非現実と現実
「○○だから、○○なんだよ。」とは一体何なのか?
「○○だからと言って、○○という訳ではない。」もあるのではないだろうか?
そんな様な事を書いたつもりです。
本文は、非現実的の物が現実の生活などにどのように活かせるのか。そして、それが悪影響を与えるであろう物は何かを個人の主観に基づいてだが、書いていこうと思う。
まず、最初に非現実的な物として作者が取り上げる内容は、ゲーム・マンガ・アニメがほとんどである。…というより、作者の経験談から自論を行うので、それぐらいしかないのである。そして、現実を何として考えるかだが、それは普通に現実生活や社会生活などだと思っていただければ、よろしいであろう。
さて、ここから作者の自論を述べさせていただくとしよう。
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まず、最初にだが…今は、社会的にも容認されてきている上記の3つの物だが、実は10年前辺りには容認されにくい物など、社会的にも世間体的にも本人に悪影響を与える物であると言われていた。…今でもゼロではないが、その時代は明らかに今よりは印象は良くなかったであろう。
それで、その時に悪影響の例として例えられていた物として挙げられていたのは、学力の低下・思考力の低下・運動神経の低下・視力の低下・コミュニケーション力などなど様々であった。作者の場合は、この5つが主流の用であったが、おそらくこれ以外にも沢山の物が挙げられた経験を持つ方も少なくはないであろう。
当時の私は、そう言った事に関して最初は何かを言っていたのだが、返されて来た言葉は「それは、お前の主観。」や「そういう事に集中しているから視野が狭くなっているんだ。」などの否定的な意見が多かったので、聞き入れはしていたが反論するのは面倒になったので、一時期を境に反論はしなくなった。もちろん、それ以外の返答もあったが、時代が時代だったのだろうか肯定な意見と否定の意見のバランスがアンバランスであったと感じている。今ではその双方の意見が昔よりはバランスが取れる形で共に存在している様な感じはしているが。
まあ、話を戻すとしよう。当時、私は上記で挙げていた3つが特に好きであった為、すごい興味を持って手に取っていたのであるが、どうも周囲の方々からするとそれが異常な時間あったとの事や、興味の持ち方が気持ち悪いぐらいに異常であったらしい。具体的に話すとなると…休日はそれらに時間を費やしていたり、平日でも学校終わりや塾などの用事が終わったりしてもそうだった。なお、その自覚は当然にある。…というよりも、それをする為に時間を考えていたのであるから。
しかし、周囲からするとそれでも社会的に今のように見られていない物であった為、容認されるという事はなかったのかもしれないが、当時の私は「自分のやりたい事をプライベートな時間にやって何が悪いのか?」(その当時にプライベートという言葉は知ってはいなかったけども…)という思いはあったのであろう、これらに関してはどれだけ距離を取らされようが抵抗をしていた事を鮮明に覚えている。…学力や人間関係に至っては、抵抗しなかったのですけどもね。
今となっては、自分がそれらに集中を注いでいた事や、それらに関しては抵抗していたという行為について考えると、次の時代や世界の動向がどうなるのかを見ていたのかもしれない。事実に、この世界にある物はこの世界にいる人達が作り、そしてそれが必要とされているから残り続けているのである。ゲームは私が生まれる数十年前からも世間には出ていて、現に今も最新の機種を各ゲーム会社が製作をしており、時代に合わせた形の機能をどんどん搭載されてきているし、マンガは当時からも多くの数が本屋に出展されていたり、アニメに至ってはテレビで堂々と放送されてきていたのだ。(中には、夕食時にも放送されているのも多数あった。)
それらを考えたら、何故こうも世に出ている物なのに、悪影響があると言われて距離を取らせられないといけないのだろうかと、当時の私も疑問にはあったのであろう。当時は分からなかったのだが、今であれば分かる事は、どのような便利だと言われている物でも浸透している物であっても、それがこの世に登場した時には良い印象で始まった物じゃない物もあるという事である。(当然、その逆も存在しているだろう。)この事を考える様になったのは中学の3年生の頃ではあったが、正確に考えられ始めたのは高校時代になってからだろうか。…まあ、この時期辺りから私の視野が本当の意味で広くなったという事も大きく影響しているのかもしれない。
