12.遠回しでも、哀れみでもなく、純粋に
どん、と音がして、光の柱が池の中から空へと伸びる。
まどかは美しく去っていった。
池の水が残滓をなぞるように淡く光る。
縁側でそれを見送ったのは、随分久しぶりだ。
槇の心の中に懐かしさに似た何かがふわりと浮かぶ。
郷愁、というのに近い気のかもしれない。
槇にとっては、ここが──この家の中が、どんな現実よりも現実だった。
「槇さん」
和臣から、まどかを見送っていた槇を労るような声をかけられる。
二人して縁側に並んで座ったままだ。どうしてか動けない。
「槇さん、大丈夫ですか?」
槇はそっと隣を見た。
和臣の目は、まるで保護者のそれだ。
「なんでそんなこと聞くの?」
「ふふ」
和臣は笑う。
「人は、聞かれたくないことを聞かれたときに、必ず〝なんで〟って聞くんだそうですよ」
「……知ってるならそっとしとかない? 普通」
「だって、あなたが心配だから」
和臣がさらりと言うので、槇は一瞬なんのことかわからなかった。
誰が、誰を、心配するというのだろう。
「何言ってるの?」
「心配されることに慣れていないんですね」
「まあ……」
「しっかりしすぎですよ。あなたはまだ人として生きているんですから、もう少し誰かに寄りかかって、心配されるべきです」
現実を生きろ。
そう言われているのはわかる。遠回しでも、哀れみでもなく、純粋に槇の未来を思っていることも。
ただ──
「……今の先生に言われてもねー……」
和臣のくせ毛の髪がもっさもっさと増え、その身体を覆い尽くして髪の毛おばけになっている最中だ。話が入ってこない。
邪神の仕事を終えた証拠ではあるが、なんとまあ間の悪いことか。
「え──あっ!」
タイミングよく、前髪がわさっと仕上げとばかりに顔を覆う。
そのまま、肩を落としたように和臣はしゅんとした。
「……すみません……槇さん……髪を切って……くれますか?」
「いーよ」
立ち上がった槇は、ぽんぽん、とふさふさの頭を撫でる。
床の間から鋏を聖剣のごとく取り出し、和臣の後ろへ立つと浄化を始めた。自分になすがままの和臣を見ているのは、割と嫌いではない。
髪をそっと切る。
くすぐったそうな和臣のつむじも、切った髪が綿になってはしゃぐ光景も、槇の何かを刺激する。気が緩み、ついつい口角が上がってしまうのだ。
「槇さん」
「んー?」
「柳さんのことですけど」
なるほど、そう切り込んでくるか。
先程の話題をまだ諦めていないらしい和臣に、槇は仕方なく付き合うことにした。槇の周囲では綿がぱちんと弾けていく。
神様の愚痴からできた「負」のエネルギーは、なんというか無邪気だ。
「他の人とは縁結びはできそうにない、と伝えるしかないですよね」
「うん。でもそれは私から伝えるから」
「槇さんが?」
「先生のほうが上手に伝えられるだろうけど、私のほうが柳は納得するでしょ」
和臣は無言で肯定する。
じゃきっと鋏の音が二人の間で小気味良く響いた。
「和臣先生」
「はい」
「菫と柳のことは、二人がどうにかする。っていうか、二人がどうにかしなきゃならないことだよ。肩入れしちゃだめ」
「厳しいですね」
言葉の割には、声はのほほんとしている。
「槇さん、恋が怖いですか?」
「いんや、全然」
槇の即答に、和臣の肩が控えめに揺れる。くすくすと笑うその声が、思いの外心地いい。
「では、挑戦してみてはどうでしょう。誰かと出かけたり、誰かと一緒に、同じ話で笑い合うことからでもいいので、してみませんか?」
「和臣先生としてるよ」
和臣が黙る。
その沈黙は雄弁で、和臣が「そうじゃない」と悲しんでいるのが手に取るようにわかった。
槇は絶えず鋏を動かしながら、毛むくじゃらを和臣に戻していく。
「先生、私は邪神になるんだよ」
たとえ、今は和臣がその座についていたとしても、いつか必ず交代しなければならない時が来る。それは絶対だ。
今まで天原以外の誰も邪神を務めたことがないのは、誰も邪神を務められなかったからだろう。
今の世代では自分しか邪神になれる者はいない。
既定路線というやつだ。
「だって、邪神じゃない人生なんて面倒だもん」
笑って言えば、和臣は何かを飲み込むように小さく息を詰めた。
「怖がらないでください」
和臣が呟く。
どうして人として幸せになろうとしないのかと、そう痛むように。
髪を切り終えてさっぱりとした和臣の頭を、くいっと上を向かせた。
目が合う。
槇は左手を伸ばすと──和臣の鼻をむぎゅっと摘んだ。
「先生こそ、私を怖がらないで」
驚いたようにじわじわと目を見開く和臣の目を見つめ返した槇は、それにニッと笑い、手を離す。
「柳のことは私に任せて。じゃあね。また明日」
呆然とする和臣を残し、槇は鋏を床の間に戻すと、振り返らないまま家を出た。
赤い橋を渡り、木々を抜け、社の裏から表に回って境内を出て、狛犬にかけたままのコートを着込む。
ゆっくりと階段を降りると、外の景色が茜色のグラデーションに変わっていった。
現実はもう、夕方だ。
「……ふう」
体感時間としてはたった数時間だが、世越間神社からでればきちんと時間は経っている。和臣は気づいていないようだが、あの中の時間の流れは恐ろしく遅い。
いや、現実が早いのだ。
簡単に人が近寄れないほどに、ここには神気が満ちている。
「ん?」
階段を降りる槇の足が止まる。
なぜ和臣は境内の中にまで入れたのだろう。
「今は聞けないかあ」
槇はとことこと階段を降りる。
最後の段を身軽に降り立ったとき、ふと自宅の方から車が出てくるのが見えた。
見たことのない黒いコンパクトカーだ。
なんとなく身を守るようにコートのポケットに手を突っ込む。ついでに俯きながら車とすれ違おうとしたが、何故か車は突然ピタリと止まった。
思わず顔を上げると、助手席の窓が下る。
運転席から身を乗り出すようにしてこちらを見る青年は、槇を見て爽やかに笑った。
「やっぱり! 天原さんだ」
「……大原くん?」
それは、別名「爽やかの権化」と呼ばれていた高校の同級生、大原太一だった。




