序章 ホンノー城の変 その⑥
「それよりも陛下、なんとかして城からお逃げ……えっ?」
一瞬、僕はフランソワーズ様の顔を見返した。
フランソワーズ様が発した言葉の意味をとっさに理解しそこねたからだ。
僕はひとつ息をのみ、おそるおそる訊き直した。
「あ、あの、陛下。今なんと……?」
「城に火を放つのよ。ただし、女官たち城の人間を逃がしてからね。ヒルダの狙いはあくまでこの私の首級。無関係な人間を手にかけるほど彼女は残忍でも無慈悲でもないわ」
「へ、陛下!?」
さすがに僕は仰天した。城に火を放てという命令そのものにもだが、なにより言葉に秘められたフランソワーズ様の「覚悟」を察したからだ。
あ然として僕が声もなく立ちつくしていると、窓の外を眺めやりながらフランソワーズ様が独り言のように語をつないだ。
「ヒルダにこの首を渡すくらいなら、この城ごと燃えて灰になったほうがましよ。誰が渡すものですか……」
「な、なにをおっしゃいますか、陛下。諦めてはなりません!」
さすがにたまらなくなって僕はおもわず声を高くさせたが、しかしながら現実は非情で、もはやどうにもならない状況であることは誰の目にもあきらかである。
城兵たちの奮戦もむなしく、城の最終防衛線たる城門はもはや陥落寸前。それほど時をおかずして敵兵が城内になだれこんでくるだろう。それも当代の名将ヒルデガルド将軍にひきいられた国軍随一の精鋭フェニックス騎士団がだ。
対して迎え撃つ城内の人間は、侍従官、女官、衛兵、料理人、清掃員という、なんとも非力な面々。
この顔ぶれではそれこそ奇跡でも起こらないかぎり、フェニックス騎士団の刃からフランソワーズ様をお守りすることなどできやしないだろう。
そして、そんな僕の心底などどうやらフランソワーズ様には見透かされているようで、薄い笑いがその口からこぼれた。
「気休めはいいわ。お前だってヒルダのことはよく知っているでしょう?」
「そ、それは……」
「それに女王たる者、生命欲しさに醜態を晒したら、天上に赴いたときに兄上にあわせる顔がないじゃないの。ちがうかえ?」
「へ、陛下……」
〈兄上〉という一語が鼓膜を打ったとき。僕はおもわず目をみはり、発声者の顔を見つめ返した。
そして、視線の先で微笑まじりに小さくうなずくフランソワーズ様を見て、僕はまざまざと思い知ったのである。
そう、十七歳のときに主席侍従官として召し抱えられ、以後、近習としてお側に仕えること八年にもなろうというのに、いまだ自分が、フランソワーズ様の為人というものを完全に把握していなかったことを。その事実に気づいたとき、僕はとりまく状況をも忘れて自省せざるをえなかった。
そうか、この人はずっと「あの御方」のことを忘れていなかったのか……。
ならば、もはや脱出をうながすのは無意味、いや、無粋であろう……。
フランソワーズ様の「秘めた思い」を悟った僕は説得を断念し、かわりに深々と低頭した。
「ご、ご無念にございます、陛下……」
すると意外なほどあっさりしたというか、どこかあっけらかんとした声が返ってきた。
「フフフ。まさか今日のような日を迎えるとは、つい先日までは想像すらしていなかったわね。でも、私に滅ぼされた国々の王たちもおそらくそう考えていたでしょうし、それを思えば因果応報というものかしらね」
「…………」
僕は返答しなかった。フランソワーズ様が他者に向けて話しかけているのではなく、自らへの独語とわかっていたからだ。
だが、僕が沈黙を守っていると、
「それよりもランマル。ちょっとだけ私に付き合ってもらえるかしら」
「は?」
「一人くらい観客がいないと、私も舞い甲斐がないのよね」
「舞い甲斐……でございますか?」
