5.神様と恋なんて起きるわけない
朝、紺色のセーラー服を頭の上から被るとき、何も思わないわけではない。
進学組は大学へ向かうための準備をしているだろうし、就職組は仕事へ向かっているだろう。
ところが自分はなんと二年前の制服に袖を通している。
言えることは一つ。
彼らには絶対に知られたくない。
槇は無表情で素早く制服を着ると、リボンの歪みも気にせずに黒いコートを羽織った。
ボタンに手を伸ばしたところで、部屋のドアが無遠慮に開く。
「おねーちゃーん、あのさぁ」
「飛鳥」
じろりと槇が睨むと、飛鳥が「あ」と槇の格好を見た。
妹の飛鳥は槇と同じ制服を着ているが、正真正銘の女子高生だ。現役だ。ピチピチの本物だ。
華やかで、瑞々しく、持っている自由がどれほど尊いものかを知らない、子供。なんかもうオーラが「私が本物のJKです」と言っている。
自分が二年前にこうだったのか記憶にない。
「……」
槇は素早くボタンをかけ、装備を終えた。
そんな心中を知らない飛鳥は、無邪気に姉の痛いところをつく。
「まだ制服着てたんだ。毎日コート着てるからそうだとは思ったけど……コスプレ感が否めないね……」
「仕方ないじゃない。着るしかないんだから」
槇は長い黒髪をコートの中から出す。
その様子に、飛鳥はしみじみと頷いた。
「そのクールで恥じ入らないところがお姉ちゃんだよ。うん」
「で、なんの用?」
槇がそっけなく聞くと、飛鳥はぴっと槇を指さした。
「リボン貸して。昨日友達とザリガニ釣りしてて、泥がはねちゃって。洗うのすっかり忘れてた」
「……あ、そう」
飛鳥は確か高校二年生はずだが、小学二年生の時と同じ事を言っている。
詳しいことには触れずに、槇は仕方なく装備を少し緩めると、曲がっていたリボンを引き抜いて渡してやった。
「ありがと。大好き」
「大好きなら入る前にノックして」
「あ。そうだ。昨日、蓮ちゃん来たでしょ。元気だった?」
飛鳥から出た名前に、槇は一瞬手を止める。
「なんで知ってるの?」
「え、だって手紙でそう言ってたんだもん」
「手紙」
「うん。手紙。文通相手なの。二年生の頃から」
文通。二年生。
その〝二年生〟が小中高どれかはわからないが、槇はまた聞かないことにした。手を動かし、コートをきっちりと着込む。
「おねえちゃん、暑くないの?」
「暑い。五月だし」
「不審者っぽいよ……」
「二十歳で制服着てる方が不審者でしょうが」
「確かに」
あっさりと肯定された槇は、ふと飛鳥をじっと見た。無邪気に首を傾げられる。
言動は無茶苦茶だが、飛鳥は先代の七緒によく似たおとなしめな美少女だ。言動はアレだが。
「……」
「なに?」
「あのさ、文通って──」
「やだもー、別に蓮ちゃんのこと好きじゃないよ。いや、好きだけどさ。おねえちゃんの思う甘酸っぱいやつじゃないから、大丈夫」
からからと笑う飛鳥は、リボンをひらりと動かして手を振る。
「神様と恋なんて起きるわけないって」
じゃ、借りていくねー、と颯爽と消えた飛鳥がいた廊下を、槇はじっと見つめていた。
◯
家から出て、五分。
世越間神社の長ったらしい石畳の階段に到着する。
山一体が天原家の所有だが、この町で「天原」と聞けば「ああ。邪神さん家の」と返されるくらい、普通の一家だ。
代々市長を務めている「大原」のほうが色々と大きい。権力とか家とか資金力とか。
こちらはしがない〝邪神さん家〟だ。
天原の山には誰も来ないが、槇はきょろきょろと周囲を見渡し、国道を見下ろしてさっと階段に向かった。
両側からわさわさと生い茂る木陰の中を足早に上っていく。
毎日通っているおかげで脚力を鍛えられているらしく、息は全く切れていなかった。
階段を上りきり、鳥居の前で頭を下げると、迎える狛犬たちをぽんと叩いてやり、そこでコートを脱いで預かってもらう。
散らばった髪を手ぐしで整えて境内に足を踏み入れると、そこに大きな影があった。
天使の羽のような翼は真っ黒で、黒い長髪は一つに結っている。あの着物姿は──
「柳?」
くるりと振り向いた端正な塩顔の男は、槇を見ると盛大に顔を歪ませた。
「うっわー、会いたくないのに会っちゃったぁ」
顔と言葉が一致していない。
しかし、槇は慣れたように「よっ」と手を上げた。
「あんた何してるの。昼間活動できないはずなのに」
「そうそう、好物は乙女の生き血で……ってなんでやねん! 吸血鬼じゃないわ、天狗、天狗だからぁ!」
明るい天狗は、几帳面にもきちんと槇の肩を軽くどついた。
身長約二メートルからのツッコミは威力があるはずだが、なにせ柳は生き物という生き物に慈悲深いので痛くはない。
「本当に可愛くなぁい」
「そんなのがあって何の得が?」
「飛鳥を見てみな。可愛いじゃん、あの子。昨日も一緒にザリガニ釣ったんだから」
槇は目を丸くした。
どうやら飛鳥には人ではない友だちが多いらしい。その一方で納得する。誰がJKとザリガニ釣りなんかするんだろう、と思っていたが、人じゃないならなぜか納得できた。
柳は怖怖とした顔で身を引きながら槇を見下ろす。
何故か彼は槇に怯えるが、身に覚えはない。
「ち、ちゃんと人間のふりしてたから大丈夫だしぃ」
「それはそれでシュールだね」
「──ふふっ」
朗らかな笑い声がして、槇はようやく和臣の存在に気づいた。どうやら二人で立ち話をしていたらしい。
「和臣先生。いたんだ」
「はい、いました。柳さんがすらっとした長身だから、きれいに隠れられたんですが……見つかっちゃいましたね」
「おはよう。調子は?」
「元気です。この通り」
和臣がにこにこと笑う。
不思議と、その穏やかな笑みは槇をホッとさせた。
「そっか。よかった」
そう言う槇の顔を、柳がしげしげと見下ろす。しかし、ふと何かに気づいたように視線が移動した。
槇の格好を見て首を傾げる。
「? まだ学生だっけ?」
「!」
「!」
その一言に、槇は表情を崩さないまま驚き、和臣はびしりと凍りついたのだった。




