36.いたたまれない
迷惑をかけたお詫びに送る、とやんわりと申し出た大原に、槇も同じくやんわりと「ううん、大丈夫」と返す。
わかっていたように爽やかに笑む大原は、席を立つ槇を一度だけ見つめた。
「元気で」
大原の「さようなら」を受け取った槇は、目元を穏やかに細めた。
「大原くんも。元気で」
「ん。ありがとう」
さらっと視線を外した大原の前から、槇は立ち去る。
同級生と会うのはこれで最後かもしれない。
外に出た槇は、歩道に広がる桃色の蓮の花を避けて歩いた。まどかのトラップにはもうかからないとは思うが、大原のための縁を探すそれを、とてもじゃないが踏めなかったのだ。
世の中の連休もそろそろ終わるだろう。
仲睦まじい夫婦や、青春を背負った少年少女、どこからか聞こえる小さな子供の声。
世界は休むことなく日々を生きている。見えないところで、見せないところで、誰も知らないところで、些細で尊い人生を。
「さて、帰ろ」
槇は空気を胸いっぱい吸い込み、顔を上げた。が、その瞬間、上からひゅんっと何かが落ちてきた。
「!」
「──おわっ。槇じゃん」
細い目。そしてうっすら見えるふさっとしたエクレアのような色の尻尾。
じゃらじゃらとネックレスを付け、ペンキを塗りつけたような大きなTシャツに、ジーンズにスニーカー。
最近の若者(アーティスック風)に着飾った青年。それは、顔見知りの狐だった。いつぞやは天狗と迷惑な大喧嘩をしてくれた──
「宇良!」
「ういっす。おつかれー」
「あんたどこから落ちてきたの」
槇の質問に、宇良はビルの踊り場を指さした。
「……目立つことをしないの。他の人にまで尻尾見えそうだけど?」
「だって仕方ねえんだもん」
「は?」
槇が顔をしかめた途端、背後から叫び声が聞こえてきた。
「ウララー!! 浮気なんて許さないから!!!」
うらら、と呼ばれたのが誰かなんてわかりきっている。
槇がじろりと睨むと、宇良は「てへ」と舌を出して笑いやがった。
「庇ってよ、槇」
と言いながら、槇に抱きつく。獣臭はしないかわりに、高そうな香水の匂いが鼻を刺す。
「あんたくさい」
「失礼な。アンジュちゃんの香水だぞう」
「誰よ」
「──あんたこそ誰よ!!!!」
白昼の歩道で、気合の入った格好の女性に頭からつま先まで値踏みされた挙げ句に、盛大に怒鳴られる。
間違いなく宇良が抱きついているせいだろう。
「離れな」
ぐいっと頭を押し返しても離れない様子を見たアンジュちゃんとやらは、更に目を吊り上げる。
「あんたが浮気相手なの?!」
「や。違う」
「うん、そーだよおん」
宇良が余計なことを言うので、槇はその場で拳を握ってみせた。うっすら見えていた尻尾がぎゅんっと下がる。
「違います。友達です。はい、友達です!!!」
「別に友達でもないけどね」
「ひどいよ槇!」
と言いながら頬ずりしてくる狐は、とにかく助けてと言わんばかりだ。いつもは細い目がこれでもかというくらい開いている。
この真っ昼間の平和な歩道で痴話喧嘩など、恥ずかしくてたまらない。しかもついさっき喫茶店で大原におしゃれに別れを告げたあとだ。彼にこの状況で「どうしたの?」など声をかけられたら、それこそいたたまれない。
槇は仲裁をすべく、彼女をじっと見つめた。
その冷静な目に、彼女がビクッと体を強張らせる。
「アンジュさん」
「な、なによ」
「こいつが悪さをして申し訳ない」
槇がそう言うと、彼女は「うっ」と表情を子供のように変えて、女優のような涙を流した。
「ウララ……わ、私だけだって言ったのに……、ひどい。ひどい。いっぱい買ってあげたのに……それを換金して、他の子に貢いでたなんて……ひどいよお」
「あんた本当にクズじゃん」
槇がしらっとした目で見ると、また「えへ」と可愛子ぶった返事がよこされる。
「もう、もう私……このまま嘘ついたり、きちんと謝ってくれないなら、ウララも浮気相手もやっちゃおうって、そう思って……」
「……」
やっちゃう、とはなんだろう。
槇の無言に、宇良は「やば」やら「こわ」やら呟く。同意だが、元凶が言うとイラッとした。
槇は彼女に向かって「わかった」と大きく頷いた。
「え……?」
「私が、あなたの代わりにこいつに反省させるから。それで許してくれないかな」
「そ、そんなんじゃ私の気持ちは」
「見てて」
槇は宇良に「離れて、そこに立って。ほら、一緒に謝るよ」と声をかける。こくんと頷いた宇良が離れた途端、槇は右足を一歩後ろに足を引くと、宇良の左頬に拳を打ち込んだ。
宇良の頬が凹み──周囲が唖然とし──そしてアンジュの目が驚きに見開かれ──宇良が歩道へと吹っ飛ぶ。
ズサァッと倒れた宇良の後ろポケットから、槇は財布を抜き出す。
「はい。返す。この中身は全部あなたのだよ。足りなかったらごめん」
多分足りている。狐のくせに、財布がパンパンだったのだ。全部が一万円札なら、彼女への償いにもなるだろう。
「え……あ……」
動揺している彼女は、歩道に倒れた宇良を見ながら、しかししっかりと受け取った。更に、反対のポケットを指差す。
「私が買ってあげたスマホ……」
「あ、はい」
槇はするりと抜き出し、彼女に渡した。
「ごめんね。こいつが節操ないバカで。こういうのには時間を使わないほうがいいよ。もったいないから」
「うん。そうする」
彼女が指で涙を拭う。そして、槇に弾けるような笑みを見せた。
「ありがとう……引くくらい殴ってくれて! なんかもうスッキリしてどうでも良くなっちゃった!」
「それはよかった」
「じゃあね!」
彼女は、爽やかな笑顔でその場を去っていく。
歩道に倒れた宇良など目にも入らぬように。
通行人も、もう誰も気にしてなどいない。
「宇良。ほら、もう起きな」
「……死んだかと思った。マジで。狐、死す、って文字が頭に浮かんだわ」
よろりと起き上がる宇良は、なんともなっていない左頬をさする。
「俺の美しい顔が変形するかと思ったんだけど」
「化けてるだけじゃん」
「俺は元の姿も美しいの」
「じゃ、ついてきて」
「え。なんで」
槇は宇良の腕を取った。
反射的に身を引こうとするので、強めに握る。
「あいてててててて」
「ほら、来る」
「どこにぃ」
「乙木にお灸をすえてもらう」
「! いやだ!! やだやだやだよお!」
「何言ってんの。三回目でしょ」
人間とのトラブル、三回目はお仕置き。
それがあやかし連盟の鉄則、らしい。




