8.二人しかいない教室
──……──
「天原さん、おはようございます」
声を後ろからかけられても、それが誰かわかる。
穏やかで曇りない声。
担任の、逢田和臣だ。
ひんやりと静まり返った廊下が騒がしくなるまであと二十分ほど。
爽やかな空気の中で、一番乗りの二人が向かい合う。
「おはよう、和臣先生」
窓の外には雪が降っていた。
槇の和臣への第一印象は「またすごい人がいるもんだな」というものだった。
新任教師らしい瑞々しさも、張り切るような力んだ様子も、自分の職務に希望を抱いているようでもなく、そこにただ立って、柔和な顔で「よろしくお願いします」と言えば、全員が彼は無害だと一瞬にして理解した。
あれは、槇が初めて先代の邪神である七緒に会ったときの感動に似たもののような気がする。
そこにいる。
それが当然のように。
初めてクラスを受け持った彼は、常に落ち着いていた。ただ穏やかなだけの大人かと思えば、何にでも柔軟に対応し、能天気に見えるほどいつもニコニコとしている。
彼を見ていると、人生なんて楽勝だと誰もが思っただろう。
他の教師陣よも程よい距離感で付き合い、可愛がられている大人。
「みなさん僕を名前で呼ぶですけど、どうしてですかね」
独り言のように、和臣が教室に入りながら言う。
槇は真新しい制服の膝丈のスカートを綺麗に折るように着席し、マフラーを外して畳み、鞄を開ける。
間抜けな音が二人しかいない教室に響いたので、槇はそれを打ち消すように答えた。
「八ヶ月経ってやっと?」
「ふふ。はい。皆さん僕が来てからずっとですよね。最近ようやく慣れてきて緊張もほどけたので……ふと疑問に思ったんです」
「嘘でしょ」
槇の驚きは、八ヶ月経ってようやく自分が生徒にまで名前で呼ばれていることを聞いてきたことではなく──彼が最近まで緊張していたと言ってのけたことだ。
「本当に? 今まで緊張してたの?」
「してましたよ〜」
呑気に言うので絶対嘘だと思ったが、和臣は雪がしんしんと降る外をやけに感傷的な目で見ていて、槇の心臓はどきりと奇妙な音を立てた。
禁断の果実の皮を剥いてしまったような、後ろめたさ。
「あのさ」
槇が沈黙に耐えきれずに口を開くと、和臣は窓から視線を逸らしてにこっと無邪気に笑った。
「はい」
「アイダ先生っていうのがもう一人いたんだけど……」
「? いましたっけ?」
「うん、ほら、カウンセラーの。新年度始まって1週間後に泥沼不倫がバレて大変だったじゃん」
常駐のカウンセラーの先生がいるので、皆さん安心して高校生活を送ってください、と紹介した校長に続き、若い彼女はこう言った。
──恋の悩みから、友達とのちょっとした喧嘩も、一人で抱え込まずにいつでも来て下さい。秘密厳守で寄り添います。
そう言った彼女の不倫相手が、親友の夫だったのだからなんとも言えない。
発覚の経緯も、彼女が登校する生徒に「おはよう」と校門で待ち構えて可愛らしく声をかけている最中に、親友であり彼氏の妻が乗り込んできたものだから、あっという間に全校に広まったという経緯があった。
槇があらましを教えると、和臣は神妙に頷いた。
「そんなことが……あったんですね」
「あったよ。すごい騒ぎだったよ。私は窓から見てたけど、声がここまで聞こえたから」
「それは中々……」
「まあ、それでなんとなく皆その名前を口にしたくなくて」
「名前を言ってはいけないあの人ですね……なるほど、そうでしたか」
納得したような和臣は、ふふっとそのまま笑う。
「天原さんは最初から僕にも親しく話してくださっていたから、皆がそれを真似したのかと思いました」
「……そう?」
「はい。不思議な人だなあ、と思いました。なんというか──視点が違う場所にいるというか。人間っぽくないなあ、と」
悪い意味でない。その穏やかな表情でわかる。
槇は嬉しかった。
和臣の言葉には、彼の感想以外の何も含まれていないからだ。
邪神になる自分への哀れみも、尊敬も、恐れのようなものも、何もない。
和臣は変わらず笑んだまま、一人頷いた。
「それに、人をまとめる力もありますよね」
「私が怖いだけだと思うけど」
「? そうですか?」
全くそう思っていない、という和臣の目は、先ほどとは違い澄み切っている。
「どちらかというと、癒し系では?」
「……」
槇は思わずぽかんとする。
びっくりした。
本当にびっくりした。
槇はここ数年一番の驚きをこの〝のほほん男〟がもたらしたことに更に驚いていた。
なんだろう。実は若い頃やんちゃしていてホストだったんです、と言われても驚かないほど──驚いた。その衝撃たるや。
しかし和臣は槇のその様子に気づいていないようで、ノートの整理をしながら更に続ける。
「声ですかね……落ち着いていて、ヒーリングミュージックを聞いてるみたいで」
和臣のうんうんと一人頷いている様子はどうみても本気だ。本気で言っている。
今まで「邪神らしい」「邪神に向いてる」「さすが天原の娘」「もうすでに邪神のよう」と言われもてはやされて育ってきた槇には「癒し系」など生涯無縁の言葉だと思っていた。
和臣は至って真面目に結論づける。
「なんか浄化されるといいますか……あれに近いですよね、うん……お経? みたいな?」
「……、ふ!」
槇は思わず吹き出した。先程までは慣れない褒め言葉に少し顔も熱かったが、それも一気に消し飛ぶ。
「……ふっ、お、お経……って……うち、神社なのに……」
槇は机に突っ伏した。
まだひんやりとしている鞄が気持ちいい。
「──笑うんですね」
そう声をかけられた槇は「なんて失礼な」と顔を上げたが、和臣は本気で驚いている顔だった。
自分もこんな間抜けな顔をして驚いていたのかと思った槇は、自分の顔を揉む。
大したストレスもないので不機嫌になってなどいないはずだ。
「そりゃ笑うよ。っていうかいつも笑ってるよ」
「あ……そうですよね。はい、そうでした」
「? なに?」
「いえ──ただ、天原さんにも可能性がいっぱいあると思うので、自分のやりたいことを見つけてみてもいいと思いますよ」
達観した笑みで言われるのは、槇にとってどこか柔らかい場所をちくりと刺されたような奇妙な痛みがあった。
それを無視して、槇は机に頬杖をつく。
「?」
和臣は自分を睨む槇に首を傾げて答えたが、槇は笑みだけを返した。
廊下が騒がしくなってくる。みんなの朝が来たのだろう。
槇はそれでも和臣を見ていた。
和臣も不思議そうに槇を見ている。
ふと思った。
この人に名前を呼ばれたら、どんな風に聞こえるのだろう。




