腐れ縁が終わる時
「静かな場所へ行きたい」と、真っ先に思いついた場所。
そこは俺のお気に入りの場所だった。
限られた人間しか出入りの許されていない特別な――
迷う事なくその場所へ行く事を決めた俺は、3年のクラスがある南校舎を4階から2階へと降り、渡り廊下を渡って東校舎へと入った。
理科室や音楽室と言った特別教室が並ぶ東校舎は、 南校舎や北校舎と比べて普段から人の気配が少ない。
南校舎に溢れる生徒達の賑やかな声を遠くに聞きながら、俺は一人逃げるように静かな東校舎を4階まで上って行った。
4階までくると、特別教室と呼ばれる教室もなくなり、今はもう物置としてしか使われていない開き教室が並んだ。
更なる静寂が広がるその空間を、廊下の一番奥へと進んだ所で俺は足を止めた。
教室の前には『生徒会室』と段ボールに手書きでかかれた看板が掲げられている。
そう、ここは生徒会室。
中学最後の一年間、よく入り浸っていた俺にとって一番の思い出の場所だ。
何かあると、俺の足は不思議といつもここに向いていた。
友達と大喧嘩した時。
テストの点数が悪かった時。
進路に悩んだ時もここに来たっけ。
懐かしい思い出に耽りながら、俺はゆっくりとドアを開け、馴染みの部屋へ足を踏み入れた。
そして部屋の一番窓際に、窓を背にして設置された机へと腰掛けた。
ここから眺める田舎の田園景色が好きだった。
晴れた日には遠くに海も見えて、空との境目もわからない程の真っ青な海を、漁船が煙を吐きながら泳ぐ姿を見るのが好きだった。
雄大な広い海を、一人独占して見ることが出切るこの場所は、学校でもごく限られた人間、生徒会役員になった者だけしか見ることの出来ない隠れた名所。
あともう少ししたら、お気に入りのこの場所からお気に入りのこの景色を見る事も出来なくなるのか。
そんな事を思ったら、急に淋しさが込み上げて来て、俺は机の引き出しを開いて一枚の写真を取り出した。
俺と祐樹と真奈。3人が生徒会役員になった記念に、この場所で撮った写真。思い出の沢山詰まった写真だ。
その写真を眺めながら、俺はぼんやりと二人の事を考え始めた。
――真奈はいつから、俺の事が好きだったのだろう?
――祐樹は本当に、真奈の事が好きなのだろうか?
3年間ずっと近くにいたはずなのに、俺は二人の事を何も分かっていなかったのかと思ったら、余計寂しい気持ちに襲われた。
その時、不意に“ガラガラ”と教室のドアが開く音がする。
はっとして振り替えると、何故かそこには真奈が立っていて――
「浩太……やっぱりここにいた」
「な、真奈?! どうしてここに?」
突然の真奈の登場に、俺は驚きのあまり立ち上がる。
「浩太を探してたんだよ。何かあると浩太は決まって生徒会室に来てたでしょ。だからまたここにかなって思って。進路に悩んでた時も、よくここに来てたもんね」
「……何だよ。俺に文句でも言いに来たのか。それともからかいに来たのか」
「どっちも違うよ。正解は謝りに来た、でした。ゴメンね。私のせいで恥ずかしい思いさせちゃって」
「…………べつに」
「それに受験間近にあんな事言っちゃって、私は私の気持ちを吐き出さてすっきりしたけど、浩太の迷惑を何も考えて無かった。自分勝手だったなって後でいっぱい反省したの。ゴメンね……浩太。受験……どうだった。ちゃんと第一志望に、合格できた?」
「あったりまえだろ。俺を誰だと思っていやがる。この学校で1年間生徒会長をつとめた男だぞ。テストだって3年間、学年のトップ5には入ってた佐々木浩太様だぞ。まぁ祐樹には一度もテストで勝てなかったが……」
「沢田君頭良いもんね」
「そうなんだよ。あいつん家、親父さんが医者だからな。元々頭のできが違うんだ。いくら頑張ったって漁師の息子が勝てるわけ……って、今はそう言う話じゃなくて! この俺が、お前ごときに動揺させられて、受験に失敗するわけないだろうって話だよ! 話すり替えんな!」
「浩太が勝手にすり替えたんじゃん。でも、相変わらず浩太はナルシストだ。ちょっと安心した」
