第2話 頑固爺さんと、きらめく希望の芽
春光村での二度目の朝は、何とも賑やかな目覚めだった。
「ん……ふぁ……」
まだ少し重い瞼をこすりながら身を起こすと、枕元でチカチカ、ピコピコと小さな光がダンスしている。昨日私に懐いてくれた小魔霊たちだ。昨夜、私が眠りにつくまで部屋の中をふわりふわりと漂い、朝にはこうして起こしに来てくれたらしい。
黄色の光はせわしなく私の鼻先をかすめ、青い光は私の髪をそっと引っ張る。緑色の光は、まるで「早く起きて!」とでも言うように、私の布団の上でぴょんぴょんと跳ねている。
「ふふ、おはよう、みんな」
思わず笑みがこぼれる。こんな風に起こされるなんて、けたたましいアラーム音で叩き起こされていた東京での生活とは大違いだ。まるで、小鳥……いや、小さな光の妖精に囲まれたお姫様にでもなった気分だ。柄じゃないけど。
玄太さんが用意してくれた簡素な着替え――麻の着心地の良い作務衣に着替えて母屋へ向かうと、囲炉裏には既に火が入り、香ばしい匂いが漂っていた。
「おお、里奈どの、おはよう。よく眠れたかな?」
「はい、玄太さん。おかげさまで、ぐっすりと」
嘘じゃない。ここ数年で一番深く、穏やかな眠りだった気がする。玄太さんは「それは良かった」と相好を崩し、囲炉裏で焼いたばかりの雑穀入りの焼きおにぎりと、山菜の味噌汁、それから手作りの漬物を差し出してくれた。
「ささ、遠慮はいらん。今日は少し日差しも柔らかい。食後にでも、わしの薬草畑を案内しようかの」
「薬草畑、ですか?」
私の目が輝いたのを、玄太さんは見逃さなかったらしい。
「ああ。この村の宝じゃ。まあ、今は少し寂しいことになっておるがな……」
最後の言葉に、玄太さんの表情がほんの少しだけ曇った気がした。
朝食をいただきながら、私は思い切って尋ねてみた。
「あの、玄太さん。この村には、玄太さんの他に薬師の方はいらっしゃるんですか?」
玄太さんは、味噌汁を一口すすると、ふう、と息を吐いた。
「……残念ながら、今はわし一人じゃ。昔は何人かおったんじゃが、皆、年老いて山を降りたり、後を継ぐ者もいなくてのう。若いもんは、もっと賑やかな町へ出て行ってしまうわい」
その声には、諦めと、それでも捨てきれない寂しさが滲んでいるように聞こえた。過疎化、後継者不足。それは、私がニュースで耳にしていた、日本の多くの地方が抱える問題だ。この美しい村も、例外ではないらしい。
「だから、里奈どののような若い人がここに来てくれたのは、わしにとっては望外の喜びなんじゃよ」
玄太さんはそう言って、私に優しい目を向けた。その言葉に、胸がきゅっと締め付けられるような思いがした。過労で倒れただけの私に、そんな期待を寄せられても困る。薬草の知識も、魔法の心得も、何もないのだから。
(でも……)
私の周りを、心配そうに飛び交う小魔霊たち。彼らの純粋な好意と、玄太さんの温かい眼差し。それらは、凍りついていた私の心を、少しずつ溶かしてくれるような気がした。
食後、玄太さんに連れられて外に出ると、空気がひんやりとして心地よかった。
「畑までは少し歩くが、大丈夫かな?」
「はい、平気です。なんだか、身体がすごく軽いんです」
これも嘘じゃない。昨日まであんなに重かった身体が、まるで羽が生えたように軽い。これも、小魔霊たちや、この村の空気のおかげなのだろうか。
小魔霊たちは、まるで道案内をするように私たちの前をチカチカと飛び交い、時折私の足元に咲いている小さな花を指し示すように、その周りをくるくると回る。
「おやおや、あの子らは本当に里奈どのが好きと見える。その花はな、『トウキ』と言うて、婦人病の妙薬になるんじゃ」
玄太さんが教えてくれる薬草の名を、私は一つ一つ心に刻みつけようと必死だった。元ITコンサルの記憶力、なめたものじゃない……はずだ。
畑へ続く小道を歩いていると、向こうから杖をついた小柄な老人が歩いてくるのが見えた。身に纏っているのは、玄太さんと同じような藍色の作務衣だが、もっと着古されていて、独特の威圧感がある。鋭い眼光が、真っ直ぐに私を射抜いた。
「玄太。……そこの小娘はなんじゃ? 見かけん顔じゃが」
