34.どうにかなるだろう
「──あら」
ふと、七緒が自分の手を見て、悟ったように笑った。
指先がふわりと綿になり、空へ向かい、ぱちんと弾ける。
それはいつか見た光景によく似ていた。
その手で和臣と握手した直後に、彼女が消えた光景が頭によぎる。
「時間だな」
蓮一郎の言葉に、七緒は蓮一郎に向かって美しく腰を折った。
「ありがとうございました──蓮一郎様」
「おう。気をつけて帰れよ」
「はい。また会いに来てくださいね?」
「思い出したときにな」
七緒は嬉しそうに笑うと、そのままふわりと全身を綿に変え、消えた。
最後に「槇ちゃん、見守ってるからねー!」と楽しそうな声を残して。
途端に静まり返る社の前で、二人してその残像を見送る。
「もしかして七緒に言われて様子を見に来たの?」
槇が尋ねると、蓮一郎は伸びをした。
「まあな。少し前に、おまえと和臣が大変だ、と七緒がいきなり騒ぎ出したものだからな。様子を見に来たら、おまえはこすぷれをしているではないか。和臣のふぉろーはしていたのだが、あれは様子を聞いても〝槇さんが来てくれますから大丈夫です〟で済ませてたのだから知らなかったぞ」
「じゃあ、先生からは何も聞いてなかったの?」
「ああ、おまえの格好のことはな。だが──」
蓮一郎は言葉を切ると、不自然に口を閉ざした。
ムッと口を真一文字に結んで「何も言わぬぞ」と無の顔で返してくる。
どうやら、槇の知らぬことを蓮一郎は知っているらしいが、教えてくれるつもりはないらしい。
槇は男同士の秘密とやらを暴く趣味はないので、話題を変えた。そんなことより聞いておかなければならないことがある。
「私と交代したあと、先生は本当に七緒と同じ場所に行けるの?」
槇の目を見ていた蓮一郎が小さく息を吐く。
「わからぬ。前例がないのでな。行けぬ可能性もあるだろう」
「そうなると、どうなるの」
「また生まれてくる。そのうちな」
蓮一郎は軽く言ったが、きっとそれは「そのうち」と言えるほどの時間ではないだろう。
槇の中に区別のつかない感情が小さく浮かぶ。
蓮一郎は槇から目を離さない。
「まあ、それは交代が無事にできた場合だな」
「……だろうね」
「交代ができなかった場合──つまり、和臣がある日突然保たなくなった場合。これが最悪だ」
「……」
「邪神が存在できなくなる」
「わかってる」
「握手ができなければ終わりだ。たつみとまどかが焦るのと仕方あるまい」
槇は黙って蓮一郎の忠告を受け入れる。
彼らにとって「邪神」が必要だということも、これ以上なくわかっていた。
今はただでさえ彼らの存在を感じられなくなった人間が多いし、そもそも信仰や感謝がなくなれば、そもそも彼らは存在もしていられない。
愚痴を聞くだけではない。
彼らの息抜きと、そして彼らを尊敬する気持ちを「邪神」が担うのだ。
「まあ、ずっと見ているが今はそう急ぐ必要はなかろうよ」
蓮一郎の穏やかな声で、水が滲みるように痛んだ何かが凪ぐ。気づかないうちに詰めていた息を吐き出す。
「ごめん。ありがとう」
「気にするでない。これからひたすらに長い時を過ごすことをおまえに強いるのだ。思い出一つくらいは必要だろう。家族にさえ淡白だからな、おまえは」
「そんなことないけど」
「嘘つけ。いつでも消えられるように服も私物もほとんどないと飛鳥が言っているぞ」
「文通してるんだっけ……」
蓮一郎は楽しげに笑う。
「あいつは面白いな。まるで人間ではない」
「……妹なんですけど」
「こちら側ではなく、あやかしと仲が良いだろう。心配せぬとも、あいつのことは俺が見ておくよ」
「ありがと」
「では、とっとと結婚の申し入れを断ってこい。和臣が違う意味で保たなくなる前にな」
しっしと手で払われた槇は苦笑した。
「ん。レンレンは?」
「俺は和臣のところに行く」
「もしかして、最近ずっと来てる?」
「ああ」
「本当に、大丈夫なの?」
槇の心が再びザラリとめくれる。
そして、気づいた。
「ねえ、もし交代が間に合わなかったら──先生がどうなるのか聞いてない」
蓮一郎はじっと槇を見つめる。ついでに「鈍感だったんじゃないのか」と暴言までくれた。槇は睨見返した。
「教えて」
「……魂が消滅する。二度と生まれてくることはない」
「!」
「なるべく和臣の傍にいろ」
「……そのつもり」
「おう」
蓮一郎が軽やかに笑う。
「槇──あの家から出たときは、切り替えて人らしく過ごせ。和臣がくれた時間だ。報いるべきだろう」
「うん」
「良し。では俺も和臣のもとに向かう」
「待って。本当に、大丈夫なんだよね?」
いそいそと和臣のもとへ行こうとする蓮一郎の背中を呼び止める。
なんだろう。恋とは恐ろしい。
「毎日来るなんて今までなかったでしょ。本当に、先生は──」
「何を言っている。俺は忙しい。今日はあの家の屋根を掃除せねばならんのだ。和臣から頼まれているからな」
使命感を燃やすようなキラキラとした目が槇を見る。
まるで箒を持って履くように手を動かした。
「和臣いわく、俺は掃除の才能があるらしい!」
「……」
「この間はこの社の屋根を掃除してだな」
「じゃあね」
槇はくるりと背中を向けて世越間神社を出た。
階段を下りながら「つまんない心配しちゃったな」と呟く。
心配するのはやめだ。
性に合わないし、シリアスは向かない。
自分も、和臣も、蓮一郎も。
「どうにかなるか」
蓮一郎が大丈夫だというのなら……よくわからないが、大丈夫なのだろう。
槇は空を仰いだ。
開けたばかりの空は、希望が広がるように煌めいている。
大原のことも、どうにかなるだろう。
「いやだ。結婚してほしい」
希望は広がっていなかった。
喫茶店の奥の席のテーブルの前に立ったまま槇は「しないよ」と小さく返事をする。
先に席についていた大原は、むすっと上目遣いで熱く見つめてきた。
「俺、一生に一度のプロポーズのつもりなんだけど」
「それはありがとう。でもお受けできないので、諦めてください」
「なんで?」
他人行儀でもだめだった。
大原の疑問は、自分が優良物件であることを知っているからではなく、どうして自分を利用しないのか、というものなのだろう。
だからこそだ。
「私が邪神になるときには送り出すって大原くん言うけど」
「うん。できるよ。だから」
「私は大原くんの人生の責任は持てないし、持たない」
槇は席に座らない姿勢を見せたまま、きっぱりと言った。
大原の目が、まるで現実を突きつけられたようにじわりと見開かれる。
というか、潤んだ。
「あ、あのね?! ちょっと冷静に話そうかー!」
槇は焦って座ると、水の入ったグラスを渡すのだった。




