1章1話 トークンの価値
----序章から2日前----
「かつて人間の価値は学歴や収入、社会的地位で測られていました。
しかし現在では、他者にポジティブな感情を与える能力—すなわち感情トークンの獲得量が、社会での位置を決定する最重要指標となっています」
AIホログラム講師の穏やかな声が教室に響く。
午前10時15分、今日2コマ目の『現代社会とAI技術』の授業だ。
桃井大樹は前から3列目の席で、いつものようにスマートバンドを気にしながら講師を見上げていた。
『350ポイント』
今月の累計スコアを確認して、大樹は心の中でガッツポーズを取った。
授業出席保障の60ポイントを除いても、自力で290ポイントも獲得できている。
昨日の軽音部演奏動画が予想以上にバズって、一気に45ポイントも稼げたのが大きかった。
シルバーランクまで、あと50ポイント。
今月中の達成が現実的に見えてきた。
「では皆さん、今月のポジティブトークン獲得状況を確認してみてください」
ホログラム講師の提案に、教室のあちこちで手首のデバイスが光る。
クラスメイトたちが自分のスコアをチェックし始めた。
「やった、250ポイント超えた!」
「うーん、まだ180か...」
「300に届きそう!今月頑張ってる!」
明るい声が教室に飛び交う。
みんな自分の数字に一喜一憂している。
350ポイントという数字は、クラスでもかなり上位だろう。
大樹は少し誇らしい気分になった。
「素晴らしいですね。
皆さんの努力がしっかりと数値に表れています。
では感情トークン制度について、改めて詳しく学んでいきましょう」
ホログラム講師の手が宙に浮かび、教室前方の壁面に鮮やかなランク表が投影された。
ブロンズ(100-399pt)- 標準市民
シルバー(400-799pt) - 快適生活層
ゴールド(800-1499pt) - 優遇生活層
プラチナ(1500pt以上) - 特権階級
そして画面の下部に、小さく表示される文字。
アンダー(100pt未満) - 制限対象
大樹の視線はシルバーランクの説明に釘付けになった。
交通優先レーン、エモーショナルボーナストラック—あの快適な通学を、毎日体験できるようになるのだ。
「学生の皆さんには、将来の社会貢献者育成への投資として、授業出席による保障ポイントが設定されています」
新しいスライドが表示される。
高校生:授業出席により月60ポイント保障
卒業後:月100ポイント以上の自力維持が必要
「つまり、卒業と同時に授業保障がなくなり、自力で月100ポイント以上を稼ぐ必要があります。
これが社会人として最低限の条件となります」
教室がざわめいた。
月100ポイント—これに満たなければ、普通に暮らしていくのも困難になる。
一方で大樹の自力分290ポイントは、その基準を大幅に上回っている。
自分なら社会人になっても全く問題ないだろう、と大樹は自信を深めた。
「感情トークンによる社会優遇制度をご覧ください」
新しい映像が映し出される。
エモーショナルボーナストラックを走る電車の窓から見える美しい景色、AR演出で彩られた幻想的な空間。
病院での優先予約システム、大学の推薦入試枠、そして憧れのCompact Go Scooter—すべてはが色鮮やかに、魅力的に紹介されている。
「シルバーランクでは、交通機関の優先レーンに加え、特別なルートを利用できます。
AR演出付きの美しい通学体験が、毎日の生活を豊かにしてくれるでしょう」
(あと50ポイント...!)
大樹の胸が高鳴った。
昨日の軽音部演奏動画は1万再生を突破し、コメント欄には「感動した」「涙が出た」「ありがとう」といった温かいメッセージが並んでいた。
AIが「他者への真の感動提供」と判定したからこその45ポイント。
自分の音楽が、確実に人の心に届いている証拠だった。
「一方で、このシステムには注意すべき点もあります」
ホログラム講師の表情が少し曇った。
「卒業と同時に授業保障が終了するため、学生時代に十分な実力を身につけられなかった場合...」
画面にアンダー層の生活が映し出される。
制限された交通機関、長期間の医療予約待ち、就職活動での困難。
「月100ポイント未満の成人は、様々な社会的制限を受けることになります」
教室がざわめいた。
不安そうな表情を浮かべる生徒もいる。
「ただし」講師の声が明るさを取り戻した。
「まだ十分に力がついていない場合は、大学に進学することで猶予期間を得られます。
大学生には授業出席により月40ポイントを確実に獲得できます」
新しいスライドが表示される。
大学生特別支援制度
- 授業出席保障:月40ポイント
- 自力目標:月60ポイント以上
- 合計目標:月100ポイント達成
「つまり、大学在学中に自力で月60ポイント以上を安定して稼げるようになれば、卒業後も安心です。
高校卒業時点では月100ポイント全てを自力で稼ぐ必要がありますが、大学では段階的に実力を伸ばすことができるのです」
教室に安堵の空気が流れた。
「皆さんも今の段階で、自分の進路をしっかりと考えてみてください。
現在の実力を見極めて、最適な道を選ぶことが重要です」
講師が生徒たちを見回した。
「自力で月100ポイント以上を安定して稼げる自信がある方は、高校卒業後すぐに社会人になる道もあります。
まだその水準に達していない方は、大学で4年間かけてじっくりと実力を伸ばしましょう。
大学在学中は、月60ポイントの自力獲得ができれば生活が維持できます。
その間に月100ポイントレベルまで成長することを目指してください」
講師は続ける。
「このシステムは誰もが平等にチャンスを得られる仕組みです。学歴や家庭環境に関係なく、他者に感動を与える能力があれば、社会で高く評価されます」
確かにその通りだ、と大樹は実感していた。
軽音部の活動、SNSでの発信、友達との交流—すべてが自分の価値として認められている。
努力すれば必ず報われる、公平で素晴らしいシステムだった。
「皆さんは恵まれた時代に生きています。
感情トークンを通じて、誰もが社会に貢献し、正当に評価される機会を得られる。
これほど透明性があり効率的なシステムは、人類史上初めてのことです」
教室の生徒たちが頷いている。
大樹も同感だった。
350ポイントという数字が、自分の努力と価値を証明している。
卒業後も自力で月100ポイントなんて、今の調子なら楽勝だろう。
「それでは次に、感情トークンがどのように日常生活と結びついているか、具体例を見ていきましょう」
大樹はふと教室を見回した。
みんな希望に満ちた表情で授業を聞いている。
完璧な社会で、完璧な教育を受けている自分たちは、本当に恵まれている。
授業は和やかな雰囲気で続いていく。
輝かしい未来への希望に満ちた、完璧な日々だった。
少なくとも、大樹はそう思っていた。