先ほど、上記の3つの事をしている時に視野が云々と指摘されたという様な話をしたが、それはその指摘その物も同じ効果を生んでいる物であると私は思っていた。「これをやっているから○○なんだ。」や「これをやっていたら○○だから大丈夫だ。」という意見に関しては、それはその本人の経験を元に生み出されている自論に過ぎないのである。自論で相手を固めてしまうという言動も相手の視野や選択肢を縮めてしまう要因であったりもするであろう。(これも自論だがな。)
当然、全てがそうなるとは言わない。自論を発信しないと全てが同じ意見になりかねない可能性もあり、それはそれで怖い現象である。だが、問題はそれの発信する度合いを計算しないという事である。自身が発信した情報は、受け取り手次第ではその伝わり方など全然異なるからである。その為、言っている本人がどう思っていようが、どう言おうが正直な話はどう解釈し、それを元にどう動くかは聞いた本人次第な為、それに関してどうこう言うのはどうなのであろうか。そこで思い通りにならないからという理由で、力に物を言わせたりするとどうにもならないであろう。(ここでいう力とは、権力・威圧など…現在で言うハラスメントというやつである。)こうなってしまうと、どのように相手の事を思っていても伝わりにくい結果になるかもしれない。
また、「それは自論だろ。」みたいに自分が見て考えて認識出来なかったからと言って根拠も無い事を言っているように反応するのも、相手側の選択権を潰している事になりえる可能性もある。返す言葉や態度によっては、どれだけ答えの種類があるような内容であっても「YESかNO」で話が終わってしまう物に変えてしまったりもするのである。本当に自分の言った事に関して反応やらをして欲しいのであれば、そこら辺も考えて相手への言葉の発信や返信を行う必要もあるであろう。これは、自分もその相手にも同じに言える事ではあるであろう。
さて…と、私はよく話が脱線するので、元に戻す為にはゴリ押しをするしか手を知らない為、ここでその手法を取らせていただき、視野の話の方に戻させていただくが、視野が狭い広いに関しての明確な範囲を示している物は存在するのだろうか? 私はそれは無いのではないかと考えている。一般的や社会的や辞書に記されている定義はあるのかもしれないが、それがこの世に生きている全員に等しく当てはまるのであろうか? そうなるのであれば、人それぞれの生き方とは何なのだろうかと思えてくる。
例えば、「Aという事案について99%詳しい人」と「Aという事案について1%しか詳しくない人」の視野の違いとは何であろうか? 知識量の話になるのであろうか? だが、知識が無いからと言って、その人がそれに関して何も考えていないという事はありえるのだろうか。もしかしたら、その1%は前者には無い物かもしれないし、あくまでもコレは「Aという事案に関して」の事であり、別の事案などに関しては当然この数字も変化してくる物はあってもおかしくはないであろう。
つまり、何が言いたいかと言うと…1つの事案や行動だけで視野がどうなるかなんて分からないのである。周囲から見たら、その事に関してしか見なくなる…と思ってしまっても仕方無いのかもしれないが、それを行っている本人はそれによって向ける視野が広がっている可能性が存在する。それは、何をしているにしても同じ事が言えるであろう。まあ、作者の場合だと最初に挙げた3つにのめり込む事によって、初歩的な話だと「どうやって作られているのか?」という簡単な興味を持っていた訳なのだが、当時は思春期の頃であり、それよりも掘り下げるという事は難しかったが時間が経つに連れて、「どうやって作られているのか?→作る人がいるよな?→その為にはそういうチームがあるよな?→でも、部品や材料を作る人も必要だよな?」…などの事を色々考えられるようになっていた。おそらく、これは自分の興味の持っている物でそれの基盤を考えるという作業を行えたから、そこまで掘り下げていけていたのかもしれない。事実、それらを考えるのは苦痛でも何でも無かった。おそらく、これが無理矢理にでもやらされていた場合は、途中で投げていたであろう。
