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バケツ姫と挑戦者②

(いや、違う、そうじゃない。

そんなことよりお兄ちゃんのところに帰る方法を探さないとだった。

ごめんねお兄ちゃん!

この世界、なんだかすっごい危険だから、ちょっと帰るの遅くなっちゃうかも……でも待ってて!

私、どれだけかかっても、必ず帰って見せるから!)


しばらくこの世界で暮らすことになるだろう。

まずは街に向かい、拠点を用意して、情報収集だ。

生活のために仕事も探す必要がある。

それを再認識すると、先が見えない不安や孤独に再び押し負けそうになる。

だが心配している兄の顔を思い出し、ナナは気を引き締めた。


ナナの思考は挑戦者が話し始めたことで切り替えられる。


「……ところで君は人族か? こんな所でどうした?」


魔族だけが住む魔族領の最奥地で、いるはずのない人族の少女に出会ったのだ。

彼の脳内は今、疑問であふれているのだろう。


なぜ誰もいない魔王城から少女が一人で出てくるのか。

なぜ魔族ではなく人族がここにいるのか。

その見慣れない服装は一体どこの国の物か。

そしてなぜ、バケツを被っているのか。


突っ込みどころが多すぎて、普通は脳の処理が追い付かない。


挑戦者の碧色の瞳は、ナナの顔と頭上のバケツを行き来している。


「それは……え、えっと、街の場所と、泊まれる場所を探しているんです……教えていただけませんか?」


ナナはバケツのことから彼の気をそらすため、今一番必要なことを聞いてみた。


「……そうか。街なら今から俺も帰るところだ。

人族の街だし、もちろん宿屋もある。

少し遠いが、それでよければ案内しよう」


「え?」


もっと怪しまれたり、断られたりすると思っていたナナだったが、挑戦者の答えは非常にご都合展開なものだった。

あまりのイージーモードに、かえって戸惑うナナ。


「なんだ、何か問題か?」


挑戦者が少し困ったような顔をして聞いてくる。


「い、いえ! ありがとうございます、助かります!」


ブンブン首を横に振りながらナナは答える。


「そうか? ならいいが。

……しかし、見たところ金を持っているようには見えないが、どうやって宿屋に泊まるつもりなんだ?」


なかなか観察眼が鋭い挑戦者だ。


そう、ナナは今手ぶらである。

もちろん日本のお金も持っていない。


この世界における通貨は、地域によって種類に違いはあるものの、そのすべてが金属製の硬貨である。

つまり、お金を持ち歩くにはある程度のサイズの袋が必要なのだ。

それに激しく動くとどうしても音が鳴る。


先ほど落とし穴から助けられた際のナナの様子から、挑戦者はナナが金を全く、あるいはほとんど持っていないと推測していた。


「あ…そっか。私、無一文だ…!

ってヤバいじゃん…お金が無いってバレたら足元見られちゃうじゃん!

どうしよ…」


『お、おいナナ! 声に出ておるぞぉ‼』


思わず呆然としたナナは心の中で呟いた…つもりだったが、バッチリ声に出してしまっていた。

普段ならご愛嬌だが、このタイミングはまずい。

お金がないのは事実なのだからどうしようもないが、これでは『私はお金が無くて困っています。このままだと野垂れ死にます。お金で釣れば何でもするお買い得物件です』と喧伝しているようなものである。

まだ幼さが残る12歳の少女とは言え、すでに身長は生前の母と同じ152cmに達している。

発育も良く、ナナほどの美貌であれば、相手次第では暗い劣情を掻き立てるには十分であった。


当然その危険性に気付いており、ハラハラ心配しつつ見守るアイマー。

彼の実力であればどんな相手からでもナナを守り通すことができるはずであるが、あわあわと慌てる様子からは余裕はうかがえない。

その心情はもはや、中学生の娘の初めてのデートにこっそりついて来てしまった、超過保護な保護者のそれである。


(ええ⁉ に、逃げなきゃ‼)


