2.十年前の婚約者
時系列的には『魔術師の杖』8章の終わりごろです。
本編をちょっとだけ先取りしています。
懐かしい麦わらの香り……でも彼はこんなに背が高くなくて、私のキスは背伸びしなくても彼に届いたのに。
「ニーナさん⁉」
「ディン⁉」
ネリィやミーナの叫びにニーナは我にかえる。あわてて男の体を押しかえそうとしたが、ますます強く抱きしめられさらに口づけは深くなる。
「んっ!」
白昼堂々むさぼるようなキスがどのくらい続いたろう、ようやく男が身を離しニーナをその腕から解放したとき、ニーナは自分の唇が腫れているような気がした。
太陽を浴びて輝く小麦畑を思わせる金髪はそのままだが、扉をふさぐような大男にニーナは彼の面影を見つけることができなかった。唯一男の茶色い瞳だけがニーナのよく知る彼だった。
「いきなり何すんのよ!」
ニーナが腫れた唇に手をやり若草色の瞳でキッと男をにらみつけると、相手は余裕の表情で口の端を持ちあげた。
「つれないな、婚約者だってのに」
「「婚約者⁉」」
ネリィとスターリャが同時にさけび、ニーナはしっかりと見られていたことに気がついた。
スターリャは紅の瞳をうるうるさせて口元を両手で覆っているし、ネリィは手をひろげて目隠ししている指のすきまから、キラキラ輝く黄緑の瞳がバッチリ見えている。
ニーナはきまり悪さに真っ赤になって男を怒鳴りつけた。
「バカ!スケベ!いきなりなんてことすんのよ!」
「婚約者にキスして何が悪いんだよ。つーか、お前……塩対応すぎんだろ」
口調はかわらず親しげだが、やっぱり彼の面影はどこにもない。ニーナはキッパリと首を横にふった。
「だーれが婚約者よ!そんなのとっくの昔に時効!十年前の話じゃない!」
「五番街の店を訪ねたらここだって教えてもらったんだ。親父さんの手紙も預かってきた」
肩をすくめた男にニーナは眉をひそめた。
「……父から?」
「お前……親父さんたちからのエンツはじいているんだろ?返事はいいから元気でやっているか見てきて欲しいってさ」
「そう……ありがと」
手を差しだしたニーナに手紙を渡さず、男は奥にいたミーナに呼びかけた。
「ようミーナ、きてやったぜ」
「相変わらずねぇディン、ひさしぶり」
呼びかけられたミーナは苦笑すると前にでてくる。
「なかにはいってもらったら?店じゃなくて工房だからまだいいけど、戸口で大騒ぎされても困るし」
「大騒ぎしたのは俺じゃないけどな」
「いきなりキスするあんたが悪いんじゃない!」
ニーナが抗議するとディンは彼女にむかってウィンクした。
「はじめてじゃないし、べつに問題ないだろ」
「なっ……!」
ひっぱたこうかと思ったそのとき、ミーナがあきれた顔をして二人の間に割ってはいった。
「あ~はいはい、感動の再会はそのへんにして。私たちの幼馴染のディンよ、こっちは工房に住みこみの魔道具師見習いスターリャと、錬金術師のネリィ。ネリィは私たちの仕事を手伝ってくれてるの」
ディンはヒュウと口笛を吹いた。
「すごいな、王都にはこんなにかわいい子がゴロゴロいるのか?俺はディン・クロウズ、ニーナの婚約者だ」
「十年前の話だってば!」
「よ、よろしくお願いします……スターリャです」
「錬金術師のネリィです、はじめまして!」
スターリャは恥ずかしそうにほほを染めて、ネリィは黄緑の瞳を……それはもうキッラキラに、好奇心いっぱいに輝かせてあいさつした。
ネリィはかわいいし悪い子じゃないけれど、どんだけ田舎に住んでいたのか、ちょっとどころかおおいに世間の常識にうといところがある。
これは彼女に説明しないと済みそうにない……ニーナは頭が痛くなった。
ちょうど休憩していたところだったので、ディンはお茶をしていた工房の机周りにすわらされた。体の大きな彼がすわるとなんだか熊がそこにいるみたいだ。
「でも十年前って……ニーナさんはまだ子どもだったのでは?」
さっそくネリィから質問が飛んできた。
「ちがうのよ……〝婚約〟が条件だったの。私たちが王都にくるための」
「どういうことなんです?」
