1.これより先関係者以外立入禁止
どん、という音に、草むしりを終えた槇は立ち上がりながら振り返った。
紺色のセーラー服の上から着ていたエプロンを叩き、草を落とす。その黒い瞳は、空に登っていった一筋の光を静かに見送った。
長い睫毛が瞬き、後ろで結っていた髪を解く。
豊かな長い黒髪がふわりと広がった。
世越間神社は山の中腹にあるこじんまりとした神社で、人は滅多に近づかない。
見上げるだけでうんざりする階段を登らなければならないし、何よりここには邪神と呼ばれる存在がいるからだ。
槇は白い玉砂利を踏み、社の前で一礼すると、その裏手へ回った。ひしめき合う木々の奥から爽やかな風が吹き込む。そこを抜けると、大きな水たまりのような池が槇を待っている。
透き通った水は、深いところから発光しているように輝いている。
一本の赤い橋の入口には「これより先関係者以外立入禁止」の立て看板があり、槇はそれに着ていたエプロンをかけると、軽やかな足取りで橋を渡り始めた。
そうして、池の中心に浮いてある古い日本家屋の引き戸を開け、住人に声をかける。
「先生」
畳の香りや、障子から漏れる光。
槇はこの古めかしい家が昔から好きだった。いつも静かで、穏やかな時間が流れている。
縁側に向かうと、その人はいた。
「和臣先生。大丈夫?」
槇が黒い毛むくじゃらの塊になった男に声を掛けると、それがのっそりと動いてかすかに頷いた。
「ああ……槇さん、来てくれていたんですね」
「うん、一時間前に。どなたか来てるようだったから、神社の草むしりしてたの」
「それはすみません……手が回らなくて」
毛むくじゃらが、しゅんとしたように小さくなる。
槇は和室に床の間に恭しく飾られている銀色の鋏を手にすると、縁側で座るその後ろに立ち、毛むくじゃらの頭をぽんぽんと撫でた。
「じゃあ、切るね」
「お願いします」
もじゃもじゃとなっているのは、ものすごい量の髪の毛だ。それが身体を隠すほど伸びている。槇は髪を一筋持つと、鋏を入れた。ジャキっと音がした途端、その漆黒の糸の束は、もこっと綿のように変化してふわふわと浮き、きゃっきゃと無邪気に笑いながら槇と和臣の周囲を楽しそうに飛び回る。
「楽しそうですねえ」
和臣ののほほんとした声に、槇は迷いなく鋏を動かしながら「だねー」と相槌を打つ。
綿達は遊ぶのに飽きると、炭酸が弾けるようにパチパチと消えていった。全ての綿が消える頃には、毛むくじゃらの塊だったものはすっきりとした元の姿に無事戻る。
灰色のスーツに、黒い長羽織。
若いのに穏やかな顔をしたその男は、自分の癖のある髪を確かめるように触れると、槇を見上げて優しく笑んだ。
「ありがとうございます。頭が軽くなりました」
「先生、不調は?」
「ないですよ。槇さんはどうですか?」
来た。
槇は和臣の隣にストンと座った。
「大丈夫。これでもこの世越間神社の跡継ぎだからね」
「そうですか……よかったぁ」
本気でほっとされるので、槇は思わず詰まってしまいそうになったが、それでもぐっと和臣に近づいた。
にこやかなまま、その分距離を取られる。
「先生」
「はい、なんでしょう」
「今日は誰が来てたの? 珍しくすごい量の髪だったけど」
「守秘義務なので答えられません」
和臣は真面目に答える。
それでも槇は諦めなかった。
「あんな量だし、相当愚痴を聞かされたんじゃない?」
「ええ、まあ。神様って大変ですねえ」
「先生も聞くの疲れたでしょ」
「それが邪神のお仕事ですから」
「……」
「? どうかしました?」
ほわんと首を傾げる和臣に、陰りはない。
槇は頭を抱えたくなった。
この攻防は、もう毎日しているが、和臣は全くストレスを感じていないように穏やかに過ごしている。