そのため、私からすれば趣味に没頭しているという事が無意識にではあったが、自分の視野を広げようとしていたのかもしれない。実際に中学を卒業し、晴れて地域外への高校へと進学したのだが、その趣味がきっかけで多くの方々と人間関係を築けていたのは事実でもある。それはその後の大学生活でも応用はされていた。しかし、趣味の範囲内の人間関係だけではなく、教育関係や育成関係・イベント関係などの人間関係も築けていたので、一概に視野が狭くはなっていなかったであろうと思える。…まあ、こういった例え話の時に趣味の事を起点をして話すのはある意味では引き出しとしての視野は狭いのかもしれない。…とはいえ、自分が趣味に没頭していたという事が自分を潰したという事ではなく、むしろ自分を形成したという事は現実にある為、当時の自分の行為には自身をもっと持っても良かったかもしれない。
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さてと、ここまでは作者の経験談を軽く話したみたいな物であっただろうが、すっかりと忘れかけていた本タイトルとの関連性のある…であろう内容も書いて行くとしよう。
タイトルは『非現実と現実』であったはずだが、何を書くのかというとそんなに大そうな事は書くつもりはない。非現実的と言われてきた物が現実の何に力を発揮してくれる可能性があるかや、ここは区別する必要があるという事を記載しようと思っている。前置き(前述)の内容と同じぐらい、長丁場になるかもしれないが、時間がある時や気が向いた時にお付き合いいただけると幸いである。
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さて、前述で述べて来た時に言われてきた事の例として幾つか挙げたが、それ以外の事も書きまとめると「碌な人間にならないぞ」…的な内容の事であったとまとめておくとしよう。具体的に何が他にあったんだよ、と思われる事この上ない書き方ではあるが、その反応で良いかと。それらもここから先の話には出て来ると思うのでね?
では、行きましょう!!(ここからは、各項目に関しては中黒『・』で区切っていきます。)
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・学力が低下する
これは上記の例として挙げられていた文言ですね。これについては、一言「何を根拠に?」という言葉が浮かぶ方もいるかとは思いますね。学力に関しては確かに数が物を言うかもしれませんが、環境も大きく影響すると作者は考えます。私は何度もそれを言われたので危険な賭けを義務教育中に行った記憶があります。まあ、簡単な話は一度だけ(その同一期間中…二年生の期末の時期みたいな意味です。)テスト期間中に趣味よりも学業を優先した時がありました。本来(?)の私のテスト勉強などの学力関係の勉強方法は、趣味の時間を越えない+趣味の時間は過程学習の倍という誓約的な事を自分なりに決めてやっておりました。(当然、否定されるのが嫌だったので、誰にも明かしてはおりません。)
まあ、結果が悪いのから普通の物までありました。それが理由で「○○なんかしているから、頭が悪くなるんだよ。」みたいな事を言われたので、私は思ったのです。「なら、アナタ方の言う様に趣味の時間を削って学習すれば、確実に点数は上がるのですね?」…と。今思えば、そんな事は確実にありえる話ではないのです。前述したように、環境も影響する物であると考えられるのでね。
案の定、結果はあまり変わらない…というよりも、それをやった時の通信簿には「1」が付いたのです。それまでは悪くても「2」でした…決して頭は良く無かったのでね~。ま、それはさておき、「1」というような記録にも残る最低な結果が出た訳です。正直当時の私も、「まー、当然だよな。」という反応だったので、特にそれを見ても危機感なんてありません。むしろ、やった通りにやったらこうなりましたという結果が公文書の様な物に記載されたので、その学習方法は私にとっては根本的に間違いであるという認識が出来たのです。…まあ、効率が悪いやり方だの何だのと言われて終わりましたけどもね。
これがあったので、中学卒業までは我流のスタイルに戻して何を言われようがそれを曲げずに学業に立ち向かったのです。一時期、塾にも通う事(金は無いのに半分は強制…だが、半分は学校と違う形で同級生に関わってもらえるので、半分は好きでした。)になりました。そこでも課題の解き方に関しても、我流でやっていました。
