3.クリスマスツリーの頂上の星のような男
槇は蓮一郎の足を掴んで賽銭箱に着席させると、腕を組んだ。
蓮一郎からは「こいつ……」という顔をされているが、目を伏せている槇は気づかない。
「あれは二年前……」
◯
邪神と呼ばれる人の形をしていた彼女が空へ消えていくのを目で追い、呆然と空を眺めていた二人が互いを見たのは、それから三秒後のことだった。
「……」
「……」
たっぷりと一分見つめ合ったあとに、二人とも「あ」とこぼす。
「先生……?」
「……君は……」
そのぼんやりしたスーツ姿の青年のように童顔な男は、明らかに動揺していた。
そのままさらに一分見つめ合う。その目が、卒業証書の筒をちらりと見たのを槇は見逃さなかった。
「もしかして、先生」
「は、はい?!」
「私のこと忘れてる感じ?」
「いえ、いえいえいえいえいえ?!」
「嘘つけないタイプ」
目がきょろきょろと泳ぎまくる様子に、槇は呆れたようなため息を吐いた。
「ま……仕方ないよね、先生たった一年で転任したし? 新任で初めて受け持ったクラスの学級委員の名前くらい覚えてると思ったけど……」
「ああ、知ってます知ってます。大原くんですね?!」
「ごめん、まだ男に転生してない」
「あ! そのクールな感じ、思い出しました!」
「忘れてたの認めてるし」
ぽんっと手のひらを叩いた男──槇が一年の頃の担任、逢田和臣は、二年前と一切変わらない大学生のような若々しい顔でにこっと笑った。
「……」
「……」
「えっと、えーーーーーっと」
「思い出してないじゃん」
「いや、ここまで出てるんですよ」
和臣が自分の喉に触れる。うーんうーんと首を傾げて唸る元担任を、槇は白々しい目で見た。
この見た目のせいか、彼は男女ともに生徒から人気があった。
無害そうで、人生なんて楽勝だって顔をした大人。
いつか自分たちもこんな脳天気なまま大人になれるのかもしれないと、そんな無責任な希望が持てたからだ。
いつも気難しい顔をした他の教師を見慣れていたせいか、この穏やかを通り越してお気楽そうな新任の教師は、いわゆる希望の星のような輝きがあった。
クリスマスツリーの頂上の星のように。
「えっと、あの、えっと」
「先生、もういいから──槇。私の名前は槇だよ」
見ていられなかった槇が試しにそう言ってみると、和臣は「ああ!」と顔を輝かせた。
思い出す。
このクリスマスツリーの星が傾かないように、生徒たちは彼を決して悲しませなかった。奇妙なことだが、希望の星を自分たちで曇らせてはならないと必死だったのだ。教師陣も彼に甘かったような気がする。一年て転任したときには、皆が「和臣先生は大丈夫だろうか」とまるで子供のお使いを心配するような空気になった理由を、二年経って思い出した。
和臣はスッキリしたような顔大きく頷く。
「まきさん。どんな字でしたっけ。真っ直ぐ、に木ですか?」
「ううん。一文字で槇」
「まき……牧さん?」
手のひらに漢字を書く和臣の横に、ととと、と近づく。
「違う違う。そっちじゃない」
「え、じゃあ……慎さん」
「おしい」
「ま、槙さん」
「あー、違う違う。こっち。この槇」
槇が和臣の手のひらに〝槇〟と書くと、和臣は大きく頷いた。
「難しい方の、槇さん!」
「うん、そう。難しい方だよ」
「で、槇、なにさんでしたっけ?」
苗字が槇だと勘違いしている和臣を、槇はぬるい目で見てにこりと微笑む。
和臣は不思議そうにしていたが、ふと目が覚めたように槇を見た。
「あの……えっと、どなたでしたっけ……?」
「え?」
「すみません、ここって……?」
突然ポンコツになった和臣の肩にふっと何かがかかる。
黒い羽織だ。いつも見ていた、濡羽色の長羽織。
「!」
「ここはどこ……? 僕は誰……?」
「ベタな記憶喪失!!」
槇は卒業証書の入った筒を落とし、頭を抱えた。
なぜここにいるのか皆目検討もつかない元担任は、先代と邪神を入れ替わってしまったらしい。
「! 先生、握手して!」
ハッとした槇がずいっと手を差し出すと、同時に和臣はバッと両手を後ろに隠した。
「な、何してんの?!」
「知らない人と手を繋いだらだめですから!」
「躾の行き届いた子供か!!」
槇の剣幕に、和臣が悲しげに眉を下げる。槇の本能がストップをかけた。
「あ……あのさ、先生」
「先生? 僕が先生なんですか?」
「これダメなヤツ……!」
どうにか素早く交代しようとじりじりと和臣を追い詰めようとしても、和臣の表情が曇れば槇は何もできない。
怯える野良猫を保護しようと躍起になっている人間の構図に、槇はとうとう諦めたのだった。
◯
「それで邪神の座を譲ったのか。おまえが幼い頃から楽しみにしていたというのに」
賽銭箱から見下ろしてくる蓮一郎を見上げた槇は、大きく頷いた。
「大変だったんだから。今まで一度として天原以外から邪神になった人なんていなくて、親族会議が丸一日かかったんだよ」
「短くないか」
スパッと言われた槇は、詰まる。
邪神を誰が継ごうとも、その座が空白でなければオッケー、な、お気楽な一族の出した結論は「とりあえずそっとして気が緩んだ頃に槇が手を握れ」という雑な対応策だった。
「……とにかく、和臣先生が記憶を取り戻して、人格がはっきりしてから交代しないと危ないかもしれないってこともあって、私が毎日通って様子を見ることに……」
「こすぷれとなんの関係がある」
「ちょっと、やめてってば」
槇が睨みあげる。
「あのねえ、和臣先生はポンコツになるほど記憶が混濁してたの。私が誰かわからなったから、仕方なく」
「……」
「仕方なく、制服着て行ったら」
「……」
「自分が逢田和臣っていう教師だったことと、私が教え子だったことを徐々に思い出してきたのよ」
「それで二年も制服を着ているわけか。卒業しているのに」
「そう、卒業してるのに、仕方なく、先生のために、着てるわけ」
強調する槇を、蓮一郎はどこか胡散臭そうに見下ろした。
「あのポンコツが邪神として役目を全うしているのは、俺のサポートのおかげだぞ」
ふん、と威張る神様を、槇は見上げる。
実際、蓮一郎は槇の前にこそ姿を現しはしなかったが、突然天原以外の人間が邪神になって務まるはずもないのに卒なくこなしているのは、蓮一郎のサポートがあってこそだ。
生まれたての赤ちゃん「邪神和臣」を導いてくれたことは感謝している。しているが──
「いやいやいや、私と交代するように諭してよ」
恨むように見上げると、蓮一郎はあっさりと言い放った。
「邪神を務めるのが誰だろうと俺は構わないが?」
「あんたもですか」