第10話 西の風雲、月光蘭に託された願い
ローセルさんがもたらした緊急の知らせは、夜明けを迎えたばかりの春光村に、新たな緊張の影を落とした。彼が懐から取り出した手紙を、玄太さんが神妙な面持ちで読み上げる。そこには、西の都で猛威を振るう未知の流行り病の惨状が、克明に記されていた。
『――高熱に続き、激しい咳と呼吸困難に見舞われ、既存の薬草はことごとく効果なく、日を追うごとに死者の数は増すばかり。医師たちも匙を投げ、都は絶望の淵に沈みつつあり……』
ローセルさん自身も、その地獄のような光景を目の当たりにしてきたのだろう。彼の顔は青ざめ、その声は絞り出すようにかすれていた。
「このままでは、都は……本当に、死の街になりかねません。何か、何か特効薬となるものを見つけなければ……!」
その悲痛な訴えは、私たちの胸を強く打った。
私と玄太さんは、思わず顔を見合わせた。脳裏に浮かぶのは、安置されたばかりの月光蘭の、あの神秘的な瑠璃色の輝き。あれならば、あるいは……。しかし、その希望と同時に、重い責任感がのしかかってくる。まだ薬効も 제대로把握できていない幻の薬草。その存在が外部に知られれば、この小さな村がどうなってしまうのか……。
その時、私たちの背後から、雷のような声が飛んできた。
「馬鹿者どもがっ! 月光蘭の力を、みだりに外部に示すなど、飢えた狼の群れにみすみす肉を投げ与えるようなものじゃ! あの祭壇での厄災を、またこの村で繰り返す気かえ!」
梅蔵さんだった。その顔は怒りと、そしてそれ以上に深い憂慮で歪んでいる。
「都の者らが気の毒なのはわかる。じゃが、それでこの村が滅んでしまっては元も子もないじゃろうが!」
しかし、ローセルさんが語る都の子供たちの苦しむ様子、助けを求める人々の絶望の声を聞くうちに、梅蔵さんの険しい表情が、わずかに揺らいだように見えた。彼女もまた、薬師なのだ。目の前の苦しむ者を見過ごせない魂が、心の奥底で疼いているに違いない。
私は一人、月光蘭が安置された薬草小屋の奥へと向かった。瑠璃色の花弁は、静かに、しかし力強い生命力を放っている。金色の小魔霊が、私の気持ちを察したかのように、そっと頬にすり寄ってきた。
(多くの命を救えるかもしれない。でも、梅蔵さんの言う通り、村を危険に晒すわけにはいかない……。どうすれば……)
迷い、葛藤する私。その時、金色の小魔霊が、月光蘭の花弁にそっと触れ、そして、私に向かって優しい、それでいて何かを促すような強い光を放った。
まるで、「信じて」とでも言うように。
その光に背中を押され、私は心を決めた。
玄太さん、梅蔵さん、ローセルさん、そして健太くんを集め、私は自分の考えを伝えた。
「月光蘭の力を、まずは私たちが正確に把握しなければなりません。西の都の流行り病に効果があるかどうかを判断するためにも、そして、この村で安全に管理していくためにも。そこで提案なのですが……」
私は、村で飼っている家畜の中で、最近元気がなく、微熱と咳が続いている老ヤギがいることを思い出した。
「あのヤギの症状は、都の病とは違うかもしれませんが、まずはごく微量の月光蘭を使い、他の薬草と調合して、薬効を試させてはいただけないでしょうか。もちろん、細心の注意を払い、実験の経過と結果は私が責任を持って記録し、情報は完全に秘匿します」
私の提案に、場は静まり返った。
最初に口を開いたのは、玄太さんだった。
「……里奈どのの言う通りかもしれん。未知の力であるからこそ、まずは我々自身がそれを知らねばならん。危険は伴うが、やらねばならんことじゃろう」
次に、梅蔵さんが重々しく口を開いた。
「……一度きりじゃぞ。そして、万が一のことがあれば、その責任は……わしが負う。薬師として、この村の人間として」
その言葉には、苦渋の決断と、私への信頼が込められているように感じられた。
健太くんは、「俺、試験に必要なものがあったら何でも持ってくるし、小屋の周りの見張りもするぜ!」と、いつものように快活に言ってくれた。
ローセルさんは、私たちのやり取りを複雑な表情で見つめていたが、やがて深く頷いた。
「結果がどうであれ、その情報は私が責任を持って都の信頼できる筋にのみ慎重に伝えます。しかし……もし月光蘭が本当に特効薬となるなら、その価値を知れば、必ずやそれを手に入れようとあらゆる手段を講じる者たちが現れるでしょう。その覚悟だけは、しておいてください」
彼の言葉は、私たちの背負うものの大きさを改めて突きつけてきた。
こうして、春光村の未来、そしてあるいは西の都の運命をも左右するかもしれない、最初の薬効試験の準備が始まった。
対象となるのは、村の子供たちにも可愛がられている老ヤギのユキちゃん。玄太さんが、月光蘭の瑠璃色の花弁から、ほんの米粒ほどのひとかけらを慎重に切り取り、乳鉢に入れる。そこに、解熱作用のある『葛根』と、咳を鎮める『杏仁』を加え、丁寧にすり合わせていく。金色の小魔霊が、その作業をじっと見守り、時折、乳鉢の中の薬草にふわりと光を当てている。まるで、力の調合を手伝っているかのようだ。
息を詰めるような緊張感の中、調合された薬湯が完成した。
私が、祈るような気持ちで、その薬湯をユキちゃんに飲ませようと、そっと口元へ運んだ、まさにその瞬間――。
ドッドッドッ……!
村の外れの方から、複数の馬が駆ける音と、野太い男たちの声が、静寂を破って響いてきた。
「おい! この村に、何か特別な薬草があるというのは、本当かぁ!?」
その声には、隠しきれない欲望と威圧感が滲んでいた。
ローセルさんの顔色が変わる。
「まさか……こんなに早く……!?」
玄太さんと梅蔵さんも、厳しい表情で顔を見合わせる。
招かれざる客。
月光蘭の奇跡が、早くも暗雲を呼び寄せようとしていた。




