23.地球一周分ほど距離
──誰かと出かけたり、誰かと一緒に、同じ話で笑い合うことからでもいいので、してみませんか?
「って言ってたのも先生なんだけどなあー」
槇が言っても返事はない。
随分からかったせいか、無視というよりは「聞こえないふり」をするようになってしまったらしい。
箒をサッサと動かして、無心で抜いたであろう千切れた草を集めている。
「乙木と会った?」
他の話題を出せば、和臣はゆったりと頷いた。
「はい。可愛らしいですね。鬼には見えませんでした」
「中身は立派な鬼だよ」
「そうなんですか?」
「うん。あやかし連盟の理事だし」
「なんですかそれ!」
くすくすと笑う和臣は、社の階段にちょこんと座った槇を振り返った。
「あやかし界も、人間界も、色々大変なんですね」
「そうだよ。私はもうここにずっといたい。家に帰るのも変な気がするし」
「槇さん」
「言っとくけど、私にとってそれが普通なんだからね。先生、わかるでしょ?」
槇がひらひらと手を振れば、和臣はその指先を見つめた。
この手で池の水が動かせることはずっと黙っていたが、あれを見てわからぬ和臣ではないはずだ。今、邪神であるのならばなおのこと。
「……なんとなくわかります。けどもっと外にも興味を」
「私が合コン行くってだけで慌てふためくくせに」
「同窓会です。同、窓、会」
修正が入る。槇は教え子のように「どう、そー、かい」と繰り返した。
「おかんキャラですよ」
「わかったって」
「大原には気をつけるように」
「そんな必要ある? 大原くんだよ?」
ちゃっかり呼び捨てまでして目を険しくする和臣は、ぐっと箒を握った。なんだろう。今から空でも飛ぶくらいに力を込めて握っている。
「あなたを見る目が気に食わないんです」
「すごい言いがかりだね」
「なんとでも言ってください。あれはいやらしい目でした」
槇は吹き出す。
「ないないない。そういうの、全く無い。大体大原くんだよ。爽やかの権化って呼ばれてるの知らないの?」
「知ってますよ。彼は品行方正な爽やか少年でした。でも、あなたへの哀れみと捌け口のような目は、僕には隠し通せません。本人は無自覚だからたちが悪い」
「ふうん。大原くん、びっくりするぐらい理性的だけどね」
「だから気をつけるように言っているんです。そういう人間は、場を見て自由自在に理性を操縦できる。厄介ですよ」
「つまり、いけると思ったら突然俺様ドSになると?」
「? 呪文ですか?」
きょとんとする和臣に、槇はニコっと笑う。
「見てみたいけどね。理性ない大原くん」
「なっ、なっ、なんてことを言うんですかあ! 破廉恥な!」
「そういう意味じゃなくて。好き勝手に生きる大原くんを見てみたいってことで」
「──僕もですよ」
突然、真顔で言われた槇は面食らう。
さっきまでわあわあと騒いでいたとは思えない凪いだ表情で、じっと槇を見た。まるで、ようやく言葉が通じたように目を合わせる。
「僕もです。僕も、槇さんが好き勝手に生きるところを見てみたい」
和臣は静かに言う。
ふと、教室にいるときの和臣を思い出した。
教卓一つ隔てているだけで、自分と彼の間は地球一周分ほど距離を感じたものだった。
遠かった。
「だからって彼氏作れとか、合コン行けとか、そういう事は言っていなくてですね?!」
あっという間ににもとに戻った和臣が、箒をバサバサと無意味に動かす。
その動きに既視感があるが、あのアニメはもう少し馬鹿っぽかった気がする。
槇はじいっと見つめたまま口を開いた。
「でも、恋をしろって言ったよ」
「それはですね、周囲を見て欲しいって、そう思ったんであって、適当に恋をしろとは思ってません」
「我儘だね」
「大原はだめです」
すごい念を押してくる和臣に、槇は立ち上がった。
「わかったわかった。じゃあ、大原くん以外で、話して楽しい人とか、休日に一緒にいたい人を見繕ってくるわ」
「槇さん」
「私は先生が一番そうなんだけどな」
和臣の箒がピタリと止まる。
「え」
「さっきも言ったでしょ。家に帰るのも変な感じだって。私にとってはここがいたい場所なの。先生とゴロゴロして、話したり昼寝したりしたいな──毎日」
うん、楽しそう、と一人呟く槇は、その想像に無邪気に笑う。年よりも随分幼いそれは、どうみても本心だった。
「じゃ、そろそろ行くね。先生。今日はまだ誰も来てないみたいだし……帰ってきたら様子見に来てもいい?」
槇が伏せていた視線を上げると、思いがけなく真剣にこちらを見ている和臣と目が合う。
また、教室にいる気分になった。
十二月の、しんとした教室。雪が降っている中で、あの日の和臣の輪郭は色濃く槇の中にくっきりと跡を残したのを思い出す。
名前を呼ばれてみたい、と思ったことを。
「槇さん」
ドッと、風が身体を通り抜けていったような気がした。
「遅くならないのなら、会いに来てもいいですよ」
微笑むように言う和臣は、槇に向かってゆったりと続ける。
「夜にここに来るのは絶対に許しません。ですから──早く帰ってきてくださいね」
誰だろう。
この人は。
甘く誘惑するように笑うこの男は──。
槇はじとっと睨みながら「じゃあね」とだけ言って和臣のそばを通り抜けた。
鼻をつまむ気もならない。
そんなことをしては、きっとこの居心地の悪さが最高潮に達するような気がした。
きっと、触れたら危ない。
何が危ないのかわからないが、危ない。
◯
「おまえは本当に危なっかしいな」
空から声が降ってきて、槇を見送った和臣は上を見上げた。
「蓮さん」
「ヒヤヒヤさせられる。手加減してやらぬか。あれは意外と純真なのだぞ」
「知ってます」
和臣はにこ、と笑う。
「凶悪なまでに純真ですよね」
「ふむ。遊びとやらは面白いか?」
「ええ。とても楽しいですよ」
「ではそろそろ満足して槇と邪神を交代したらどうだ」
「嫌です」
いつもは「そうですね、どうでしょう」とあやふやに答える和臣のきっぱりとした拒絶に、蓮一郎は目を見張って下降してきた。
くるりと回って和臣の前で逆さまになり、止まる。
「どうした」
「蓮さんには言いません」
「いい度胸だ。神に隠し事ができるとでも?」
「できます。蓮さんは優しいですから」
和臣のほわほわした受け答えに、蓮一郎はびしっと決めたスーツ姿で顎に触れた。またくるりと回って空で足を組むと、うーんと目を閉じて思案する。
「……初恋とは厄介なことよ」
「なにか言いました?」
蓮一郎は「ふ」と不敵に笑う。
「槇が帰るまで俺が一緒にいてやろう」
「それはどうも。では社の屋根を掃除していただけます?」
和臣は穏やかに笑いながら蓮一郎に箒を渡すのだった。