そして、高校時代に入った時同じような事がありました。また、煩かったので学業に集中しましたがその時も過去最低の点数を記録したのを覚えております。それはただでさえ苦手な英語でした。その時は流石にいつも異常に担当の先生から心配されたのは今でも覚えています。そして、もう一度、趣味の時間を越えないという我流スタイルで学業に向き合ったのです。そうするとすぐにとはなりませんでしたが、いい点(そんな高くはありませんが…)が安定して来たのです。…まあ、そうなった時には授業は最後の方になっていたのですけども。…慣れてきたりしたら、それが終わるのはよくある事ですからね。
まあ、それ以来…苦手な授業ではありましたが次年度の選択で英語のコースを取る事を選択し、そこでの資格も取る事は出来ました。(一番下の物で止まりましたけども)それが取得出来た事は嬉しかったです。自分の学習の仕方で資格という証の様な物を苦手な強化でも取得出来たので。
これらがあって、高校を卒業する頃には確信したのです。「○○をやっているから」といって、それが学力低下に影響するという事は確定ではないという事に。確かに、記述問題の時に趣味脳みたいな珍解答を書いたり、授業中にそれを解答として発言してしまった事は多くもありましたが、その都度ネタ的な事で周囲が解釈してくれた事は今でも感謝はしています(笑)
さて、話を戻しますが…確かに何かにのめり込んでいれば不意に学業にもそれが出るという事はありますが、だからと言ってそれらが学力低下全ての原因ではありません。中には学習の仕方などの環境もそれには低下していると思います。そして、それは学力だけに影響する物ではありません。仕事上でも同じ事が言えるでしょう。この場合は低下というよりは、ストレスの方に影響するって話になるでしょうけども。
作者の場合は、指摘された学習の仕方や行動の仕方が自分のスタイルに合っておらず、無意識または意識的にストレスを感じてしまっていた事により、それが普段よりも酷い結果に繋がってしまっていたのかもしれません。まあ、成績も効率も普段から高かったり効率良かったりしないので、本当に悪い意味でも相乗効果になってしまったのでしょうね。…ですが、そのストレスの要因を抑制する事によって、たとえ周囲には劣っていても、それがさらに酷い物にはせずに済む可能性はあると考えられます。私も仕事はしていましたが、無駄に多くのストレスを感じる・背負う事により思考も普段よりも働かずなどもあり、仕事に大きな影響を生んでいました。そのため、これが学力以外に仕事にも影響すると感じたのです。
さて、学力低下についてはここら辺という事にしておきましょう。
・心身機能の低下について
まあ、思考力の事に関しては前述でも出ましたが、こっちでも話させて下さいね?
「○○しているから○○が悪くなる。」…これは、学力という言葉も入りますが、それは前で話しているので、その言葉はこの項目内では入れないとして、この部分で当てはまる言葉として入るのは、視力の低下や運動機能の低下とかでしょうかね。(あ、思考力も語るよ。)
まず、視力の低下についてだが、これは何をしていようがやり方次第では短い時間でも影響するのではないだろうか。問題は何をしているからというよりは、その環境ではないだろうか。実際に、デジタル機器をあまり使用しないと話されている方でも、目が悪いんです…という話をされる事もあったりします。確かに、真っ暗な空間でパソコンやスマホなどの画面を見ていると視力が悪くなるかもしれませんが、部屋を明るくするなど、適切な距離を取るなどの対策を取っていればその度合いは変わってくると思います。まあ、当時の私は視力の指摘に関しては言われても仕方無いとは思っていました。実際に、ほぼゼロ距離で趣味には没頭しておりましたので。
しかし、「私の視力が悪いのとその方々の見られ方に何の影響があるの?」とは感じておりました。心配されている方もおられる反面、迷惑だというような言動をもされている方はおられましたが、迷惑だというのは正直意味が分かりませんでした。矯正や診断などに費用がかかるからだったのでしょうか、しかしそれでも意味は分からないです。まあ、後々の可能性としては周囲からの見られ方、いわゆる世間体を気にされていたのかもしれません。これについてはまた、後の方でまとめて語るので、ここでは放置で。
