蜘蛛の糸が垂れるとき
--ある日の事でございます。御釈迦様は極楽の蓮池のふちを、独りでぶらぶら御歩きになっていらっしゃいました。--
ここまで書いたところで,男は余りの出鱈目に思わず噴き出した。釈迦牟尼が極楽浄土にいるものか。西方極楽浄土というのは阿弥陀如来が住まう世界で,そこに釈迦如来はいない。仏教のぶの字でもわかっていたらこんなことを書くはずがない。そもそものplot-筋立ても破綻している。地獄というのは死んだ後に生まれ変わる世界で,西方極楽浄土は文字通り西方に存している。極楽の蓮の池から地獄が覗ける道理はないのだ。もしこれから文壇にDebutしたいという若者がこんな小説を送ってきたら,勉強不足と言って端から突き返してしまうかもしれない。
しかし,今男が書いているのは児童文学だった。児童相手に釈迦と阿弥陀は違うだの,仏教における地獄や極楽と基督教における天国と地獄は違うだのとまくしたてるのは愚の骨頂だろう。Fictionは読み手に合わせてどれだけ嘘を混ぜることができるかに懸かっている。--もちろん,普段の男ならこんな批評家どもに批判の隙を与えるような半端な仕事をするはずがないが。
男の常套手段として,小説の題材は古典から拝借した。と言っても男の十八番である今昔物語集ではなく,児童向けの説話集から取ることにした。話は児童でも解りやすい因果応報の物語だ。因果応報ねえ。と,男はため息をついた。蜘蛛一匹の命を助けた程度で火付け強盗殺人等の悪事が帳消しになるような世の中ならば,己は小説を書いていないだろう。きっと田端で,あるいは本所で善良で平凡な,退屈で幸せな暮らしをしているに違いない。年を経るにつれ,因果応報などという素朴な道徳は男には信じられなくなっていた。しかしこの道理の通らない世界でも,否,だからこそこういった素朴な善悪を,児童たちには信じていてもらいたいものだ。ここまで考えて,男はまたため息をついた。己も随分とお優しくなったものよ。
ちっとも筆が進まないので煙管でも吸おうかとふと目をやると,部屋の隅を蜘蛛が一匹歩いていた。
「お前を助ければ,己も極楽に行けるのか。」
そう呟いて,芥川龍之介は,蜘蛛を,踏みつぶした。
芥川の蜘蛛の糸は,時折芥川の仏教理解が甘い証拠として語られることがあります。果たしてそうでしょうか。同じ1918年の地獄変には天人五衰(天界にいる人が死ぬときに醜く衰える状態)についてまで書いているのに,阿弥陀と釈尊の取り違えといった初歩的なミスを起こすでしょうか。そもそも,この「蜘蛛の糸」は「赤い鳥」という児童文芸雑誌に掲載されたものです。内容も,シビアではあるものの理不尽ではなく,子供でも理解できるようにという芥川なりの気遣いを感じます。実は芥川はセーブしながら蜘蛛の糸を書いていたのではないか。という妄想の元書いたのがこちらの小説(にしては短い)です。