する。
『危険事象を検知。通知を受けた方は速やかに避難してください』
黒い霧は渦を巻き、教室の天井まで届こうとしていた。その中心で、もはや田中だった何かが、苦しそうにうめいている。
黒い渦が一瞬止まった。
その中で、角の生えた何かが大樹を見つめている。
まだ田中の面影を残した目が、助けを求めるように揺れていた。
友達の田中は黒い鬼に変貌していた―