視力の低下に関して言えるかもと思えるのは、それをやっているからという理屈はおかしいという事ですかね。前にも書いている通り、その都度の環境や対策によっては度合いは変わってくるでしょうし、もし言うのであれば「どうして、その一言だけなのだ?」と私は思います。そう言うのであれば、(望むべきは)本人の意見を聞いた上で場所を移動してみたらどうなどの提案をしないのだろうかと疑問を感じます。
今の様に青年期を越えたりとなれば、言われなくても暗いなど近いなどの察しはついて自分で対策する時間がある時か、その時に対策は出来るでしょうが物心ついた頃からそれを前提で要求するという事が考えられているのであれば、それは高望みにもなってしまうのではないだろうか? これも、一種の育成なのかもしれないが、前述と同じでそれを向こうが理解出来ないと意味が無いのです。その為、察せというような文言で言っても察しようの無い物は察せ無いです。事実、大人であってもそれはそう。誰でもそれは同じなのですから。ですが、自分が出来るからと言って他の人にもやるのはおかしな話です。何故なら、自分と相手は同じではありませんので自分が出来ているからというような考えで相手に接するのはトラブルの元かもしれませんね。
さて、次は身体機能の低下についてですが、上記と同じ「○○をしているから」と言ってそうなる訳ではありません。大まかな話、年齢を重ねると少しだけでも低下する部分は誰にでもあるじゃないですか。…作者の場合は腰が一番最初に衰えていますけどもね。
それを言うと言われるのが、「外に出て運動しないと足腰弱るでしょ?」という話ですが…今の時代でも当時の時代でも自宅で身体機能を鍛えられる機械はあります。揃えるには資金が必要となったりするので、どこにもという訳ではありませんが世間にはそういう物が存在していたのは確かです。それを使えば、話は別ではないでしょうか? 確かに、作者の場合は腰が弱くはなっていますが、走力は趣味に没頭する時よりも前から無く、ほぼ運動会でもビリでしたし慎重も低かったり体育自体が得意ではありませんでしたよ?
そのため、趣味などだけがそれの低下には繋がってはいないと思いますし、運動と関係が無い趣味をしていたとしても、運動が全く出来ない又は出来なくなる訳ではありません。(まあ、差は出る可能性はあるかもしれないですが…。)ともあれ、そう作者が言うのには理由があります。趣味では全く運動に関して触れていなかった作者ですが、部活動でバスケットボールに所属したり、陸上に所属したり、知り合いなどの球技の遊び相手をしたりもしていました。球技に関しては、どこぞのアニメの主人公のように影のような存在で、ここで利用されるかというタイミングで利用されたり、何かしたりみたいな事が多かったので全面的にやれていたとは感じていませんが、陸上に関しては試合には出なかったは物の、部活動の練習は一緒にさせてもらっていましたし、その中で実際に町内を走るみたな事も何回か行っていました。無事に帰って来れましたよ。…まあ、若かったので可能だったのかもしれませんが、今でも重い荷物などを短時間で何個も運ぶという事も可能です。
なので、趣味が運動と全く関係していないからと言って身体機能が低下するという認識は正しいとは言えないと思うのです。問題は、これも環境ややり方次第なのです。例えば、重い荷物の入ったダンボール、持ち方次第ではその重さを緩和出来ますよね? これは、実際に試されているのをテレビで見た事もありましたが、運ぶ荷物の上(だっけ、下だっけ)に空のダンボールを置いて一緒に運ぶという手法があります。あれは、姿勢を正している事によって無駄な力を緩和しているのだと思います。レジ袋も持ち方次第では…ってのがあった気がします。
まあ、筆者の場合だと姿勢の話ですると、武術がそれと同じ事だと考えています。ある時、学問との関係性で武術の事を聞く機会がありましたが、その時に、全身の力を抜いて身体の軸を保つという事を聞きました。これは学問でも同じだという話を聞いた時に、「余分な力は抜く…変にストレスを感じずに学習するって事?」というような解釈を作者はしました。学問については前項の話とリンクしていると思いませんか? なので、そこについては特に語るまい。
