第9話 夜明けの誓いと、迫り来る西の風雲
夜明けの光が、賢者祭壇の傷跡と、私たちの疲労困憊の姿を容赦なく照らし出していた。けれど、その光はどこまでも優しく、まるで私たちの小さな勝利を祝福してくれているかのようだった。
玄太さんが、月光に清められた特別な白絹の布を取り出し、厳かな手つきで、穏やかな瑠璃色の輝きを放つ月光蘭をそっと包み込む。その根元の土も少量、共に採取する。まるで壊れ物を扱うように慎重な手つきからは、この奇跡の薬草に対する深い畏敬の念が伝わってきた。金色の小魔霊は、その作業が終わるまで、月光蘭のそばを片時も離れず、静かに旋回していた。
「……帰ろう、村へ。皆が待っておる」
玄太さんの言葉に、私たちは頷いた。身体は鉛のように重く、瞼は今にも落ちてきそうだったけれど、胸の中には確かな達成感と、そして未来への大きな希望が満ちていた。
村へ戻る道すがら、健太くんが私の肩の怪我を心配そうに覗き込んできた。
「里奈さん、大丈夫か? 顔色悪いぜ」
「うん、ちょっと擦りむいただけだから。それより健太くんこそ、あの時庇ってくれてありがとう」
「へへ、あれくらい当然だって!」
朝日を浴びて笑う彼の顔は、少し大人びて見えた。
村の入り口では、夜通し私たちの帰りを待っていたのだろう、数人の村人と、目をこすりながらも心配そうに佇む子供たちの姿があった。私たちが、玄太さんに抱えられた月光蘭(もちろん布で覆われている)と共に姿を現すと、彼らの顔には驚きと安堵、そして何よりも強い好奇の色が浮かんだ。
「おお、戻られたか!」
「け、怪我は……?」
口々に声をかけてくる村人たちに、玄太さんは穏やかに頷き、「心配かけたな。詳細は後ほど。まずは、健太の手当てと、皆、少し休ませてくれ」とだけ告げた。
母屋に戻ると、まず健太くんの肩の手当てだ。幸い、打撲と軽い擦り傷程度で済んでいた。玄太さんが手際よく薬草をすり潰し、湿布を作って貼り付けていく。その間、私はというと、いつの間にか傍らに立っていた梅蔵さんから、ぶっきらぼうに木の椀を差し出されていた。
「……お飲み。無理をしおって。顔色が土気色じゃぞ」
椀の中には、温かい薬湯。独特の苦味と、ほんのりとした甘みが身体に染み渡る。
「ありがとうございます、梅蔵さん」
素直にお礼を言うと、梅蔵さんはふい、と顔をそむけた。
「……月光蘭は、ただ力を示せばよいというものではない。あの厄災はな、賢者自身が、そして村人たちが、その力を過信し、自然の摂理を忘れようとした結果じゃ。お前さんは……そうなるなよ」
その言葉は、いつもの棘はなく、静かで、深い教訓を含んでいた。まるで、大切な弟子に語りかける師匠のようだ。この一夜で、梅蔵さんの私に対する態度が、明らかに変わったのを感じた。
月光蘭は、玄太さんの薬草小屋の奥、特別に清められた祭壇のような場所に、そっと安置された。金色の小魔霊は、まるでそれが自分の定位置であるかのように、月光蘭の傍らにふわりと浮かび、穏やかな光を放ち続けている。その光景は、あまりにも神秘的で、私たちはしばらく言葉もなく見入ってしまった。
「この月光蘭を、まずは安全に保護し、そして安定して育てていく方法を見つけねばならんな」
玄太さんが、月光蘭を見つめながら静かに言った。
「そして、その薬効を正確に把握し、証明することができれば……この春光村が『薬草の里』として再生し、国から“特別天然記念物”の認定を受けることも、決して夢ではないかもしれん」
その言葉に、私の胸は高鳴った。それこそが、私の、私たちの目標なのだから。
「そのためには、まずこの月光蘭の正確な薬効を調べる必要があります」私は提案した。「古文書には『万病を癒す』とありましたが、具体的にどのような効果があるのか。そして、他の薬草の薬効を高めるという触媒効果についても、実験して検証したいです」
私の言葉に、玄太さんは力強く頷いた。
「うむ。里奈どのの知識と分析力があれば、きっと月光蘭の真の力を解き明かせるじゃろう」
そこへ、肩の手当てを終えた健太くんが、元気いっぱいの顔でやってきた。その瞳は、昨夜の冒険の興奮と、新たな決意でキラキラと輝いている。
「俺、この村が、もっともっと好きになったよ! 里奈さんや玄太さん、それに梅蔵ばあちゃんが、こんなに村のために頑張ってるの見て、俺も何かしてぇって、本気で思ったんだ! 月光蘭のこと、村のこと、俺にできることあったら、これから何でも言ってくれよな!」
その真っ直ぐな言葉が、私たちの疲れた心に温かい火を灯してくれた。
私は、具体的な実験計画を頭の中で組み立て始めた。月光蘭の花弁をごく微量だけ使い、村で採れる一般的な薬草――例えば、解熱作用のある『キキョウ』や、鎮痛効果のある『シャクヤク』などと組み合わせて煎じ薬を作ってみる。そして、その効果を比較対照するのだ。
(小魔霊たちの反応も、重要なデータになるかもしれない……)
そんなことを考えていると、不意に、村の外から慌ただしい馬の蹄の音が聞こえてきた。こんな早朝に、一体誰だろう?
村の入り口へと向かうと、そこには息を切らせたローセルさんの姿があった。彼は、予定よりも数日早く村を訪れたようで、その手には一通の封蝋された手紙が握られている。その表情は、いつもの爽やかな笑顔ではなく、焦りと緊張に強張っていた。
「里奈さん! 玄太さん! 大変なことになりました――!」
ローセルさんは、馬から飛び降りるなり、私たちに駆け寄ってきた。
「西の都で、以前お話しした流行り病が……かつてない勢いで蔓延し、多くの人々が苦しんでいると、緊急の知らせが……!」
西の都の流行り病――その言葉が、私の胸に重く響いた。
手に入れたばかりの奇跡の薬草、月光蘭。
それは、春光村の希望の光であると同時に、今まさに、村の外の誰かを救うための鍵となるのかもしれない。
私たちの、そして月光蘭の、本当の試練は、これから始まるのだ。
(第九話 了)