【一】
文政十三(1830)年、庚寅の年、八月十三日、子の刻(午前0時)。
江戸城本丸、大手御門番の当番として詰めていた榊原氏は、西の丸御門の方で何か騒がしい物音がするのを聞いた。
・・・まだ寝ないで騒いでいる者がおるのか・・・一体何処の者共だ・・・・
榊原は苦い顔をしたが、耳をそばだてて聞いてみると、それは人の声ではなく多数の鳥が鳴いて飛び立つ音だった。
その様子がいつもとは違うので榊原は不審に思った。
・・・こんな真夜中に、どうして鳥たちが鳴き騒いでいるのだろう・・・。
彼はその時は、それほど気にも留めずにそのまま床に就いた。
・・・・しかし、その二時間後に、西の丸御門で山形藩秋元但馬守家来、物頭・間瀬市右衛門が乱心、同僚三人を殺害し、その他多数を負傷させた大事件が出来したのであった。
後日、事件を知った榊原が述懐する。
「私が子の刻に聞いた鳥の騒ぐ音、あれは今思えば、そのすぐ後に殺害される運命の人達の魂が先だって天に昇ったのを、鳥達が見て驚いたのではないかと思います・・・・人が死ぬとき、その魂が生前に身体から抜け出て、天に昇る事があると聞いたことがあります、あれがまさにそうだったのでしょう・・・」
文政十三年庚寅秋 八月十三日丑中刻(午前2時過ぎ)、西の丸大手御門番、山形藩秋元但馬守家来、物頭・間瀬市右衛門(35歳)が乱心、同僚達に次々と斬りかかった。
【即死】物頭 斎田源七郎(31歳)
【即死】鍵番 戸部彦左衛門(41歳)
【即死】徒士目付 宇田川万造(58歳)
【手負】給人 長谷川又十郎(21歳)
【手負】給人 大瀬源五右衛門(29歳) 他二人
※給人は、藩士の格式・家柄の一種
【手負】下座見足軽 本間源次郎(31歳)
【手負】中間 嘉助(38歳)
番頭の大沼角右衛門は無傷であった。
その原因は、同役の斎田源七郎、ならびに番頭・大沼角右衛門に遺恨があってのことだというがその詳細は伝わっていない。
ただ後述のとおり、同僚の斎田源七郎殺害状況に非常に強い殺意が感じられる。
八月十三日丑中刻(午前2時)、間瀬市右衛門は秘かに起き出し、木綿の藍小紋の単衣の上に太織黒小袖を着て、襷を掛けて袴を穿き、股立を大きくとって、手には馬上提灯を持っていたという。
腰には二尺五寸(約76センチ)の無銘の刀に、一尺七寸(約50センチ)の脇差を差していた。
刀は、鉄製の丸鍔に、蝋鞘、目貫は赤銅の尾長鳥の意匠、柄は白鮫に黒の柄巻であった。
なお、事件後の検分では刃こぼれがあったという記録が九人殺傷の壮絶さを物語っている。
二尺五寸(76センチ)という刀の長さは、当時としてはやや長めといってもいい。
間瀬市右衛門の身長は記録に残っていないが、通常であれば身長175センチを超える、当時としては大柄な者が使用する長さである。
もしくは、剣術にそれなりの覚えのある者が使用する長さだ。
刀は、長いほどその扱いが難しいからである。
間瀬市右衛門は、後述のとおり、鍵番の戸部彦左衛門の左胸を正確に突き通していることから、剣術は優れていたのかもしれない。
市右衛門は、最初に御番所勝手の各部屋に灯されている行燈の火を次々と消して回り、まず藩士達の寝ている蚊帳の釣り緒を切り落とした、相手の行動の自由を奪う為である。
その行動には計画性と殺害への強い意志が込められている感がある。
同僚達の幾人かが起き出し、事態を飲み込めないでいる内に、市右衛門は最初に斎田源七郎を狙って殺害している。
恐らく市右衛門の標的の一人はこの同役の斎田源七郎だったのであろう、馬上提灯で彼の顔を認めると、いきなり斬りかかる。
初太刀で、源七郎の頬から鼻の下へかけて五寸(15センチ)ほど、深さ二寸(6センチ)に渡って斬り付けた。
続けざまに頭部を三か所斬り付け、その際耳が切断されている。
頭部を狙った執拗な攻撃には非常に根深い怨恨が感じられる。
次に刀を上段に降りかぶって、右肩から腕にかけて、長さ二尺五寸(76センチ)に渡って斬りつけた。
最初の顔面への一撃と、この肩への斬撃による出血が致命傷と思われる。
他にも、左の腿に五寸(15センチ)、右股にも二寸(6センチ)向う脛や足の甲にも多数の刀傷が認められたが、これは倒れた後に斬りつけられた傷ではないだろうか。
斎田源七郎の身体に残った刀傷は全部で二十一箇所にのぼり、ほぼ即死状態だったと思われる。
鍵番の戸部彦左衛門はその混乱の中から逃げ出し、番頭・大沼角右衛門の部屋へと異変を知らせに行ったが、戸部は帯もせず刀も差していなかったため、角右衛門は戸部を大声で叱った。
「なんじゃ、その恰好は!帯くらい締めてこい!」
上司に一喝され、戸部が慌てて元の部屋へ自分の脇差を取りに戻り、灯りの消えた部屋へ入ろうとしたところを市右衛門に一刀のもとに殺害された。
一瞬で左の乳の上から背中まで突き通され即死であった。