第8話 荒ぶる秘薬、絆で繋ぐ鎮めの儀
月光蘭から放たれる瑠璃色の奔流は、もはや神秘の輝きではなかった。それは、制御を失った自然の猛威そのもの。賢者祭壇の古びた石畳が悲鳴を上げてひび割れ、周囲の木々は根こそぎ吹き飛ばされんばかりにしなり、小魔霊たちの光は恐怖に歪んで明滅している。
「うわあっ!」
健太くんが、私のすぐそばで大きくバランスを崩した。頭上からは、祭壇の石柱の一部が剥がれ落ちてくる。
「健太くん、危ない!」
咄嗟に彼を突き飛ばした瞬間、私の肩に鈍い衝撃が走った。幸い、大きな石ではなかったけれど、ズキリとした痛みに顔をしかめる。
「やはりじゃ……! あの時と、全く同じじゃ……! もう、ダメじゃ……この村も、わしらも……!」
梅蔵さんが、膝から崩れ落ち、力なくその場にへたり込んだ。その瞳には、かつての厄災が鮮明に蘇っているのだろう。絶望が、彼女の全身を支配していた。
玄太さんも、なすすべなく立ち尽くし、月光蘭の暴威を前に唇を噛み締めている。
(このままじゃ、本当に村が危ない……! 私が、何とかしなきゃ!)
肩の痛みに耐えながら、私は必死に思考を巡らせた。パニックになりそうな自分を叱咤し、目の前の状況を冷静に見つめる。元ITコンサルの問題解決能力、今こそ発揮する時だ。
その時、私の肩で、金色の小魔霊がチカ、チカ、と普段とは違う、複雑なリズムで明滅を始めた。そして、月光蘭と祭壇の窪みの間を、何度も往復するように飛び回る。それはまるで、何かを訴え、何かを示そうとしているかのようだった。
「そうだ……この子たちがいる! この子たちの声を聞けば、きっと……!」
私の切羽詰まった声と、金色の小魔霊の必死のサインに、玄太さんがハッとしたように顔を上げた。
「まさか……! あの古文書にあった、月光蘭を鎮めるための『調和の薬草』と『鎮めの祝詞』かっ!?」
その言葉に、絶望の淵にいた梅蔵さんが、弾かれたように顔を上げた。
「な……あれは、禁術じゃ! 村の奥深くに封印された、忌まわしき記憶……。一度しくじれば、術者もろとも、この地は瑠璃色の炎に包まれるぞ!」
梅蔵さんの声は恐怖に震えていた。しかし、彼女は私の目を、そして私の周りで必死に何かを伝えようとしている小魔霊たちを、食い入るように見つめた。
「……じゃが……この小娘と、この小魔霊たちならば……あるいは……!」
梅蔵さんの瞳に、かすかな光が宿る。それは、絶望の闇の中に見つけた、一縷の望み。
「やるしかないようじゃな。……小娘! あんたの、その小魔霊に好かれるという奇妙な体質と、玄太の薬草の知識、そして……わしに伝わる、禁断の祝詞が揃えば……あるいは、この荒ぶる月光蘭を鎮められるやもしれん!」
その言葉は、もはやいつもの皮肉めいたものではなく、覚悟を決めた者の力強さに満ちていた。
「はい!」私は力強く頷いた。
梅蔵さんが、震える声で、しかし一言一句に力を込めて、古の祝詞を唱え始めた。それは、私が今まで聞いたこともない、厳かで、どこか物悲しい旋律を帯びた言葉だった。
同時に、玄太さんが叫ぶ。
「里奈どの! 『竜胆』じゃ! それから『黄連』の根! そして『百合』の球根! 急いで、それを祭壇の周りから!」
指示された薬草は、幸いにもこの賢者祭壇の周辺に自生していたものだった。私は小魔霊たちに導かれるように、瞬時にそれらを集め、玄太さんの指示通りに石の上で素早くすり潰していく。健太くんは、肩の痛みに顔を歪めながらも、ランタンを高く掲げ、私たちの作業場を照らし続けてくれている。彼の額には、玉のような汗が光っていた。
「よし、それを……金色の小魔霊の導きに従い、月光蘭の根元と、祭壇の窪みに……捧げるのじゃ!」
梅蔵さんの声が、風雨の音にかき消されそうになりながらも、私の耳に届く。
金色の小魔霊は、まるで私の手を取るように、すり潰した薬草を少量ずつ、月光蘭の根元、そして祭壇の窪みへと導いていく。その間も、梅蔵さんの祝詞は途切れることなく、厳かに響き渡る。
私の全身全霊が、この一点に集中していく。
するとどうだろう。
荒れ狂っていた月光蘭の瑠璃色の光が、徐々に、本当に徐々にではあるが、その勢いを弱めていくのが分かった。祭壇の揺れも、少しずつ収まりつつある。
小魔霊たちの光も、怯えたような明滅から、どこか安堵したような、穏やかな輝きへと変わっていく。
そして、ついに――。
月光蘭から放たれていた強大なエネルギーの奔流が、まるで嵐が過ぎ去ったかのように、ふっと静まった。
瑠璃色の花弁は、依然として神秘的な輝きを保っているものの、その光はどこまでも穏やかで、優しく、そして力強い。
金色の小魔霊が、私の肩にそっと止まり、安心したように小さなため息をついた……ような気がした。
「……鎮まった……のか……?」
玄太さんが、呆然と呟く。
賢者祭壇には、夜明け前の静寂が戻っていた。
私たちは、あまりの緊張と疲労に、その場にへたり込んでしまった。
東の空が、ほんのりと白み始めている。
梅蔵さんが、ゆっくりと私の方へ歩み寄り、私の顔をじっと見つめた。その瞳には、もう恐怖の色はない。代わりに、深い安堵と、そして……初めて見る、称賛に近い眼差しが浮かんでいた。
「……あんた……とんでもない小娘じゃよ。わしが、間違っておったわ」
その言葉は、何よりも嬉しい褒め言葉だった。
玄太さんは、静かに鎮座する月光蘭を見つめ、深く息を吸い込んだ。
「これが……月光蘭の、真の姿。そして、村の希望になるやもしれん。……しかし、この力は、やはり慎重に扱わねばならんな」
その言葉には、薬師としての畏敬の念と、村長としての責任感が滲んでいた。
その時、私の脳裏に、ふとローセルさんが言っていた言葉が蘇った。
『西の都では風邪が流行っているそうで、解熱作用のある薬草の需要が高まっていますよ』
この月光蘭の力を使えば、あるいは……。
夜明けの光が、賢者祭壇を、そして私たちの顔を、優しく照らし始めていた。
私たちは、確かに奇跡を手にした。
しかし、それは同時に、新たな物語の始まりを告げているのかもしれない。
(第八話 了)