9.見送り
おなじ事柄でも人によってとらえかたがちがう……あのときのニーナは自分の夢で胸がいっぱいで、ディンの気持ちを思いやる余裕がなかった。子どもの自分はなんて残酷だったのだろう。
「ずっと話していたじゃない……いつか王都の五番街に店をだすって……」
ニーナが小さな声で言いわけするようにつぶやくと、ディンも低い声で返事をした。
「そうだな。ニーナの夢は知ってたけど……婚約したときは心のどこかで期待してた。きみの卒業パーティーに俺が魔導列車でタクラから駆けつけて、こうやってきみをエスコートして踊るのだと。十年経ってようやくかなった」
「ディン……」
ニーナは何といったらいいのかわからなくなった。魔術学園を飛びだし婚約は解消され、ディンはとっくに新しい相手を見つけていると思っていた。
だからなお一層振りかえらず、故郷のうわさは聞かないようにした。ディンの相手なんて知りたくもなかったから。
「そんな顔するな。王都でがんばって成功するのは大変だったはずだ。俺はきみを誇りに思っているし、あのとき背中を押せた自分のことも……よくやったと思っている」
ニーナだってディンと踊りたかった。けれど魔術学園を卒業したらタクラにもどって花嫁修業が待っている。ディンのことは大好きなのに、それはできなかった。
一瞬だけタクラにもどり父のいいつけどおりディンと結婚して、ニーナ・クロウズとして公爵家の夜会に参加している自分を想像した。でもそれはきっといまのニーナじゃない。
「ごめんなさい……」
無我夢中で駆けぬけた十年、五番街の店で故郷を想うニーナと同じぐらい、ディンも自分のことを考えてくれていたのだろうか。
「……嫌だったけどな」
「えっ?」
ニーナが顔をあげるとディンは苦笑した。
「お前は王都にいくことで頭がいっぱいで、俺のことなんか少しも考えてないだろうと思っていたから……王都に出発するときもいい笑顔だったし」
ちがう!私のほうが考えてた……そういいたかったけれど言葉はでてこなかった。
「……ホントいうと俺、いちど王都にお前をたずねてきたことがある」
「私を?」
タクラ駅に見送りにきてくれて以来、ニーナがディンに会ったのは十年ぶりなのに……。
「収穫した小麦を王都へ運ぶ船に乗ったんだ。すぐ引きかえす約束だったから、小麦を降ろしているあいだに六番街の船着き場から五番街へ走った。連れ戻せないのはわかっていたけど、会えば何かかわるかも……って。バカだよな」
「それ、いつの話?」
「十八で成人したばかりのとき。けれどミーナに見つかって……あいつにいわれたんだ、『ニーナはいまだいじな時だから顔をみせるな、このまま帰れ』って」
ディンが十八だとしたらニーナたちは十七……魔術学園を飛びだした二人は、開店資金をためるために必死に働いていた。
魔道具師の資格をとるために魔道具ギルドの夜間講座に通いながら、昼間の仕事はいくつも掛け持ちしていた。
正直いそがしすぎて当時のことはあまりよく覚えていない。けれどもしもディンが来ていれば、会えばすぐにわかったはすだ。
「知らない……そんな話知らないわ!」
つらくなると故郷が……ディンが恋しくて何度も泣いた。もしもあのときディンが迎えにきたら、泣きながらその胸に飛びこんだかもしれない。
いろいろな想いが噴きだしそうになったニーナの顔をみおろして、ディンは穏やかに首を横にふる。
「いいんだよ、今をみるかぎりミーナが正解だ。ニーナに必要なのは〝ミーナ〟であって〝俺〟じゃなかった……俺は絶対あいつにはかなわない。けど〝賭け〟は俺の勝ちだ」
そう、ミーナが正解……なのにニーナの心にもやっとした塊が生まれた。それに……。
「賭けって?」
「そのときミーナが持ちかけたんだ、内容はいえない。『賭けは俺の勝ちだが気にするな』ってあいつに伝えとけ」
ディンはニーナを見おろして優しく笑った。
「……行かせたくなかった、俺はきみに王都にいって欲しくなかったんだ。けれどいまのきみはだれよりも輝いている。きみの活躍がタクラまで聞こえてくるたびに俺がどんなに誇らしかったか……俺にとっては自慢の婚約者だった」
魔導シャンデリアの光をあびて輝くディンの蜂蜜色をした髪は、故郷にひろがる小麦畑を思いださせた。ずっとその中で笑いころげていられたらよかったのに。
「笑ってくれ、ニーナ・ベロア……どうかいまだけは俺の婚約者として腕の中にいてほしい」
ディンは昔と変わらない瞳でニーナを見つめた。それからの彼はずっと紳士としてふるまった。
穏やかな笑みをうかべ公爵夫妻に丁寧な挨拶を終えると、ニーナを工房まで送り届けて帰っていった。再会したときの嵐のようなキスなど忘れてしまったかのように。ニーナはずっと忘れられないでいるのに!
