32.これくらいにしておこう
ふと、池の水が波打った気配がして目が覚めると、目の前に寝ている和臣の顔があった。
いつの間にか二人して眠っていたらしい。
開け放たれた障子の向こうに見える空は、穏やかな青が広がっている。槇は何度か瞬きをし、和臣のまつげをじっと見つめた。
「どうして結婚詐欺に引っかかるかな……警戒心強めなくせに」
ぼそりと呟くと、和臣のまつげが震えた。
「自分から引っかかったんじゃないの?」
「ひどい言われようですね」
「やっぱり起きてた」
和臣の目がゆっくりと開き、槇を射抜く。
しばらく見つめ合っていると、和臣が先に笑った。
「うーん、負けました」
「にらめっこしてたっけ?」
「? 槇さんよく仕掛けてくるじゃないですか」
「ただ見つめてるだけだよ。好きだから」
ごふ、と、咳き込む和臣を横目に、槇はのっそりと起き上がる。
「声がね」
「こ、声がですね?!」
「おはよう」
「……おはようございます……」
和臣もよろよろと起き上がる。
「時間、大丈夫ですかね? 多分一時間しか寝てないと思うんですが……」
「うん。大丈夫だよ」
けろりと答える槇を疑わしげで眼差しが刺してくるが、その頭の寝癖のお陰で何も怖くなかった。
「和臣先生」
「……なんでしょう」
槇が手を伸ばすと、和臣が鼻を隠しながら疑心に満ちた目で見てくる。
可愛いな、と思ったが、言葉にはせずに指先で前髪を救うように触れた。
「!」
「寝癖がすごい」
「えっ」
アワアワとしたように自分の頭に触れる和臣からパッと手を離し、槇は立ち上がる。するりと抜ける羽織を掴み、和臣の肩へ掛けた。
「はい、返す」
「どう、も……」
「……」
「……」
「なんか顔赤くなってない?」
「なってませんよお?」
背中を丸める和臣に、槇はクスクスと笑いながら伸びをした。
「じゃあね」
「……」
「なに、その反抗的な目は」
「大原と会うときは」
「気をつけるってば。大体そんな警戒しなきゃならない人じゃないよ」
「何を言ってるんですか! 忘れたんですか?! あの悪行を」
「悪行って」
槇が笑い飛ばすと、上目遣いの目がムッと不機嫌に細くなる。
「あなたの腰を抱き、手を掴み、あまつさえ顔を近づけながら囁きました!」
「言葉にすると結構だね」
「言葉にしなくても結構な迫り方です。しかもアイツ、槇さんの弱点をすぐに把握して……」
ブツブツという和臣の頭を乱暴に撫で、槇は仕方なさそうに笑う。
「先生って、過保護だね」
「あなたの危機管理が危ないだけです」
「大丈夫だって」
「ほら、またそう言う。そういう人が一番大丈夫じゃないんですよ」
「心配してくれてありがと」
「……」
黙った。
赤ベコのごとく頭がぐでんと下がる。
「じゃ、すぐ帰ってくるから待っててね」
そう言って、槇は和室を出て廊下へ向かう。玄関から出る頃に、ハッとしたような声で「か、帰るって言わないでください!」と無駄に抵抗する和臣の声が聞こえた。
「はいはい」
「聞いてます?!」
「聞いてるよー。好きだし」
「……」
「声がねー」
「わ、わかってますよ!!」
声とともに、ちゃぶ台に頭を打ち付けるような音がした。
これくらいにしておこう。
槇は玄関の戸を閉め、赤い一本橋を渡ると、木々を抜け、社の裏手へ。空は住んだ青──朝だ。ぐるりと回って社の正面に出れば、やはりそこに蓮一郎がいた。賽銭箱に座って足を組んでいる。
「おう、来たな」
「レンレン」
「お前と話がしたいという者を連れてきた──ほれ、出てこい」
蓮一郎が社を見ると、その扉が控えめに開く。
「……え?」
「お久しぶりね。槇ちゃん」
恥ずかしそうに顔を出したのは、着物姿の美しい人。
槇の目が見開かれる。
「七緒」
「えへへ」
蓮一郎の後ろへ立つ彼女は手をそっと上品に帯の前で重ねた。
「ごめんね、驚かせて。どうしても槇ちゃんと話がしたくて、レンレンに頼んじゃった」
「七緒」
落ち着いた雰囲気に、それにしては幼い話し方──先代の邪神の七緒に間違いなかった。
槇の顔が徐々に明るくなると、七緒は嬉しそうに目元を和らげる。
「ふふ。本当に可愛い子ね」
「どうして……」
「ちょっと和臣くんのことも話しておこうと思って。あの子、絶対話さないから」
困ったように笑う七緒は、しかし愛おしむように目を伏せた。
「あのね。和臣くんが結婚詐欺に引っかかったのは、理由があって──」
「いや、七緒がどうしてここに来れるのかを聞きたいんだけど」
「わあ。相変わらずね!」
感動したように七緒の目が煌めく。
何故か自慢げな蓮一郎が「うんうん」と頷いた。
「その説明は俺がしてやろう。おまえが俺に聞きたいことでもあっただろうからな」
蓮一郎の目が優しく輝く。
彼の長ったらしい説明を要約すると、邪神の役目を終えた者たちは、ある場所で次に生まれる邪神候補を見守っているのだという。
その者に自分の魂を捧げ、より長期間在位できる邪神へと導くために。
つまるところ、歴代の邪神によるら次代の邪神オーディションらしい。
「おまっ、その表現はどうかと思うぞ」
「そうかな。結構いい線いってると思うけど。ね、七緒」
「槇ちゃんがグランプリよっ!」
ぐっと両手を握る七緒に、なるほど、と槇は頷く。
どうやら自分は歴代の邪神の票を集めたらしかった。どうりで「歴代ナンバーワンの邪神候補」ともてはやされるはずだ。
「──邪神になる天原の娘は、おまえが最後だろう」
蓮一郎がめずらしく言葉に重みを乗せる。
槇は軽く頷いた。
「知ってる」
「……可愛くないな」
「もう、レンレンったら。そこが可愛いんじゃないの」
七緒が力説し、蓮一郎がフッと笑って頷く。
無言で話を促す槇の視線に、蓮一郎はこほんと咳払いをした。
「まあ……おまえに全員が魂を捧げたものだからな……役目を終えた者が棲む場所に、七緒は一人なのだ」
「そうそう。だからちょっとレンレンの権限で出してもらえてね」
特別扱いはできないが、一人しかいないのなら特別でもなんでもない、と蓮一郎は言ってのけた。
しかし、その瞳は真剣だ。
「ただ、時間はない。七緒の話を聞いてやれ」




