5章・とりあえず礼儀作法を覚えましょう
パシィンッと、鈍い音と共に赤い色と痛みが手の平に広がった。
「いい加減していただけませんか?何度も同じ事を言わせないでください。
お辞儀もろくに出来ない。たった20mも満足に歩けないなど……今までどれだけ甘やかさせてきたのですか」
「……やってられっかぁぁぁ!!!」
頭の上に乗っけられていた本をミシエル先生目掛けて投げつける。
けれどそれをさも予測していました的にサッと右に顔だけ移動させてよけた彼はこちらの方が疲れましたとため息を付きながらハラハラと泣きまねをしてみせた。
もちろんハンカチを目に当てたまま。
すでに日常化されたこのやり取り、作法の『ミシエル先生』VS『あたし、神楽藍』の戦いは既に伝説化しているんじゃないかと思う。
お忘れかもしれないがあたしは異世界人。
作法とは程遠い生活をしていた人種なわけだから一歩歩くにもお上品に……なんて真似にも苦労する。
それを部屋の端から端まで。
はい、お辞儀から……なんてそんな高度な真似は難しすぎる。
「これくらい出来て当然なんですよ。年頃の女性が、今までどんな教育を受けてきたんですか?
初めからやり直しです。
ハイ!!パンパパパン!!今日はこのリズムを体が覚えるまで帰しませんよ」
「無理無理む~り!!」
もうヤダと、暑いわけでもないのだが緊張のせいで汗がドバドバ出てくる。
駄々をこねてもしょうがないけど無理なものは無理。難しすぎる。
挨拶の作法、食事の作法、ダンスの作法。
上げればきりがないくらい、作法はある。
それをある程度こなしてみせるのが当たり前だとミシエル先生は無理なことを言う。
セリオスのお嫁さん候補の貴族からしてみればパッと現れた庶民出のあたしが側室候補(と認識されている)というだけでもありえないのに、その上さらに礼儀作法を1つも知らないというのはかなり不味いらしい。
事実、何度も注意と嫌味を繰り返された。
なぜ、あなたみたいな下賎な輩が……身の程を知りなさい!!……と。
例えば第一妃候補のマリン・モンド嬢や第二妃候補のシャルロット・バノン嬢。
特にこの2人は相当あたしの存在が目障りなんだろう。
毎日飽きずにやってきては喧嘩を吹っかけてくるのだから。
それを黙らせるならそれ相当の身の振る舞いをするべきだと言われた。
分かってはいるのだけれど……頭では理解していても体がついていかないのだからしょうがない。
「ほら!!笑顔!!笑顔がたりない!!」
「だいぶ手こずっている様だな、ミシエル」
「陛下……」
現れたセリオスに驚いたようだがすぐに深くお辞儀をする。
あ、ヤバッ!!あたしもしなくちゃ。
ジロッとミシエル先生に睨まれ慌てて頭を下げる。礼儀作法基本中の基本。お辞儀。
これだけなんだよね、唯一合格点もらえたのって。
「成果のほうはどうだ?」
「このとおり」
真っ赤になった手を見せればそれだけで今日の結果が分かるというもの。
その行動にミシエル先生は怒って真っ赤になり、セリオスは面白そうに笑った。
あの2人きりで色々話した日からセリオスは少しずつだが本当の笑顔を見せるようになった。
それまでは義務的な会話しかなかったのだが最近では他愛のない話もするようになった。
家族のこと
友達のこと
自分の考え
好きな本
好きな花
好きな時間
どんなことが好きか
嫌いか
愛しあっているわけじゃない。
いうなれば……少しだけ、心を開いたというべきか。
「クッ……ハハハッ!!苦労かけるな、ミシエル」
「いえ、これくらいの事は」
「で、セリオスなんか用?」
「~~~!!アイ様!!セリオス殿下になんという口の聞き方を!!」
「良い。かまわん」
「そうそう。セリオスとあたしの仲だもんね」
「……どんな仲だ」
セリオス……そんな小さいうちから眉間に皺寄せてるとおっきくなっても直らなくなっちゃうよ?
……あ、セリオスもう20だっけ?もう手遅れか。
「……お前、なんか企んでないか?」
「ソンナコトアリマセン……で、何のよう?」
「リディがお茶会にお前を招待したいらしい」
「リディ様が?」
リディアース・エルタイン
このエルタイン王国の王位継承権第二位を持つセリオスの妹君。
つまりお姫様ってわけ。
歳は今年で13歳。あたしの2つ下でセリオスとは正反対のお転婆だといわれている。
これらは全て噂だけのものでしかないけどね。
でもまだ会ったこともないのに……なんであたしなんかが誘われるわけ?
「『お兄様。わたしく、この二週間一度もアイお姉さまにお会いしたことがありませんのよ。
ですから、今日催すお茶会にアイお姉様をご招待したいと思いますの』だと」
「セリオス、完璧に言い切ったね」
「これくらい当然だ」
「褒めてないよ!?」
「……ですがセリオス殿下、アイ様はまだ礼儀作法など」
「無視ですか!?!?」
「今回のお茶会は身内のみで行われる。問題ない」
「こっちも無視!?!?」
「ですが」
「喜んで参加させていただきます」
「……アイ様」
ごめん。実はもう限界だったの。
朝から約5時間。延々と行われる礼儀作法にはもうぶっ倒れそうだった。
つーかマジ切れる3秒前。
「決まりだな」
ですがさすがにその普段着で茶会に参加させるわけには行かない。
参加なさるならそれ相応の服装をしていただきます。
ミシェル先生のその一言でこれだけの精神的ダメージを負うことになろうとは……つくづくこの暮らしは自分にはあっていない気がする。
それに今だって……
「この衣装なに?」
心の底からウンザリとした顔をしているだろう。今のあたしは。
現在の衣装。
映画やゲームの中の貴族の着るようなフワフワドレスにアップにして整えられた髪。
薄く化粧された顔に豪華な装飾品。
激しく似合わないと反論したがその希望が叶えられることはなかった。
あぁ……映画なんかで見る貴族のお姫様みたい……格好だけは。
これでもかなり妥協したのですよ、アイ様が嫌がりますから……と先日任命されたあたし付きの侍女リサ(17歳)はそれはそれは不満そうな顔でそう言った。
似合わないんだけどなぁ……ホント。
「ねぇ、ホントにこの服じゃなきゃダメ?いつものじゃ」
「ダメです。リディ姫様とのお茶会をあのような質素な服で参加なさるおつもりですか?」
「あんな服でもあたしにとっちゃ十分豪勢なんだけど……この服には負けるけどさ」
「豪勢って……あれでもかなり抑えてあるんですよ。普段着ですし」
「普段着にしては豪華すぎなの。もっとこう……いっその事メイド服なんかが良いな。結構動きやすそうだし」
「……アイ様」
「……ごめんなさい」
リサ滅茶苦茶怖い。美人が怒ると迫力あるんだからやめて欲しいよ。
「もう……アイ様ったら……」
「ごめんごめん。反省しました」
「本当ですか?」
「うん。もちろん。
じゃ、仕度も済んだことだし」
お茶会を始めましょう。
藍が異世界から来たことを知るのはその場にいた3人と王族のみです。周りには田舎育ちの貴族であり、セリオスの側室候補として認識されています。