ネリィはわけがわからないといった顔で首をかしげた。ほらやっぱり。こういう説明が苦手なニーナにかわってミーナが説明してくれる。
「だからね、私たちをシャングリラ魔術学園にいれるにあたり両親は心配したわけよ、王都にいったら娘が帰ってこないんじゃないかって。ディンの家は領地が接しているお隣さんでね、彼と婚約させておけば卒業後は実家に帰ってくるだろう……入学前に私かニーナ、どちらかをディンと婚約させようって話になったの」
「えええ?でも学園の入学って十二歳からでしょう?そんな子どものときにニーナさん婚約したんですか?」
ネリィが目を丸くして、ニーナは気まずそうに耳の脇にたらした髪の毛先を指でいじった。
「あのときはそれがいちばん面倒がないと思ったのよ……」
ニーナたちはタクラ郊外の穀倉地帯を管理する領主の娘だ。彼女たちの父親は娘二人を王都にいかせたくなかったらしい。
「お前たち程度の魔力なら魔術学園にわざわざいかなくても、地元の魔道具師に弟子入りすればじゅうぶんだろう」といいだした。
「そんなの絶対イヤよ!王都にいける日を指折りかぞえて待ってたのよ!」
ニーナたちは毎日必死に訴えて、父親はそれならどちらかディンと婚約しろといいだした。ミーナが苦笑した。
「隣の地所だしちょうどいいんじゃないか……って親同士が盛りあがっちゃってね」
「俺はニーナでもミーナでもどっちでもよかったんだけどな」
そういうとディンはアマ芋パイを手でつかみ、パクパクとふた口ぐらいで食べてしまった。
「うまいなこれ」
「あっ、おかわりどうぞ!」
もてなす必要はないのに、ささっとネリィがディンの皿にパイをのせる。
それを恨めしそうにながめてから、ニーナはせめて女主人らしくみせようと背すじをのばした。
「ともかく『シャングリラ魔術学園を卒業したら、実家にもどってディンと結婚する』という話だったのよ。学園は卒業どころか中退してお店を始めちゃったし、両親はカンカンで私たちを勘当するって怒ってたもの。そのときに婚約話だって流れたはずよ」
ディンはおかわりのパイもパクパクとふた口で食べてしまうと、スターリャがついだ紅茶をゆっくりと飲みほし、おかわりは断ってからナプキンでていねいに口をぬぐった。
パイを手づかみで食べるくせに、こういう仕草だけは品がいい。クロウズ家が一家でやってきてみんなで食卓を囲んだときのことを思いだす。
庭では野生児みたいに走り回って暴れても何もいわれなかったが、ディンの母は食事の作法にはとても厳しかった。
ニーナやディンの実家は穀倉地帯にあるため、収穫期は貴族といえど領主もみんなに交じって作業をする。
ニーナたちの両親もそうだったがディンの肌もよく日に焼けており、ふとい腕はふだんから農作業をしてしっかりと体を動かしているのだろう。
(もう私が知っているディンじゃないんだな……)
隣の領地に住むひとつ上の幼馴染は、婚約したときまだ少年だった。王都に出発するニーナたちをディンがタクラの駅まで見送りにきたとき、彼はまだ体の線も細かったし背も低くてニーナと同じくらいだった。
ニーナが勇気を振りしぼってはじめて彼にキスしたとき、背伸びしなくても彼の唇にとどいたし、ディンはまったく動けなかった。
それなのにさっきはあんな……。思いださなくていいことを思いだした瞬間ディンと目が合い、ニーナは顔に血がのぼるのを感じた。
ディンはナプキンを置くと静かに口をひらいた。
「……流れてないんだ」
「は?」
「だから婚約話だよ、流れてないんだ」
ニーナはぎょっとした。
「ど、どういうこと?」
「『学園を卒業したら結婚』てほうが口約束なんだよ。そもそも婚約はちゃんとした〝契約〟だ。学園を卒業しようがしまいが関係ないだろ?」
「だって……ウチの両親がカンカンに怒って『お前たちみたいな娘は勘当だ、家は従弟に継がせるし婚約も破棄だ!』って大騒ぎして……」
ディンの乾いた大地を思わせる茶色い瞳が、まっすぐにニーナをとらえた。
「婚約は俺とニーナがしたんだ。ニーナの両親がなんといおうと俺とお前の問題だ」