もうミーナやスターリャは眠ってしまったようで、ニーナは静かにドレスを脱いで自分のベッドにはいる。けれどなかなか寝つけない。
目をとじれば鮮やかによみがえる、茜色の空にたなびく雲と光をあびて波打つ麦畑……走りまわって笑いころげた懐かしい場所。
乾いた麦わらは太陽のにおいがして、彼の髪もそんな香りで……それに夜会服を見事なまでに着こなし、まっすぐにニーナを見つめた故郷の乾いた大地を思わせる茶色い瞳……。
(ちがう!ひさしぶりに参加した夜会のせいよ!)
ニーナはがばりと起きあがると、枕元に置いてある〝眠らせ時計〟の時間をセットし、ふたたびもそもそとベッドにもぐりこんだ。
翌朝は早く、朝一番に大聖堂に署名した婚約解消の書類を提出すると、ディンはその足でシャングリラ中央駅から魔導列車に乗るという。
「べつに見送りにこなくていいぞ」
「いくわ、王都にくるときは見送ってもらったんだもの。そのおかえしよ!」
ニーナはそういいはった。待ち合わせは六番街で……ニーナが時間通りに到着すると、ディンは目をみはって軽口をたたいた。
「すごいな、ニーナが時間どおりだ。あの〝寝ぼすけニーナ〟が成長したな」
「んもぅ!そうしないと魔導列車の時間に遅れるでしょ!」
書類を提出したあと六番街の大聖堂から転移門のポートへむかうあいだ、特に話はしなかった。なのに横を歩くディンの全身をニーナは痛いほど意識してしまう。
魔石タイルにコツリコツリと響く靴音、並ぶと細いニーナの体をすっぽりと隠してしまうような大きな体、王都の街並みのなかでもひときわ輝く風になびく小麦畑のような蜂蜜色の髪。
王都には何日も滞在していたのに、彼が巻き起こす風にはかすかに麦わらのにおいが混じる気がした。
「じゃ……」
「元気で……」
買ってあった切符を係員にみせ、改札をぬけたディンと柵越しにあいさつを交わす。
道中の無事を祈って軽く彼の体をハグすればそれで終わりだ……そう思ったのにディンの茶色い瞳をみた瞬間、麦わらのにおいがしたような気がした。
体にまわした腕に力がこもり、どちらからともなく顔が近づいた。柵ごしなのはわかっていたから、そのぶん上半身はしっかりと抱きあって相手の体温をたしかめる。
最後のキスは両方から。ディンの唇はためらうように優しくて、ニーナのほうがせがむように彼の体にすがりついた。
「……ニーナっ!」
折れるかと思うほど強い力でぎゅっと抱きしめられ、しぼりだすようなディンの声が聞こえた次の瞬間には、あっけなくニーナの体は解放された。
そのまま振り向きもせず駅の雑踏に消えていく後ろ姿に、呼びかけたくても声にはだせなかった。
ようやく彼の姿が見えなくなってから、ニーナはぽろぽろと涙をこぼして彼の名を呼んだ。情けないぐらいに涙があふれてとまらなかった。
「ディン……ディン……!」
どんなに悲しくてもこれは罰なのだと……十年前に婚約したまま彼を故郷に置き去りにし、そのまま振りかえろうともしなかった自分への罰なのだと、ニーナはそう思った。
正しくは『キスから始まる婚約解消』なのですが、タイトルの語感的に破棄のほうがいいかな……と。
残りあと2話です。