10.神様というのはなかなか純粋で残酷
「まあまあ、楽にしなさいな」
可愛らしい声がコロコロと響く。
縁結びの神──まどかは、池からすうっと姿を表した。
華やかな打ち掛けの花柄がふわりと匂い立つように咲く。
「すみません、まどかさん。来てくださったことに気づかず」
和臣が頭を掻くと、まどかは打ち掛けの前で合わせていた小さな白い手で口元を隠し、上品に笑った。
「ふふ。良いのよ、和臣くん」
和臣くん。
そう呼ばれた男を、正座していた槇はじろりと見た。こころなしか鼻の下が伸びているような気もしないでもない。
槇はそっと立ち上がる機会を伺う。なんせこの女神は少し面倒なのだ。さっさとここから退散しなくては。
和臣が縁側で出迎えようとゆっくりと立ち上がった隙を見て、槇は軽く後ろへ重心をずらした。
「久しぶりね、槇ちゃん」
……。
槇は止められたまま顔を上げる。
「……久しぶり、元気?」
「ええ。元気よ。ありがとう」
「私は外にいるし、ゆっくりしていって」
槇が口早にそう言うと、まどかは目をくりりと見開いき、悲しそうに眉を下げた。
「あらまあ、なんてこと。一緒にいてくれないの? 久しぶりに会えたんだもの……お話したいわ。槇ちゃん彼氏は?」
「じゃあね」
「嫌だわ嫌だわ、変な男に騙されてるの? えすえぬえすとか、まっちんぐあぷりとか? ああいうのは当たりハズレがあるから気をつけなくちゃ、ただでさえ槇ちゃんは純粋無垢なんだから、似合わないことをしちゃだめよ。私が相手を見てあげるから、ほらほら、座りなさい」
「じゃあね」
「行っちゃだめ」
圧がすごい。
にこにこと朗らかに笑ったまま家の上を滑るようにやって来たまどかは、すっと縁側を指さした。
「一緒にお話しよう?」
「……」
「槇ちゃん」
「……五分だけだよ」
「優しいわね。槇ちゃん大好き」
「……朝も飛鳥に似たようなことを言われたわ……」
「ふふ。飛鳥ちゃんったら、昨日ザリガニをくれたのよ。あの子も優しいわね〜」
またか。
うんざりするような気持ちで、槇は和室の座布団の上に座り直した。それを見たまどかが優しく笑う。
「ありがとう。いいかしら、和臣くん」
「はい」
まどかと和臣が縁側に揃って座る。
華やかな打ち掛けと、真っ黒い羽織の背中は離れたところから見ていても気を許し合っているのが見て取れた。
槇はぼんやりとちゃぶ台に頬杖をつき、目を閉じる。
まどかは昔から、先代が話を聞くときによく槇を同席させた。
彼女はまるで御伽話でも優しく語るように話をするので、いつもうつらうつらとしてしまい、いつのまにか座布団を枕にして寝ていることも多かった。池の水がキラキラと輝いている中、姉妹のように仲良く並んで話しているのをごろりと寝転がってみているのが好きだったのだ。
それなりにここへ来る神様とは顔見知りではあるが、槇が話まで同席するのはまどかだけだ。それが邪神の世話係の慣例だということは聞いてある。その意味を、槇は今初めて知った。
「──人間の時間は短いのに、自分を貪るだけの男に貴重な時間を割くだなんて、もったいなくて仕方ないわ。一体何回別れれば気が済むのかしら。縁を結ぶ相手は驚くほどいるのに」
うんうん、と和臣が頷く。
出るわ出るわ。クズ野郎とそれに振り回される女の話。
恋とは、愛とは、そんなものは一時の気の迷いと思い込みなのだという逸話がわんさか出てくる。
しかし声は変わらずに穏やかなそれなので、幼い自分はただ声だけをラジオのように聞いていただけで、内容は理解していなかったのだろう。こんなのを聞いて育って、恋愛などを心待ちにするわけがない。
──恋を知らない女子高生がいるんですか?
槇は胸が痛むとばかりに手を当てた和臣を思い出す。その頭からはカラフルな綿がほわほわと出てきていたことも。
思わず顔が緩む。
間抜けだったな、先生。
「結局は自分の愛する人を諦められない。いくら幸せになれる人が待っていても、あの子達がそれを望まなければ結べる縁も結べないもの。私って……私の縁結びって、必要かしら……?」
珍しく弱気なまどかの声に、槇は瞑っていた目を開けた。
まどかが肩を落とし、打ち掛けの花模様までしゅんとしなびている。
和臣は前を見たまま、ゆっくりと頷いた。
「必要です。少なくとも、僕にとっては」
「……和臣くんが、必要なの?」
「そうなんです。ある人の縁結びを頼みたくて」
「槇ちゃんの縁結び?」
即答したまどかの声に、槇はガックリとうなだれる。
彼女は昔からこうして試すように「人として幸せになりたいのか」と遠回しに尋ねてくる。これに少しでも気持ちが揺れようものなら、きっと邪神の世話係を解雇されるのだろう。神様というのはなかなか純粋で残酷なのだ。
「いいえ。槇さんではなく」
「あらぁ……」
「? 残念そうですね」
「もちろんよ。小さな頃から知っているんだもの。槇ちゃんが幸せそうに笑ってくれたら、私すごく嬉しいなって、いつもそう思うのよ」
まどかの声が優しく響く。
何故か和臣が感動したように「まどかさん……」と呟くが、付き合いがそこそこある槇には彼女の思考が読めた。
「今は和臣くんがいるもの。邪神がしばらく保ちそうなら、槇ちゃんの子孫が次の邪神になる可能性が高いわ。だったら早く槇ちゃんには子をもうけてもらわなくてはね」
「……まどかさん……」
あからさまに落ち込む和臣の隣で、まどかがくすくすと笑っている。
二人の後ろ姿は友人のようにも、親子のようにも見える。
槇は和臣を優しく導くまどかに心の中で感謝した。
どんなことがあろうと、邪神の空白だけはあってはならない。
自分がその席に座らないのなら、適齢期にはすぐさま血を繋ぐ。それが天原の娘の宿命だ。
しかし、槇にとっては恋愛も結婚も子育ても、遠い遠いおとぎ話と変わりない。
ずっとこの邪神の家にいる先代を見てきた。
彼女が縁側に穏やかに座っている姿を。
誰かに愛されるという幻想よりも、それが槇にとっての現実だった。
いつか自分もあの黒い長羽織を着て、できるだけ長く──他の誰かが邪神を務めなくてもいいように、永遠にここに。
永遠にここにいて、だらだらゴロゴロして悠々自適に過ごすことが槇の幼い頃からの夢だったのだ。
誰にもその座を渡したくなかったというのに。
槇は、和臣が身振り手振りしながらなるべく柳の名前を出さぬように、柳との約束を守っている姿を見守った。
まどかにツッコまれながらも必死に伝えている。
なんかもう……仕方ない。