バケツ姫の噂①
「……うう、何なのよ、みんなして何なのよぉ」
ナナは疲れ切っていた。
「まあこの国にはバケツをかぶる文化はないから……あーほら、元気出してくれ。
そのうちみんなも慣れるさ! しかしあれは――」
――時は少しだけ遡る。
訓練場を出た後、ナナはニアンに案内されて、訓練場の裏手――大通りから見ると表側にある冒険者ギルドへと向かった。
訓練場と冒険者ギルドは背中合わせのような位置関係で建てられていて、訓練場から冒険者ギルドに向かうにはそれぞれの建物を回り込むように進む必要がある。
2人は訓練場が面している細い通りから裏路地を抜けて、大通りに出た。
城塞都市アバトの街中は、行き交う冒険者や兵士が多く、やや殺伐とした空気が流れていた。
ニアンによると普段はもう少し賑わいがある街だが、ここ1カ月ほどは厳戒態勢が敷かれているとのことだった。
だがそれはいい。
宿の食事が充実していたことからも、今のところ食料や衣料が不足しているということも無いようだ。
厳戒態勢の理由についても、兵士や上位の冒険者ならともかく、これから登録をしようとしている新人冒険者には関係のない話らしい。
2人は大通りに出てから冒険者ギルドの入口へ到着するまでの短い時間で、大勢の冒険者や兵士、商人、そして一般の平民と思われる人々とすれ違った。
そして、なんとその中のほぼ100%の人が、ナナの姿に気付いて目を見開き、珍妙なモノでも見るかのように、戸惑った視線を向けてきたのだ。
ナナは他人の視線には慣れている。
日本で暮らしていた頃、その美麗な容姿故に視線にさらされることはいつもの事だったからだ。
だが、アバトの人々からの視線は種類が違った。
多くの人は戸惑った後、ニアンとナナの顔、そしてナナの頭上のバケツを見比べ、怪訝な表情になる。
(お、おかしい。たしかにバケツを被るって普通じゃないとは思うけど、そこまで注目されるほど変かなぁ?
訓練場でもここまで変な見られ方はしなかったじゃん!
も、もしかしてこの国、廃刀令みたいに廃バケツ令でも出てるのかな。
バケツを取り上げることで身分を平等に……ってそんなわけあるかいっ!)
一人ツッコミに忙しいナナは知らないことだが、彼らがナナに注目しているのは何もバケツだけが理由ではない。
アバトで知らぬ者はいないとまで言われる英雄ニアン。
女性と関係を持つことがないと有名な彼が、昨日から見慣れない少女を大切そうに守りながら連れている。
しかもその少女は、この世界の人類には無いはずの特徴、黒髪黒瞳を有している。
さらに、少女は誰もが目を奪われる程の美貌とスタイルを兼ね備えており、見慣れない高貴な衣装でその身を包んでいる。
もしかしたらニアンの婚約者だろうか、もしくは王都から来た貴族の令嬢かもしれない、いや遠方の国の姫君に違いない。
しかしなぜ……バケツを被っているのだろうか。
バケツを被っている姫君……バケツ姫様なのだろうか。
などと最後の方はゲシュタルト崩壊を起こしつつも、ナナに関する噂はアバト内の噂好きな者達の中で飛び交っていた。
……特に最後のバケツ姫。
それは果たして何かを敬った呼称と言えるのだろうか。
真剣に議論しているアバトの人々の価値観。
謎である。
つまり平たく言うと、人々の極端な反応は、ニアンの名声とナナの容姿とバケツの3つが組み合わさったことが原因である。
ちなみにナナは訓練場でも周囲から同様の注目を集めていた。
だが、ガルフとの対戦内容の衝撃によって、細かいことは彼らの意識の外に追いやられてしまっていたため、今ほど奇異の目で見られることは無かっただけである。
(ねえこっち見ないでよぉ。
あー兵士さん、あなた達お仕事あるんでしょ?
なんで立ち止まって全員でこっち見てるのよぉ)
ナナの前方を横切って行った数人の兵士たちが、少し先で足を止め、ナナ達を見て固まっている。
その兵士の一団を避けるように迂回して、ナナの前方から歩いて来たのは冒険者の一団。
おそらくパーティなのだろう。
その先頭を歩いていた剣士っぽい人も、ナナの姿に気付くと歩みを止めて固まった。
(あああ急に止まると危ない――)
≪ガシャッ≫
「いでっ⁉ おい何だよ急に止まる――」
≪ドカッ≫
剣士の後ろから、狩人っぽい人や魔導士っぽい人が玉突き事故を起こしている。
アバトの住民は前を見て歩くということを知らないのだろうか。
(もう、ほら急に立ち止まると後ろの人がぶつかっちゃうってば――って御者さんはだめぇえええ!)