その声は、年齢に似合わずしゃがれていて、厳しい響きを帯びていた。小魔霊たちが、私の前にさっと集まり、まるで私を守るように老人との間に壁を作った。
「おお、梅蔵か。おはようさん。こちらは久遠里奈どの。昨日、峠でな……」
玄太さんが事情を説明しようとすると、巴梅蔵と名乗った老人は、私の頭のてっぺんからつま先までをじろりと眺め、ふん、と鼻を鳴らした。
「都会のもやしっ子に、この村で何ができるというんじゃ。見てみい、小魔霊などという得体の知れんものを侍らせて。薬師たるもの、そんな浮ついたものに頼るでないわ」
「こ、これは……!」
梅蔵さんの言葉は、棘のように私の胸に突き刺さった。確かに私は薬草の知識もない素人だし、小魔霊のこともよく分かっていない。でも、「得体の知れないもの」なんて言い方はひどい。
すると、私の周りを飛んでいた小魔霊たちが、カッとなったように梅蔵さんの周りを威嚇するようにブンブンと飛び回り始めた。特に気の強そうな赤い光の小魔霊は、梅蔵さんの眉間に向かって突進しそうになっている。
「お、おい、みんな、やめなさい!」
玄太さんが慌てて制止すると、小魔霊たちはしぶしぶといった様子で私の元へ戻ってきたが、それでも梅蔵さんへの警戒は解いていないようだ。
梅蔵さんは、小魔霊たちの意外な行動に一瞬だけ目を見張ったようだったが、すぐにいつもの険しい表情に戻った。
「……玄太。甘やかすのも大概にせい。薬師の道は厳しいぞ。こんな小娘に、何年もかけて培ってきた我々の知恵が、そうやすやすと渡せると思うな」
そう言い捨てると、梅蔵さんは私たちに背を向け、ゆっくりと去っていった。
(……なんだか、すごい人に睨まれちゃったな)
しょんぼりする私を見て、玄太さんは「はっはっは」と困ったように笑った。
「梅蔵も、口は悪いが根は優しいんじゃ。ただ、薬草とこの村への愛情が深すぎて、少しばかり頑固なだけじゃよ。気にするな」
優しい言葉に励まされつつも、梅蔵さんの厳しい眼差しは、私の心に小さな影を落としていた。
やがてたどり着いた玄太さんの薬草畑は、想像していたよりもずっと広大だった。様々な種類の薬草が、まるで区画整理されたように整然と植えられている。それでも、所々雑草が生い茂り、手入れが行き届いていない場所も散見された。
「これが、わしの戦場であり、宝物庫じゃ」
玄太さんは、愛おしそうに畑を見渡しながら言った。
「ここにある薬草の一つ一つに、命を救う力がある。わしらは、その声を聞き、力を借りる。ただそれだけのことじゃ」
その言葉には、薬師としての深い誇りと哲学が感じられた。
私は、畑にしゃがみ込み、そっと土に触れてみた。しっとりと湿った土の感触、力強く根を張る薬草の生命力。それらが、ダイレクトに手のひらから伝わってくる。
小魔霊たちが、私の周りで嬉しそうに飛び交い、いくつかの薬草の葉をツンツンと突いている。まるで、「これがオススメだよ!」とでも言いたげに。
(私には、まだ何も分からない)
(でも……)
ふと、過労で倒れる直前まで追い詰められていた自分が嘘のように、心が澄み渡っていくのを感じた。モニターの光ではなく、太陽の光を浴びて。キーボードを叩く音ではなく、風の音や鳥の声を聞いて。無機質なデータではなく、命の息吹に触れて。
「玄太さん」
私は、決意を込めて顔を上げた。
「私、薬草のこと、もっと知りたいです。いえ……教えてください。私に、何かできることはありませんか?」
玄太さんは、私のまっすぐな目を見て、一瞬驚いたように息を呑んだ。そして、次の瞬間、その顔に満面の笑みが広がった。
「……ああ、もちろんだとも。まずは、身体を慣らしながら、この土と、薬草たちと、そして小魔霊たちと、ゆっくり心を通わせることからじゃな」
その言葉と同時に、私の周りを飛び交っていた小魔霊たちが、まるで祝福するかのように、一層強い輝きを放ち始めた。キラキラと降り注ぐ光のシャワーに包まれながら、私は、この春光村で、新しい一歩を踏み出す予感を感じていた。
遠くで、梅蔵さんがこちらをじっと見つめているような気がしたが、今の私には、それすらも新たな挑戦へのスパイスに思えた。
(第二話 了)