9.彼らにとって人間は蟻同然のか弱い生き物
──……──
「懐かしいですね」
ふと和臣がそう言ったので、槇はぼんやりとしていた思考を両手でかき集め、青い琥珀糖を食べている和臣に尋ねた。
「何が?」
和臣は頭から海色の綿をぽんぽんと出しながらにこにこと微笑んだ。
「いえ。なんとなく思い出してて」
「担任だった頃のこと?」
「? どうしてわかるんですか?」
どうしてもこうしても、邪神には相手の思考に引っ張られるからだ。
これに耐えられる者でなくては邪神など務まらない。共感性の高い者はあっという間に共倒れになる。だというのに、恐ろしいことにこの男は邪神を卒なくやってのけていた。教師であったことが大きいのかもしれないが。
思考を見透かされてどこか挙動不審の和臣を、槇はじいっと見つめる。
「……先生ってさ」
「は、はい……」
「純粋だね」
「えっ」
ぽろりと琥珀糖を落とした和臣は、ハッとして「三秒ルール」と言いながらわたわたと拾い、口へ。
「それで、柳のことだけど」
「あ、はい」
「柳のことを好きなお姉さんに、人間との縁結びって──そこが実ったとして、柳は大丈夫なの?」
「わあ……」
何故か感嘆したように息を漏らす和臣は、そのままぱちぱちと控えめに手を叩いた。
「何よ」
「いえいえ……恋に鈍感な槇さんがそこまで人を思いやれるとは……二十分前から成長しましたね……」
「馬鹿にしてる?」
「喜んでいます!」
にこっと無邪気な笑顔が寄越される。
「柳さんは大丈夫ですよ」
「……そう? あれでいてかなり愛情深いやつだよ。ここまで人に化けて何度も会った人間なんていなかったのに、本当に大丈夫なの?」
人とあやかしはちがう。
彼らの生態を甘く見てはならない。
槇はそう先代に言い含められてきた。
彼らにとって人間は蟻同然のか弱い生き物だ、と。あの柳が人に恋をした。それだけで大事件だ。
しかし、和臣はまるで柳の友人のような顔で頷いた。
「ええ、大丈夫です。大人は上手に嘘をつけるんですよ。人にも、自分にも」
目を伏せて言う和臣の言葉には、見たことのない重みがあった。
槇は手を伸ばし──琥珀糖を摘んだ和臣の額に、バシッとデコピンをお見舞いした。
「ぁいたっ!」
「あー、スッキリした」
「ひ……ひどいです、槇さん! 何するんですか!」
「ごめん、神妙な顔して大人のふりするからイラッとしちゃった」
「正直ですね?!」
違う。
イラッとしたというよりも、ああいう顔をしている和臣を見たくなかっただけだ。
諦観した目で誰かを憐れむなど、似合わない。
自分の額をさすりながら、最後の一つを口に入れてもぐもぐしている和臣の頭から、ふわふわとメルヘンな色の綿が出てくるのを見た槇は、一人頷いた。
うん、先生はこうでなくては。
「まあ、とりあえずまどかさんが来たら、相談します」
「そうだね。そうして」
「ちゃんと槇さんのお相手も見てもらいますから心配しなくても……あ、その手はやめてくださいっ」
デコピン準備完了の槇の手を見た和臣が、バッと額を隠す。
悪戯心が湧き上がった槇は、そのまま和臣の掴もうと身を乗り出した。
「先生、隙あり」
「えっ、ちょっと」
必死で後ろへ逃げるように避けた和臣を追いかけた槇が、ぐらりとバランスを崩す。
「あ」
二人してドタッと畳の上に倒れ込んでしまった。
「いててて、槇さん、大丈夫ですか? さっきのはちょっとズルいですよ」
「……」
「槇さん?」
和臣の胸の上に頭を置いていた槇は、むくりと顔を上げた。
「先生、薄っぺらい」
「……、ひ、ひどっ!! ひどいです!! 助けたのに!」
「あー痛かった」
「どこが痛いんです?」
僕は細マッチョなんです、と喚いていた和臣が、ぴたりと止まって槇の頭へそっと手をおいた。
「おでこですか?」
「……セクハラ」
「えーーー!! ひどいー!!」
手を離した和臣が自分の顔を覆い、呟く。
「僕にはコンプライアンスがもうわからない……」
「時代とともに意識や価値観も変化していくからね。常にアップデートしてなきゃ」
「はい……そうします……」
「よろしい」
「……槇さん?」
「ハイなんでしょう」
「僕から降りてください……」
和臣の上に乗ったままの槇は、顔を覆う和臣の顔がやや赤いことに気づいた。
「セクハラ?」
「はい、セクハラです」
「気にしないで」
「時代とともに意識や価値観も変化していくから常にアップデートしなきゃだめなのでは?!」
「私と握手してくれるなら降りるけど」
「いやです」
つん、と返された槇は、ムッとして右手を伸ばす。
その手首を和臣に掴まれたと思った瞬間、視界がぐるりと反転していた。
「大人をからかうんじゃありません」
そう真面目くさった和臣に見下される。
手首を捕まれているが、痛くはない。目を丸くする槇は、感動したように呟いた。
「何……今の」
「……ん?」
「くるっ、て。くるっ、てなった」
「……あ、はい」
「ね、もう一回やって」
「……えー……」
「面白かった。なにこれ。合気道?」
「そうですか……なんかもうわかりました……」
和臣の目が、赤子を抱く父親のように生暖かくなる。
槇は左腕をぐわっと伸ばして和臣の背中を掴むと、掴まれたままの手首を和臣の方に押し返しながら、遠心力でぐるりと身体を回した。
「! できたっ!」
「……はい、できましたねー……」
「──あらあら。タイミングが悪かったかしら〜」
「!」
二人して声がした方へ頭を向ける。
開け放たれた障子と縁側の向こうの池の中から、ぷくっと頭を出したきれいな女性がいた。
この世のものとは思えない淡い桃色の光が、彼女を中心にスーッと広がっていく。
「まどか?」
「まどかさん」
二人が名前を呼ぶと、彼女は大きな桃色の目を瞬かせた。
「もうっ。ふたりとも〜。私に仲睦まじいところを見せつけるつもり〜?」
槇と和臣は顔を見合わせると、ぎこちなく解散する。
そうして二人してその場に正座して、この町の縁結びの女神──「まどか」を迎えたのだった。