この話で身体と関わると感じたのは身体の軸を保つという事です。これ…余分な力を抜くという解釈とさっきの例のにあったダンボールの持ち方の二つを合わせた感じだと思うのです。余談とはなりますが、実際にその時、教えられた通りに余分な力を抜いて軸を保つという行動をすると、相手の力を受け止めるのに対してそこまで身体に力を入れる必要がなかったのです。…まあ、難しくて何度も出来はしませんでしたけども(笑)
ですから、コツなどを掴むとそれに無縁であったとしても、その技能や技術を得るという事は誰にでも可能であったりします。問題は、それが可能になるまで支えるべき人がしっかりと支えるという事、そして、無駄な先入観にとらわれないという事でしょうかね。まあ、難しい事なのですがね。
次に、コミュニケーション力の低下に関してですが、このタイトルだとここが一番の内容になるかもしれませんね。実は作者が趣味に没頭している際に言われて一番不服だったのはコレなのです。今まで「同様に何を根拠に」という意見はもはや前提になりますが、「非現実的な物=現実には生かされない」と一番感じる物でした。結論から言うと、そんな事はほとんどの事に関しては無いであろうと十数年経った今でも考えは変わりません。特に今となっては最初に挙げていた3つが社会で容認されている時代なので、昔よりも多少の自身は持って言えます。
まず、非現実でのコミュニケーション程、そこで得られる物はあるのです。自分が知らなかった言葉は学問や教えだけで成立っているでしょうか。中には趣味から取得している言語も多く存在すると作者は思います。また、それは自分にストレスが感じないシーンで物事を覚えられる人からしたら、趣味による言語の取得は大きなアドバンテージにもなるはずです。当然、その逆が得意な方もおられます。
また、非現実的な物に関しては社会情勢を風刺している作品も存在しています。そこで、自分が見られていない世界の情勢を知るという事も歴史を知るという事も可能な訳なのです。それが他の人との話のきっかけにもなったりもします。他にも色々とあるとは思いますが、非現実的な趣味に没頭しているからと言って、コミュニケーション力が低迷するという事はあり得るか否かと言われると、「確証はないでしょう。」と作者は返しますね。
まあ、非現実的な物からどんな能力が取得できるかという話については、別の何かで記載するでしょう。なので、ここでは詳しくは語らないですが、「好きな事に興味を持つ」という事もコミュニケーションに繋がる1つの要素でもあると感じていますので、そこを止められたら手法の1つが無くなると思うと辛い話であり、それを元にコミュニケーション力の低下に繋がったり、上記の身体機能不全の原因になったりと二次災害を当人に負わせてしまう可能性もあり得ます。それで一番恐ろしいのは、当人も周りにもその認識が無いまま蓄積されてそれが発覚した時には、エライ段階まで進行している事だと思います。
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さてと、自分なりに書きたいように書きたい事を書いていて思いました。ガバッガバですね(笑)でも、それで良いかとも思っています。自論は根拠があっても自論なのです。逆に全てを自分で解釈した上で述べても自論なのです。そのため、そこには本来差をつけるべきではないのかもしれません。
自論と言えば、「お前個人の意見。」という解釈を持たれるでしょうが、それで良いのです。だって自論なんですから。しかし、その人が意見を発するという事もある意味、それも自論なのです。当然、この文章になっているか否かも怪しいこの文章も作者の自論であります。ですが、自論を持つ事は悪い事ではありません。何故なら、それがアナタ自身の意見なのですから。
認められない環境があるのは事実でしょう。しかし、それは認められる環境があるという事を裏付けているような物です。それは時代も世代も同じ事です。否定されているなら、肯定される所もある…そのようにまずは考えて行くと、少しは何か楽になれるかもしれませんね。
書き終えて…
「ん、何だこれは?」となったのは内緒(笑)
まあ、こういう様な書き方をするのが製作者ですので、ご了承を。
方針通り、まずは自己満足の作品でございます。
また、何かこういうのを書くかもしれませんが…
その時は「あー、また何か書いてるや…覗くかー(棒読み)」
みたいになったら、クリックでもしてやって下さいませ(笑)