1章2話 目に見えないもの
授業が終わると、大樹は軽やかな足取りで教室を出た。
次は昼休み、そして午後は自由時間だ。
廊下を歩きながら、大樹は昨日の軽音動画のことを思い出していた。
1万再生、2000いいね、そして何より温かいコメントの数々。
45ポイントという数字以上に、自分の音楽が確実に人の心に届いている実感が嬉しかった。
『大樹さん、本日のポイント獲得機会をお知らせします』
EmoAIエージェントの声がスマートバンドから響いた。
『シルバーランク到達まであと50ポイントです。
図書館でのボランティア活動への参加で1-3ポイント獲得の機会があります』
「図書館か...」
一瞬思考し、大樹は図書館の方向へ足を向けた。
別に今すぐシルバーランクが必要というわけではないが、コツコツと積み重ねることが大切だ。
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図書館に着くと、入り口付近に小さな案内板が出ていた。
『図書整理ボランティア募集中 書籍の分類・整理作業のお手伝い』
「やってみようかな」
大樹は受付に向かった。
扉を抜けると、受付カウンターに立つ司書の先生が笑顔で迎えてくれる。
「桃井くんですね。ありがとうございます。
返却された本の分類と、書庫への配架をお願いします」
案内された作業スペースには、返却されたばかりの本が山積みになっていた。
大樹は黙々と作業を始める。
分類番号を確認し、適切な場所に配架していく地道な作業だった。
書籍というものはもはや骨董品に近い。
ほとんどの書籍にはAI要約版が用意されて、必要な情報を効率良く収集することができる。
以前は教科書も全て紙で、教科ごとに用意されていたというから驚きだ。
今はAIが個々人に合わせたデジタル教材を用意し、自分のノートはボイスメモやメモアプリに蓄積されて、その質や量をAIが評価する。
紙の書籍を読む人は今でも一定数居るが、ほとんど道楽のようなものだった。
しばらく作業を続けていると、一冊の古い本が目に留まった。
『星の王子さま』—確かAI要約版を読んだことがある本だった。
何気なく手に取ってページをめくってみる。
「あれ?ここって…」
大樹は立ち止まった。
AI要約版では完全にカットされていた描写が、そこにはあった。
王子さまと薔薇の会話、何気ない日常の描写。
要約版では「重要でない」とされて削除された部分だ。
でも読んでみると、その「重要でない」はずの部分に、大樹の目を引く文章があった。
少しだけ読み耽る。
そこには作者が1文字ずつ紡いだ物語があり、それぞれに伝えたい意図が感じられた。
薔薇の気まぐれな要求も、王子さまの困惑も、一つ一つの描写に意味があるように思えた。
「要約だけじゃわからなかったな…」
大樹は思わずつぶやいた。
AI要約は確かに効率的だ。
重要なポイントを短時間で理解できる。
自身も、いかに効率良く知識を得て、社会の役に立つのかを考えれば、それが最善だと思っている。
でも、今大樹は、AIが選別した「重要」とは違う部分に目が止まっている。
やはり人間には非効率な部分があるのだろう。
一旦、そう思うことにした。
「何してるの?そんな古い本読んで」
突然声をかけられて、大樹は顔を上げた。
声の主は同じクラスの雉田みくりだった。
彼女もボランティア用のエプロンを身につけているが、その立ち振る舞いはどこか違っていた。
「あ、みくりさん。君もボランティア?」
「まあね」
みくりはスマホを手に持ちながら答えた。
「読書推進活動って感じでSNSに投稿するのよ。
図書館でのボランティア活動って、フォロワーにも好評なの」
雉田みくり。同い年でありながら、既に3万人のフォロワーを持つインフルエンサーだった。
彼女のライフスタイル投稿は常に話題になり、月間獲得ポイントはクラスで断トツの1位。
噂では500ポイントを軽く超えているという。
みくりのスマホの画面には、図書館での作業風景を撮影した写真が表示されていた。
確かにインフルエンサーらしい、完璧な構図と照明だった。
「この投稿で、もう12ポイント稼いだわ」みくりは満足そうに言った。
「夜までにもっと伸びれば、さらに20ポイントは期待できそう」
12ポイント。
大樹が地道な整理作業で2ポイント稼ぐ間に、みくりは一つの投稿で6倍のポイントを獲得していた。
同じボランティア活動でも、影響力の差は歴然としている。
「今月もあと3日かぁ...」
みくりが少し考え込むような表情を見せた。
「今、750ポイント。最後の追い込みで800ポイントは確実に超えたいのよね」
750ポイント。大樹の360ポイントの倍以上だった。
しかも、みくりはまだ満足していないという。
「私なんて、朝起きてから寝るまで、どうやったらフォロワーが喜んでくれるか考えてるもの。
27日間の積み重ねが今の750ポイントよ」
みくりは自慢げに、どこか諭すように言った。
「それで、なんでトークンも貰えない古い本を読んだりしてるの? 時間の無駄じゃない? 要約もあるんだし」
大樹は言葉に詰まった。確かにその通りだ。
この本を読んでも、他者は誰も感動しない。
誰にも影響を与えない。トークンは1ポイントも生まれない。
「確かにそうなんだけど...」
でも、と言いかけて、大樹は言葉を見つけられなかった。
みくりの圧倒的な実績を前にすると、自分の漠然とした感覚なんて説得力がないように思えた。
「まあ、趣味としてはいいんじゃない?」みくりは優しく笑った。
「でも大樹くんも、もっと効率的にやればもっと稼げると思うわよ。軽音の動画、すごく良かったもの」
そう言いながら、みくりは再びスマホを取り出し、ボランティア活動の様子を撮影し始めた。
その手際の良さ、角度の調整、表情の作り方—すべてがプロフェッショナルだった。
「これで今日は30ポイントは堅いかな」みくりが満足そうにつぶやいた。
大樹は再び本に目を落とした。
『大切なものは目に見えない』—王子さまの有名な言葉が目に入る。
AI要約版でも当然この部分は残されていたが、ここに至るまでの長い道のりを知った今、その言葉の重みが違った感じられる。
作業を終えて受付に戻ると、司書の先生が感謝の言葉をかけてくれた。
『社会貢献としてポジティブトークンを2ポイントを獲得しました』
EmoAIエージェントの通知が響いた。たった2ポイント。みくりの言う通り、確かに効率は良くない。
でも大樹は不思議と満足していた。ポイント以外の何かを得たような気がしていた。
それが何なのかは、まだうまく言葉にできなかったけれど。
『352ポイント』
帰り道、大樹はスマートバンドを確認した。
シルバーランクまで、あと48ポイント。
昨日投稿した軽音部の演奏がさらに伸びていて、順調にいけば月末のシルバーランク到達は確実だろう。
電車に乗りながら、大樹は今日のことを振り返っていた。
みくりとの会話、古い本との出会い、そして言葉にできない感覚。
この完璧な社会で、自分は何を考えているんだろう。
そんなことを思いながら、大樹は明日への期待を胸に電車に揺られていた。