1章3話 格差の亀裂
翌日の朝、大樹は昨日よりも早めに学校に着いた。
図書館での体験が頭から離れず、なんとなく落ち着かない気分だった。
教室に入ると、いつものように田中が一人で机に伏せていた。その姿は昨日と変わらない。
いや、よく見ると少し痩せたような気もする。
「おはよう、田中」
声をかけてみたが、田中は顔を上げなかった。
ただ、スマートバンドをちらりと見る仕草が見えた。
『警告 現在82ポイント 月末までに18ポイント獲得してください』
田中のEmoAIエージェントは残酷な現実を示していた。
あと2日で18トークン...28日間で82と考えるとかなり厳しい。
「大樹くん、おはよう!」
明るい声と共に、みくりが教室に入ってきた。彼女のスマートバンドは青く光っている—高スコア維持者の証だ。
「昨日の図書館の投稿、すごく反響があったの。一晩で48トークンも稼げちゃった」
みくりの興奮した声が教室に響く。48ポイント。田中の8日間の努力を、みくりは一つの投稿で超えていた。
「すげー、みくり。やっぱインフルエンサーは違うな」
「今月もうすぐ800トークンでしょ?ゴールドランク確実じゃん」
「うらやましい。俺なんてまだ200ちょっとだよ」
クラスメイトたちがみくりの周りに集まっていく。みんな彼女のスコアに憧れの眼差しを向けている。
田中だけが、机に伏せたまま動かなかった。
大樹は田中の方を見た。彼の肩が小刻みに震えているのが見える。怒りなのか、悲しみなのか、それとも両方なのか。
「田中、一緒に昼休みに—」
「放っておいてくれ」
田中の声は掠れていた。初めて返事をもらえたが、それは拒絶の言葉だった。
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昼休み。大樹は一人で中庭のベンチに座っていた。持参したサンドイッチを食べながら、田中のことを考えていた。
「何してるの?一人で」
振り返ると、みくりが立っていた。いつものように完璧にセットした髪と、トレンドの服装。彼女の存在自体が、この学校の華やかさを象徴しているようだった。
「田中のことを考えてて」
「ああ、田中くん」みくりは隣に座った。「可哀想よね。でも仕方ないじゃない。努力が足りないのよ」
「努力が足りない?」
「だって、私なんて毎日3時間はコンテンツ作りに時間使ってるもの。写真撮影、動画編集、フォロワーとのコミュニケーション。田中くんは何してるの?」
みくりの言葉は正論だった。確かに彼女は人一倍努力している。でも、大樹には何か引っかかるものがあった。
「でも、田中だって頑張ってると思うよ。ただ、結果に結びついてないだけで」
「結果に結びつかない努力って、努力って言えるの?」
みくりの質問に、大樹は答えられなかった。
その時、中庭の向こうから大きな声が聞こえてきた。
「だから何度も言ってるでしょ!僕は悪くない!」
見ると、田中が担任の先生と話をしていた。いや、話というより一方的に訴えているようだった。
「社会システムがおかしいんです。なんで僕が努力しても、誰も認めてくれないんですか」
田中の声は次第に大きくなっていく。周りの生徒たちが注目し始めた。
「田中くん、落ち着いて。君の努力は理解してるよ。でも—」
「理解してる?嘘だ!先生だって僕のスコア見て、問題児扱いしてるじゃないですか」
担任の先生は困惑していた。確かに、今の時点で82ポイントという数字は、教師としても対応に困る状況だろう。
「みんな僕のことバカにして、同情して、見下して…。でも誰も本当に理解なんてしてくれない」
田中の声が震えていた。
「僕だって人のために何かしたいんです。でも何をやっても、AIは認めてくれない。クラスメイトは離れていく。家族だって、僕のスコアを心配してる」
大樹は腕に力を込めた。
自分がしてやれることはなにかないか。
その様子をみてみくりは...
「何かするつもりなら、やめた方がいい。今の田中くんに何を言っても、逆効果よ」
「でも—」
「あなたが声をかけることで、田中くんはもっと惨めな気持ちになるかもしれない。好成績のあなたに慰められるなんて、プライドが許さないでしょうね」
みくりの指摘は的確だった。善意で近づいても、スコア格差がある限り、それは上から目線の同情にしか見えないかもしれない。
田中は突然、その場から走り去った。担任の先生が追いかけようとしたが、見失ってしまった。
午後の授業中、田中の席は空いたままだった。
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放課後。大樹は軽音楽部の活動に向かった。いつものようにギターを手に取り、練習を始める。でも、今日は集中できなかった。
「どうしたの?いつもより元気ないね」
部長の先輩が声をかけてくれた。
「ちょっと、友達のことで」
「友達?」
「田中っていうクラスメイトがいて。ポイントが全然稼げなくて、すごく落ち込んでるんです」
先輩は少し考え込んだ。
「難しい問題だね。でも、君ができることは限られてる。まずは自分のことをしっかりやることじゃないかな」
その時、部室のスクリーンに緊急ニュースが流れた。
『感情トークン制度に関する抗議デモが各地で発生。低スコア層の不満が高まる』
ニュース映像には、プラカードを掲げた人々が映っていた。
「不公平なシステムを廃止しろ」「人間の価値は数字じゃない」「格差を生む制度に反対」
大樹は画面を見つめた。完璧だと思っていた社会に、こんな不満を持つ人たちがいるなんて知らなかった。
「最近こういうの増えてるんだってさ」
先輩がつぶやいた。
「システムから弾かれた人たちの反発。まあ、仕方ないけどね」
仕方ない。本当にそうなのだろうか。
「でもさ」別の部員が口を挟んだ。「俺たちにはどうしようもないよな。自分のことで精一杯だし」
「そうそう」先輩が頷いた。「大樹も悩んでる場合じゃないぞ。昨日の動画のバズり、今日の動画で超えていこう!来月はみんなでシルバー到達だ!」
部員たちが盛り上がる中、大樹だけは複雑な表情を浮かべていた。
(そうだ...人のことで思い悩んでも、仕方ない。今は、シルバーランク到達という大事な目標があるのだから...)
でも、心の奥で小さな声がささやいていた。本当にそれでいいのか、と。
大樹はギターを抱え直し、練習を再開した。音楽に集中することで、その小さな声を紛らわせようとした。
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その夜、大樹は昨日借りた『星の王子さま』を読み返していた。
『大切なものは目に見えない』
この言葉の意味を、田中の絶望した顔を思い出しながら考えていた。
感情トークンという見える化された価値。分かりやすくて、正確で、これ以上ないシステムだと思う。
でも、見えないところにある価値は本当にないのだろうか。
田中の努力、彼の想いや気持ち—それらは本当に無価値なのか。
『360ポイント』
スマートバンドの数字が、今の大樹のスコアを示していた。
でも、昨日図書館で感じた何か、今日田中を見て感じた違和感—それはこの数字には表れない。
明日も田中は学校に来るのだろうか。
来たとしても、また一人で机に伏せているのだろうか。
大樹は本を閉じて、ベッドに横になった。
明日こそは、田中に何か声をかけよう。
スコアなんて関係ない。同じクラスの仲間として。