【二】
一方、他の藩士たちは釣り緒を切られて落ちて来た蚊帳の中で身動きがとれず、真っ暗闇の中、次々に市右衛門に斬りつけられた。
その中で、徒士目付の宇田川万造は、左横腹を一尺(30センチ)ほどの長さで深く切られた他、左肩に長さ八寸(24センチ)、深さ二寸(6センチ)の傷を負わされその場で死亡。
「給人」の格式を持つ藩士、長谷川又十郎は腰に六寸(18センチ)程の切り傷を受け重傷。
また、同じ給人の大瀬源五右衛門、多数の刀疵を受けるがいずれも浅手だったため命は助かった。
この騒動を聞き付けて、下座見足軽・本間源次郎が「何事か?」と真っ暗な部屋に提灯を差し出したところを、市右衛門の刀で提灯を持っていた右手の指四本を提灯ごと落とされた。
また、右の耳より襟元へかけて六寸(18センチ)、深さ一寸(3センチ)ほど斬られた他、左の腕に六寸(18センチ)、そして逃げる時に後ろから斬られた傷であろうか、背から腰にかけて六寸(18センチ)ほどの傷を受けた。
また、中間の嘉助という者が右の脇下を一尺余(30センチ超)、深さ六寸(18センチ)、腰に八寸(24センチ)ほどの突き傷を受けている。
彼については記録上「手負い」となっているが、この傷の深さが間違いないのであれば、その後死亡したのではないだろうか。
彼らが大声を上げたため、他の藩士も集まり大騒動となったが、刀を持ってうろついている市右衛門を恐れて、誰も彼を捕らえに行こうと言い出すものはいなかった。
彼らはただ御門の前後を固めて、市右衛門の逃亡を防いでいるだけだった。
その間の市右衛門の行動は記録がないが、もう一人の標的と思われる番頭・大沼角右衛門の姿を探して御番所内を歩き回っていたのかもしれない。
その番頭・大沼角右衛門が呉服橋の屋敷へ人を走らせ、当日は非番であった小林猪野五郎を呼びに行った。
小林猪野五郎は、藩中きっての武術の達人だったのだろう。
猪野五郎が現場に到着したときは、もう夜が明け始めていた。
市右衛門は、犯行現場となった部屋から枡形と呼ばれる広場へと出ていた。
彼の周りには駆けつけた組の者達が遠巻きに取り巻いている。
小林猪野五郎が、罪人などを捕らえる時に使う、柄の先に沢山の棘が付いた「袖絡み」という捕物道具を持ち市右衛門に近づくと、それを認めた市右衛門は天水桶を盾として刀を青眼に構え猪野五郎と対峙する・・・。
猪野五郎がジリジリと間合いを詰めてゆき一気に踏み込む。
袖絡みの棘の付いた先端が胸を狙い澄まして突き込まれると、市右衛門がそれを切り払おうと初太刀を繰り出す。
猪野五郎はその初太刀をすんでの所で躱したが、この時に右の手を少し斬られた。
市右衛門の間合いに飛び込んで刀を封じた猪野五郎が市右衛門を組み止めた瞬間、足軽小頭の何某が、組み合っている二人の足を六尺棒で薙ぎ払い倒す。
市右衛門と猪野五郎が一つになってもんどり打つところを、同じ組の桧家作兵衛、大津小三郎、田中為吉、若山弥太郎らが一斉にうち重なって捕らえ縄をかけた。
この際、市右衛門と一緒に六尺棒で足を払われた猪野五郎は足を痛めたという。
捕らえた市右衛門は西の丸の一間に押し込められ、番人が付いて見張りをした。
この時にはすでに夜はすっかり明けて日が昇っていた。
事件の為に御門下の通りの通行は禁止され、枡形の地面には手負いとなり逃げだした者達が流した血が幾筋も線を引いていたという。
現場には医師の菊崎玄敬と安藤文忠が呼び出され、負傷した者の傷を縫い、薬などを与えて治療した。
三人が即死したこの事件は、内密に済ませる事も出来ず、即、御目付に届けられた。
この後、検使がやってきて重傷の者を除いた関係者に事情聴取を始め、それは十四日夜五つ(午後8時)頃まで続いたという。
事件の翌十四日は相番と交代の定日だったが、この大事件発生のため勤務交代が出来ず、その後数日間は秋元但馬守の組がそのまま勤めた。
勤番人数は定められているので、欠員については同僚が臨時に入って定めのとおり人数を揃えたということだ。
捕らえられた市右衛門は、御徒士目付、黒川伴左衛門、笠原新左衛門によって尋問を受けたが、意味の分からないことを話すばかりで調書は作れなかったという。
御徒士目付達は、彼を乱心と判断した。
その後、乱心した間瀬市右衛門は町奉行へ引き渡されて、伝馬町牢屋敷の内、武士などが収監される揚り屋へと送られた。
家来がこのような事件を出来させた秋元但馬守は、自ら自宅謹慎である「差し控え」の伺いを出したが、まずはその儀には及ばすということで、元の職務を続けられたという。
公儀御門番所でこのような騒動が起きたのは前代未聞である。
実は、以前何某が御門番を勤めた際、藩士に乱心者が出て、朋輩三、四人を傷つけた事件があったのだが、いずれも浅手だったのでこの時は内密に済ますことが出来たという。
今回の事件は何分死者も多数出ているので隠し通すことも出来ずに公になったのであるが、その後乱心した間瀬市右衛門の処遇をはじめ、重傷を負った者がどうなったのかは分からない。
噂では深手を負った者は存命おぼつかないということである。
~ 終 ~