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第1話 目覚めたら、そこは薬草の香る山奥でした

 チカ、チカ、と不規則に点滅する蛍光灯の光が、重たい瞼の裏で踊っていた。

『久遠さん、この仕様書、今日の15時までにお願いできる? あ、あとクライアントから追加要望で……』

『里奈ちゃん、悪いんだけど、こっちのデバッグもお願い! 人手が足りなくてさー』

『クオン、データ抽出終わった? 明日の会議で使うから、今夜中にまとめておいて』


 上司、先輩、同僚。際限なく降りかかる仕事、仕事、仕事。最後の記憶は、会社のデスクで自分の名前が呼ばれたような気がしたところで、ぷつりと途切れている。ああ、私、また倒れたんだっけ。これで何度目だろう。もう、指折り数えるのも億劫だ。


 次に意識が浮上した時、まず感じたのは、今まで嗅いだことのない清浄な香りだった。まるで森林浴をしているような、それでいてどこか甘く、心が落ち着くような……。


「ん……」


 ゆっくりと目を開けると、そこは薄暗いけれど、温かみのある木の天井だった。視線を巡らせれば、簡素ながらも手入れの行き届いた和室。私が寝かされている布団も、ふかふかと太陽の匂いがする。


(会社……じゃない。病院? でも、この香り……薬草?)


 重い体をゆっくりと起こすと、チリチリとした小さな痛みが頭の奥で鳴った。それでも、いつも倒れた後に感じる鉛のような倦怠感は、不思議と感じない。むしろ、身体の芯がぽかぽかと温かいような、奇妙な感覚があった。


 障子の向こうから、小鳥のさえずりが聞こえる。なんて長閑なんだろう。私のいた東京のコンクリートジャングルでは、カラスの声くらいしか聞こえてこなかったのに。


「おや、お目覚めかな?」


 穏やかで、それでいてどこか芯のある男性の声がして、そっと障子が開かれた。そこに立っていたのは、白髪混じりの髪を後ろで一つに束ね、藍色の作務衣に身を包んだ、初老の男性だった。皺の刻まれた目元は優しく、まるで昔話に出てくる賢者のような雰囲気を纏っている。


「気分はどうじゃな? 無理はせんように」

「あ、あの……あなたは? ここは……?」


 掠れた声で尋ねると、男性はにっこりと微笑んで部屋に入ってきた。


「わしは赤井玄太あかいげんた。この春光しゅんこう村の、しがない薬師じゃ。あんたさん、村はずれの峠道で倒れておったのを、うちの若い衆が見つけてな。驚いたぞ、あんなところで人が倒れておるなど、ここ数十年はなかったことじゃから」


 春光村……? 峠道……? 全く記憶にない。私は確かに、東京のオフィスで……。


「あの、私、久遠里奈くおんりなと申します。東京の会社で……」

「東京、か。それはまた、ずいぶんと遠くからじゃな。まあ、細かいことはええ。今はゆっくり身体を休めることじゃ。何か食べられるかの? 薬草粥でもこさえてこようか」


 玄太さんと名乗った彼の言葉は、不思議とすんなり心に入ってきた。薬草粥、という響きにもなんだか惹かれる。私の胃袋は、最後に食べたコンビニのおにぎりを微かに記憶しているだけだ。


「……はい、少しなら、いただけそうです」


 玄太さんは「よしよし」と頷き、部屋を出て行った。

 一人残された部屋で、私は改めて周囲を見渡す。壁には古びた薬草の束がいくつも吊るされ、部屋の隅には薬研やげんらしきものも見える。窓の外に目をやれば、そこには息をのむような景色が広がっていた。


 どこまでも続く深い緑の森、きらきらと光を反射する清流、そして、風に乗って運ばれてくる、甘酸っぱい花の香り。まるで、一枚の美しい絵画のようだ。


(本当に、ここはどこなんだろう……)


 ぼんやりとそんなことを考えていると、ふと、視界の隅で何かがキラリと光った気がした。


「……ん?」


 目を凝らすと、それは窓辺に置かれた小さな鉢植えの、葉の陰だった。淡い緑色の葉の上に、まるで朝露のように、小さな光の粒が一つ、ちょこんと乗っている。大きさは小指の爪ほどだろうか。それが、まるで呼吸をするように、ふわり、ふわりと明滅している。


(ホコリ……にしては、光りすぎてる?)