そう言って真奈はクスッと笑った。
「浩太のナルシストな所、私嫌いだったなぁ」
「はぁ? お前、告白してきた奴が何言って……」
「でも、いつも自信満々で堂々としてる所は好きだった」
「っ!」
「良かった。いつもの浩太に戻って。それに受験も無事合格して、本当に良かった」
安堵の表情を浮かべる真奈の瞳には、うっすら涙が浮かんで見える。
本気で心配したくれていたのか、まるで自分の事のように俺の合格を喜んでくれていた。
「……どうしてそんなに喜んでるんだ? 俺の受験なんてお前には関係ないだろ」
「あるよ。だって、あんなに悩んで悩んで、浩太がやっと決めた高校だって知ってるもん。受かって欲しいに決まってるじゃん」
そう言えば、進路がなかなか決められなくて悩んでたいた時、真奈に少しだけ愚痴った事があったっけ。
「んな大袈裟な。確かに悩んで第一志望に選んだ学校ではあったけど、俺の場合はお前みたいにどうしても行きたかった学校ってわけじゃない」
「だとしても、浩太が一度行くって決めた学校に私のせいで行けなくなっちゃうのは嫌だよ。だって浩太は負けず嫌いだから、そんな事になったらいつまでも引きずるでしょ」
「別に……そんな事は……」
「あるよ。誰よりも私が浩太の事知ってるんだから」
さらっと恥ずかしい事を言ってのける真奈に、俺は視線を反らさずにはいられなかった。
俺の顔が、赤くなっている事に気付かれたくなくて。
俺は慌てて顔と一緒に話題も反らした。
「お前こそ、どうだったんだよ。第一志望に選んでた学校は、ずっと行きたがってた高校だったんだろ。ちゃんと合格出来たのか?」
「うん、無事に合格できたよ」
「……そっか。良かったな」
真奈から返ってきた返答に、俺もほっと胸を撫で下ろした。
確かに、自分のせいで落ちたなんて聞かされたら、気持ちの良いものじゃない。
真奈が心配してくれていた理由が少し分かった気がした。
「うん、ありがとう。でもこれで、9年間の浩太との腐れ縁も終わっちゃうね」
「……寂しいか?」
「寂しいよ。だから後悔しないようにって告白したんだもん。でもそのせいで浩太に迷惑かけちゃった。ごめん浩太……本当にごめんなさい」
「…………」
せっかく話題を反らしても、結局はまた告白の話へと戻ってしまう。
謝られた所で、俺はどう言葉を返せば良いのか分からなくて、口を閉じるしかなかった。
「でも安心して。もう迷惑かけないから」
「……え?」
「皆には私から説明する。私の一方的な片思いだから、浩太にこれ以上迷惑かけないでって」
「…………」
「安心して。浩太との腐れ縁も今日で本当に終わりにするから」
「ちょっと待て。今日でって、どう言う意味だよ? 卒業式まではまだもう少し日にちがある。俺達の腐れ縁が終るとしたら卒業してからだろ? それを今日で急に終わりにするって、一体どうするつもりだ?」
真奈の言わんとしている言葉に胸騒ぎを覚えて、俺は無意識に一歩踏み出しながら何処か焦ったように真奈に問いかけた。
「もう浩太に話しかける事はしない。私と浩太はもう単なるクラスメート。卒業なんて待たなくても、私と浩太の腐れ縁も綺麗さっぱり断ち切るって事」
「おい……真奈?」
ニッコリと微笑んで見せる真奈の姿にドキっとした。
またあの顔だ。
笑っているのに、今にも泣き出してしまいそうな……そんな顔。
「バイバイ。浩太」
小さく一方的に別れを告げて、真奈は生徒会室から走り出して行ってしまった。
「おいっ!」
俺も慌てて真奈の後を追いかけようと教室を出た。
だが真奈の後ろ姿はもう既に遠くにあって、俺はそれ以上彼女を追うことを止めた。
追った所で何て言葉をかけるつもりなのか、自分でも分からなかったから
――『あと一ヶ月我慢すれば…あいつとの縁も切れる』
だってこれは、俺自身も望んでいた事。
望んでいたはずの結末。
なのにどうして……どうして俺は今、こんなにもやるせない気持ちになっているのだろうか?
自分でも自分の気持ちが分からなくて、真奈の姿が見えなくなった廊下を見つめながら、俺は強く拳を握りしめていた。