とにかくその場から逃げたくなったナナは、バケツを掴んで自分の頭に押し付けた。

ナナはアイマーの説明をちゃんと覚えていたのだ。

頭上のバケツ、【深淵なる節食】にはどんな大きさの物でも収納できる機能がついている。

だからナナは【無限収納】の奥にある銀河を目指して、脱出を図ろうとした。


だが、いくらバケツをガチャガチャさせてもそれは叶わない。

残念ながら【深淵なる節食】の【無限収納】には生物を収納できないのだ。

ナナの逃亡劇は始まる前から終了していた。


……ちなみに、混乱したナナは思い違いをしているが、バケツの【無限収納】は容量が銀河サイズというだけで、銀河は付属していない。

現在の中身は空っぽである。


ナナの一連の言動を見つめていた挑戦者が、疑問と呆れを含んだため息を吐く。


「…はぁ。仕方ないか。…君、家族は?」


(――え?)


挑戦者の質問でナナは思い止まった。

挑戦者の言動からは悪意は感じられなかった。

だからだろうか、ナナは素直に質問に答え始める。


「あの……兄がいます。

でもなんというか私、この国ではないすごく遠いところにいたはずなんですが、気づいたらここにいて帰り方がわからない……っ…んです。

何があったのかも思い……っ出せなくて……っ」


嗚咽が漏れ、涙が数滴零れる。

ナナは何とか答えようとしたが、帰り方がわからないと言った瞬間、自分自身でその状況を改めて自覚し、心細くなってしまったのだ。


(ちゃんと、ちゃんと説明しないといけないのに!)


この世界でナナは異物だ。

ナナはこの世界のことを何一つ知らず、ナナを知る者も誰一人として存在しない。

目の前にいる優しそうな挑戦者にも、ナナを手助けする理由など無いのだ。

ナナに関わっても彼にメリットが無いことが分かった瞬間に、立ち去ってしまうかもしれない。


心が孤独に染まっていく。

凍えそうな感覚に震えが止まらなくなる。

ナナは思わず両腕で自分を抱き締めた。


……ふと、ハンカチが差し出される。


「わかった、もういい。涙を拭いてくれ。

初対面の俺に言われても不安かもしれないが、君が帰る方法を見つけるまで面倒を見てやる。

いや、帰る方法を探すのだって手伝わせてくれ。

……ほら、俺はもう大人だから頼ってくれていい、任せてくれ。

君のことは俺が必ず守るから、安心してほしい」


「……え⁉」


――ほら、俺はもう大人だから頼ってくれていい。任せとけ! ナナのことはお兄ちゃんが必ず守るから安心しな――


ナナはハンカチを受け取り、涙で揺れる目を見開いて挑戦者を見上げながら、かけてもらった言葉を反芻する。


それは、兄と同じ言葉。


両親に加えて祖父を亡くし、絶望していた自分に兄がかけてくれた言葉。

真っ暗だった世界に、光をもたらしてくれた言葉。

その言葉があったから、兄の存在があったから、自分はここまで腐らずに生きてくることができた。


挑戦者の言動に、その眼差しに、兄と似た何かを感じた。

自分を心底心配してくれる、あのイケメン兄貴に通じる何かを。


何かが切れた感覚。


張りつめていたものが涙の奔流となって溢れ、借りたハンカチを濡らす。


アイマーと出会った時はパニックで実感がなかった。

だけど、魔王城を下るにつれて現実味が増してきた。

窓から見えた二つある月、遠くを優雅に飛行する竜のような生物、城内をうろつく魔獣たち。

それに、漂う空気もどこか地球のそれとは違っていた。

呼吸はできるが、何かが決定的に違う。

それでやっと本能的に理解した。

ここが本当に地球ではないと。


そこからは必死だった。

孤独で凍結しそうになる心を、空元気でごまかすだけで精一杯だった。

アイマーの助言と存在だけが頼りだった。


帰る方法どころか、生き残る手段すら、自力では思いつけなかった。


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