 手を伸ばそうとした、その瞬間。

 光の粒が、ぴょん、と葉っぱから飛び上がり、私の目の前でふわりと浮遊した。


「え……?」


 それは、小さな蛍のようでもあり、シャボン玉のようでもある、半透明の光の玉だった。よく見ると、その光の中心には、さらに小さな、星屑のような核が見える。

 そして、信じられないことに、その光の玉は、まるで私に興味を示したかのように、私の周りをくるくると回り始めたのだ。一つだけではない。窓の外からも、庭先の草むらからも、同じような小さな光が、次々と集まってくる。


 それらは淡い黄色だったり、柔らかな青だったり、温かい橙色だったりして、まるで小さな宝石が宙を舞っているようだ。

 そして、なぜだろう。この光を見ていると、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じる。怖いという気持ちは全くなく、むしろ、懐かしいような、愛おしいような……。


「これは……一体……?」


 私が呆然と呟くと、一番最初に現れた緑色の光の玉が、そっと私の伸ばした指先に触れた。ほんのり温かくて、くすぐったい。まるで、小さな子猫がじゃれついてくるみたいだ。

 すると、他の光たちも、我先にと私の周りに集まってきて、私の髪や肩、膝の上で、嬉しそうに明滅を繰り返す。


「わ……!」


 思わず声を上げると、ちょうど薬草粥の入ったお盆を持った玄太さんが戻ってきた。

「おお、これはこれは。小魔霊こまれたちが、よほどあんたさんのことを気に入ったと見える」

 玄太さんは、私の周りを飛び交う無数の光の玉――小魔霊というらしい――を見て、少し驚いたように目を見開いた後、嬉しそうに目を細めた。


「こ、小魔霊……? これが……?」

「そうじゃ。この村の薬草や木々に宿る、小さな精霊のようなものじゃよ。普段は人前にあまり姿を見せんのじゃが……こんなに大勢、しかもこれほど人に懐くのは、わしも初めて見たわい」


 玄太さんは、小魔霊たちが私の頬にすり寄ったり、髪の間をくぐり抜けたりするのを、微笑ましそうに見つめている。

 私はと言えば、目の前で起こっているファンタジーな現象に、頭の処理が全く追いついていない。

 薬草も魔法も、もちろん精霊なんてものも、これまで縁のない世界の住人だったはずなのに。


(私、どうやらとんでもない場所に迷い込んでしまったみたい……)


 けれど、降り注ぐ仕事の代わりに、キラキラと輝く小さな光たちに囲まれているこの状況は、不思議と嫌ではなかった。むしろ、社畜生活でささくれ立っていた心が、少しずつ解けていくような感覚さえある。


「さ、まずはこれを食べて元気をお出し。話はそれからじゃ」

 玄太さんに促され、私はほかほかと湯気の立つ薬草粥を一口、口に運んだ。

 ふわりと広がる優しい甘みと、身体の隅々まで染み渡るような滋味深い味わい。

 それは、ここ数年で食べたどんなご馳走よりも、ずっとずっと美味しく感じられた。


 そして、私の傍らでは、小さな小魔霊たちが、まるで「もっとお食べ」とでも言うように、キラキラと光を揺らめかせている。


 社畜生活にサヨナラ……は、まだ実感がないけれど。

 私の新たな相棒は、どうやらこのキラキラ光る小さな精霊たちになるのかもしれない。


(……これから私、どうなっちゃうんだろう?)


 一抹の不安と、ほんの少しの期待を胸に、私は春光村での最初の一日を、こうして迎えたのだった。


(第一話 了)

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