冒険者たちがドミノしているかと思ったら、今度はナナとニアンを後ろから追い越していった馬車の御者まで、ナナ達を凝視して固まっていた。
馬車の進行方向には、ドミノの結果バランスを崩して転がった魔導士っぽい人が『いててて』と起き上がろうとしている。
馬車に気付いている様子はない。
(危ない‼)
……とナナは思ったが、いつの間にか馬車は停止していた。
不思議に思ってそちらに顔を向けると、こちらを注視している馬と目が合った。
(ってサラブレッドぉ! お前もかぁ‼)
その馬がサラブレッド(純血種)かどうかは別として、ナナは思わず心の中でツッコんだ。
そしてナナが後ろからも視線を感じて振り向くと、それはもう、多種多様な人々が動きを止めてこちらを見ていた。
『こ、これは……包囲されている! 魔王、銀河の果てに逃げるしかないよね!』
ナナはバケツをガチャガチャさせ、無限収納の奥の銀河にむけて逃亡を図ろうとする。
『バケツに銀河は入っておらんと言うに! それにいまさらであろう。
昨日、この街の門から宿屋に向かって歩いた時も、先程宿から訓練場に移動した時も注目を浴びておったわ』
『ええ⁉』
『どちらの時もお主は周囲に気を配る余裕がなかったようだからな。
それに、この通りほど人も多くなかった故、騒ぎになるほどではなかったようだ』
『そ、そうだったのね……でもそっか。
何度も注目されてるなら今更気にしても仕方ないよね。
だったらいっそのこと――』
そして、ナナは唐突に動きを止めた。
まるで石になったかのように、ピクリとも動かない。
そして緊迫した空気の中、時間が流れる。
ちなみにポーズは二宮金次郎である。本は持っていないが。
……
…………
………………。
「「「「「いや一緒に止まるんかーい!(ヒヒーン!) ……っぷはははは」」」」」
総ツッコミであった。
気のせいか馬まで何か言っているようである。
そして異口同音に発せられたツッコミに、その場にいた者達が皆、笑い出した。
殺伐とした街の中に突如沸き起こった笑いの渦。
身分や立場に関係なく、誰もが腹を抱え、目に涙さえ浮かべながら笑っている。
(あ、あれ? 説明責任を放棄するために路傍の石になろうとしたら、今度は笑われちゃった……)
ナナは「あは、あはははは」と乾いた笑いを浮かべながら、本来なら本を持っていたはずの左手の肘関節と首だけを動かし、ロボットのように手を振る。
「あはははっ ナ、ナナ、なんだその動き、あははははっ、や、やめてくれ、腹が痛い」
気付くと横でニアンもお腹を抱えてナナを笑っていた。
(ニ、ニアン! お前もかぁ‼)
ナナは思わず心の中でツッコみを入れた。
「――意外に面白い子だったな、バケツ姫の嬢ちゃんは」
「ニアン様、どこでバケツ姫様に出会ったのかしら」
「いやぁ笑いをわかってるよなぁ、あの姫様――」
その後しばらく笑った後、皆は毒気を抜かれたかのように穏やかな表情になり、勝手なことを言いながらそれぞれ元の道に戻っていった。
そして彼らによってナナの噂はさらに拡散されていく。
散々笑われたナナと笑いつかれたニアンも歩みを再開し、ふらふらと冒険者ギルドの前に到着した。
そして冒頭の2人の会話に戻る。
「着いたぁ……うう、何なのよ、みんなして何なのよぉ」
ナナは疲れ切っていた。
「まあこの国にはバケツをかぶる文化はないから……あーほら、元気出してくれ。そのうちみんなも慣れるさ!
しかしあれは、久しぶりに腹の底から笑ったよ」
ニアンはナナを慰めた。
しかしその表情は実に楽しそうである。
「もう! ニアンまで笑ってるんだもん! 恥ずかしかったんだからねー!」
「あははは、悪い悪い、まさかナナがあんな行動に出るとは思わなくてさ、意表を突かれてしまったんだ。
なんであそこで止ま…あ、だめだ思い出すと…っあはははは」
「あーニアン、全然反省してないでしょー!」
ナナは腰に手を当て、頬を膨らませてぷいっと横を向く。
「っくくく、いや、すまない。
でもあれはあれで良かったんじゃないか?
偶然の事だったけど、俺には、街の皆がナナを受け入れてくれたように感じられたし、何と言うか、ちょっとほっとした」
「うぅ……。それは、うん、私も、笑われたあとはみんな優しい雰囲気になってくれた気がする。
そっか、そうだよね。ちょっと受け入れてもらえたなら嬉しいな。
それに、そのうちみんなだってバケツを被りだすかもしれないしね!」
「そ、そうだな、そういうこともあるかもしれない……のか?」
ニアンは首をかしげたが、笑いつかれて判断力が鈍っていたのでそのままスルーすることにした。
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