信じられないことだった。ただの高校教師だった男が、ひたすら各地の神様が言いに来る愚痴を聞き続けているのだ。
世越間神社には、邪神がいる。
人に災いをなす神ではなく──その役割は、神様と呼ばれる存在の愚痴を聞くこと、つまり、神様専用のカウンセラーだった。
代わりに災いを受け取り、それを自ら浄化する。
本来ならば後継ぎである槇が次の邪神となるはずだったというのに、高校一年の時の担任であった和臣がなぜかうっかり先代の邪神からバトンを受け取ってしまった。彼は世越間神社とは全く関係ないので浄化ができず、こうして槇が通って浄化をすることになったが──
「私、この世越間神社の、跡継ぎ、なんだよね」
「そうですね」
「そろそろ邪神を変わってもらえないかな?!」
前のめりに提案をした槇に、和臣は穏やかな顔で「いやです」と却下を言い渡す。
なぜかこの元担任は、意地でも槇に邪神の立場を返したがらない。
「簡単なんだよ。知ってるでしょ? 先生痛いこと嫌いで血液検査も涙目になるらしいけど、痛いことなんてないから!」
「な、なんでそんなこと知ってるんですか」
真っ赤になる和臣に、槇は突進する勢いで長羽織の襟を掴む。
「さあ、不満を言って!」
邪神の交代なんて簡単な話だ。
邪神から愚痴を聞けばいい。
しかし、和臣は微笑んだまま「不満なんてないですよ」と生ぬるい視線で槇を見る。
駄々をこねている子供になった気分にさせられるその目から、槇は即座に逃げた。顔を覆う。泣き真似だが、和臣には通用しなかった。優しく「やめなさい」と言われる。
「先生、頑固すぎる……」
「お互い様ですよ」
「……私、邪神になりたいの」
「一年生の時の面談でもそう言っていましたねえ」
「千年に一度の逸材だって言われて育ってきたんだよ」
「知ってます。クラスメイトもあなたによく相談していたと聞いています」
「邪神を代わって」
「いやです」
「頑固!!!」
「すみません……でも、この暮らしが楽すぎて」
そっと肩に手をおいた和臣が曇り無き目で槇を見つめた。
「衣食住完全に保証され、身の回りの世話はしていただけるし、さらに話を聞くだけで感謝され、ゴロゴロダラダラしても文句を言われず、クソ煩い保護者の対応にも追われないし問題児に頭を悩ませることもない……ここは天国です」
「だから代わってって言ってるのに!!!」
槇が声を上げると、和臣は楽しそうにからからと笑った。
冗談なのか本気なのか、未だによくわからない。
槇は悔しげに立ち上がると「帰る」と睨むように見下ろした。
「はい。気をつけて帰ってくださいね」
「……あ、明日も来るから」
「待ってます」
にこ、と笑われた槇は、どたばたと退散する。
社まで戻り、階段を半分まで駆け下りたところで、はたと気づいたように足を止めた。
「あ、コート……!」
自分のセーラー服を見下ろして、くるりと階段を駆け上る。
背中で、長い黒髪が風に靡く。
その後ろ姿は爽やかだが──彼女の顔は必死だった。
この格好を他の誰かに見られるわけにはいかない。
なぜなら彼女は今はもう女子高生ではないからだ。
天原槇、二十歳。
本来ならば高校卒業と同時に邪神に就職して悠々自適に暮らすはずが、二年前に元担任である逢田和臣にその立場を掠め取られてからは、悲しいことに無職を続行中だった。
邪神になりたい。
邪神になりたい。
邪神になりたい……!
必死に階段を登りながら槇が呟く。
ひょんなことから女子高生のフリまでして日参することになったが、まだその夢は叶いそうにない。
──(元担任の)邪神と(元)JK──
読んでくださり、ありがとうございます。
相変わらず趣味のままに書いていますが、日常系ほっこりラブコメと位置づけて、じれじれな先生と生徒を書ければなぁと思っています。
よろしくお願いします!