7.元担任と教え子の恋バナの始まり
「じゃあ……柳が人に扮して飛鳥と遊んでいるときにそのお姉さんと出会った、と」
槇が話を簡潔にまとめながら、戸棚から小皿を出す。
開け放たれた障子に広い縁側。その奥で池の水は摩訶不思議な光り方をしている。
水上の邪神の家は今日も長閑だ。
和室でちゃぶ台にざぶとんという古めかしいセットに座る和臣は、小皿を持つ槇を見上げた。
「ええ、そうです」
「それで? 和臣先生に頼むくらいだから、何度も会ってこじれてるわけだ」
「そうなりますね」
槇はストンと座ると、制服に忍ばせていた可愛らしい小袋から青い宝石を小皿へ出した。琥珀糖だ。
「わあ。今日のはまた綺麗ですね」
「芳の腕がどんどん上がってる……」
「お兄さんはお元気ですか?」
「うん。琥珀糖だけ毎朝届けに来てるよ」
「真面目ですね」
「公務員だしね」
皿に載せた透明度の高い青い小石は、繊細なグラデーションの中でキラキラと輝いている。
これを作っているのが学級委員長のような生真面目な男である兄の芳だということが槇は今も若干信じられない。
「ただきます」
「はい、どーぞ」
手を合わせた和臣が、壊れないようにそっと摘んで口元に運ぶ。
槇はそれを座椅子に座り、ちゃぶ台に頬杖をついてぼんやりとそれを眺めた。宝石を食べる男。彼が邪神だと、どこの誰が思うのだろう。
この呑気な風景の中で。
「んん、美味しい……」
おやつを心待ちにしていた子供のように表情を溶かし、こくんと飲み込む。
すると、そのくせ毛の頭から琥珀糖と同じ色の綿がぽんぽんと出てきた。小さなそれはコロコロと転がるようにして宙で踊り、炭酸の泡のように弾けで消える。
「和臣先生」
「? はい」
「柳はそのお姉さんのこと好きなの?」
槇が聞くと、和臣は穏やかな顔でゆるく頷いた。
「多分、そうなんだと思います」
「だろうね。あいつは生きとし生けるものを愛でる奴だけど、自分と人間が別の種族だということはしっかり自覚してるから、少しでも好意を向けられそうだと思った瞬間に逃げるはずだもん。こじれてるっていうのは、それでも会ってたからでしょ」
「おお……鋭いですね、槇さん」
「嘘とか誤魔化しとか、気づくよ普通」
「……」
にこりとしたままの和臣は、またゆるーく頷く。
「そうですね」
「柳が人間相手に恋に落ちるとはねー」
「いえいえ。まだその一歩前ってところです」
「何言ってるの。これ以上は良くないって思いながら知らない振りして会うことを続けてるんだから、最初から好きなのよ。認めたくないだけだって」
「……す、鋭いですね、槇さん」
「さっきも聞いたよ」
何故か悲痛な面持ちで琥珀糖を口に運ぶ和臣は、真剣な顔で琥珀糖を味わいながら「美味しいです」と呟く。
「いや。でも、男からすると、この微妙なラインをギリギリまで楽しみたいっていう欲望もあってですね」
「なにそれ」
「……」
「……」
「槇さんは、好きな人はいないんですか?」
純粋な疑問、とばかりに和臣が首を傾げる。
元担任と教え子の恋バナの始まりらしい。槇はけろりと答えた。
「いないよ」
「それは……邪神になりたいからですか?」
「いいや。今までいたことがないし、よくわかんないだけ」
槇の反応に、何故か和臣が焦り始めた。
「いやいやいや、あるでしょう。初恋とか!」
「ないよ」
「幼馴染でお隣さんのアイツとか、隣の席のアイツとか、ちょっと気になるアイツとか」
「天原所有の山に住んでるから隣家ないし、隣の席はいつも女子だったし、気になる人は──」
「じゃ、邪神になるために……って恋心を殺してきた思春期があったのでは?!」
「ないってば」
うんざりしたように返した槇を、和臣は信じられないような目で見た。それだけではなく、胸が痛むとばかりに手を当てる。しかし、その頭からはカラフルな綿がほわほわと出てきているので、間抜けな光景としか言いようがない。
「恋を知らない女子高生が……いるん、ですか……?」
「いるよ、ここに」
「ひいいいい」
「何その反応」
綿がパチパチと消えていく。それにハッとして、和臣はちゃぶ台に身を乗り出した。
「わかりました! 槇さんの縁のあるお相手をまどかさんに聞いておきますから、安心してください!」
「え、余計なことしないでほしいんだけど」
「怖がることはありません。恋とは美しく……世界がきらめくほど楽しく……そして儚く、狂気に満ち、嫉妬で身を焦がし、怒りで目が真っ赤になるような、そういうもので」
「怖いんだけど」
目を伏せて頷く和臣を、槇はふと止めた。
「先生、そんな激しい恋してたの?」
「……」
「……」
「いえ、そんな感じかなあ、という妄想です」
「なんだ。記憶がもっとはっきりしたのかと思ってびっくりしちゃった」
和臣の返事に、どこかで安堵する自分に首を傾げる。
ひやっとしたあの感覚は何だったのだろう。
槇はじっとちゃぶ台を見つめる。
「和臣先生さあ……」
「は、はい?!」
「覚えてるのって、どこまで?」
「はい……?」
「いや、だから、私の担任だった前のこと、覚えてる?」
「いいえ」
落ち着き払った否定の言葉に、槇はそっと視線を動かした。
和臣は槇の格好を真似するように、ちゃぶ台に頬杖をついてこちらを見ている。穏やかな目だ。
「僕の記憶は飛び飛びですが、一番古い記憶はあなたのクラスを受け持ったときですよ」
その後は? と聞きそうになった槇が口を閉ざすと、その目は慈しむようなものへと変わった。
槇の心を落ち着かなくさせる大人の目だが──
「なんかイラッとする」
「ふふ。酷いですね」
槇の暴言まで微笑んで受け止めるのだから、槇は呆れた。
そういえば、気になる人はいなかったのかという問いに答えるのを忘れていたが、うっかり口にしなくてよかったと思う。
──気になる人は、先生だったよ。
それは大した意味のない答えだったはずなのに、今はどうして躊躇うのだろう。