真意をはかりそこねて小首をかしげる僕に、フランソワーズ様は小さくうなずくとそのまま踵を返して廊下を歩きだした。僕も慌ててその後を追う。
あいかわらず悲鳴と怒号とが交錯する城内の廊下を歩くことしばし。やがてたどり着いたのは城の謁見の間だった。
赤く染めあげられた厚織りの絨毯が広間の中央を一直線に伸び、その先には床面から三段ほど高くなった階があり、一番上の段には玉座がおかれてある。
だが、広間を進み歩くフランソワーズ様の足はそこまでいたらず、広間のほぼ中央のあたりで止まった。そして、かえりみることなく僕に言う。
「ランマル。あそこのサーベルを取ってきてちょうだい」
そう言ってフランソワーズ様が指さしたのは、広間の北側の壁に飾られているサーベルだった。
観賞用の模造刀などではなく、刃も研がれてあるれっきとした真剣だ。
ともかく僕は言われたとおりに壁からサーベルをはずして戻ってくると、それをフランソワーズ様に手渡した。
手にしたそのサーベルをフランソワーズ様はごく短時間、無言で見つめていたのだが、やがて鞘走らせて刃を抜くとそれをゆっくりと水平にかざした。その口から低い独語が漏れたのは直後のことである。
「人間、五十年……」
その独語を端にして、フランソワーズ様は謡を口にしながらサーベルを手におもむろに舞いはじめたのである。
――人間五十年
――下天の内にくらぶれば
――夢幻のごとくなり
――一度生をうけ滅せぬ者のあるべきか
それは「アツモリ」という名で知られる舞謡だった。
変わったその謡名が作者の名前なのかどうか、そのあたりの詳しいことは忘れたが、ようするにこの歌詞の意味するところは、人間の一生はせいぜい五十年ほど。
五百年とも千年とも言われる下天、すなわち天上世界の時間の流れにくらべれば一昼夜の夢や幻のようなものであり、生あるものはいつかは滅びてしまうものだ、ということである。
人間の一生のはかなさを歌にしたなんとも物悲しい舞謡であるが、それはともかくサーベルを手に金色の長髪を振り乱しながら舞い続けるフランソワーズ様の姿を、僕はなかば喪心した態で見守っていた。
いや、正確には圧倒されていたのだ。
敵襲をうけて今まさに確実な死が迫り、絶望の淵に立たされたはずの人間がどうしてこれほどまでに美しく華麗で威厳にあふれた舞いができるのかと。それほどフランソワーズ様の剣舞は、見る者の心を魅了するものだったのだ。
やがて舞い終えたフランソワーズ様は、しばし自らを落ち着かせるようにその場に佇んでいたのだが、ふいに僕に声を放ってきた。
「人間五十年と言うけれど、私はまだ半分ほどしか消化していないのよね。まあ、十分に中身の濃い人生であったけどね。そう思わない、ランマル?」
僕が返答に窮していると、またしても数度の大砲の砲撃音と、それに続く同数の破壊音と崩落音が鼓膜を打った。
しかも今度はそれだけではなく、咆哮にも似た猛々しい叫び声まで聞こえてきた。
どうやら敵兵の一部が、ついに城内に攻め入ってきたらしい。
「どうやら時間がきたようね」
微笑まじりにつぶやくと、フランソワーズ様は表情をあらためて僕に向き直った。
「いいわね、ランマル。かならず火を放つのよ。そして、お前はお逃げ」
「陛下……」
声を詰まらせた僕にフランソワーズ様は優しげに微笑み、
「さらばよ、ランマル」
「いえ、すぐにお会いできます、フランソワーズ様」
するとフランソワーズ様は一瞬、驚いたように両目をしばたたいて僕の顔を正視したが、僕の表情から内なる覚悟を見てとったのだろう。ほどなく穏やかな微笑がその口もとをかざった。
「そうね。また会いましょう、ランマル」
そう言うなりフランソワーズ様はサーベルを手に踵を返し、おそらくは自らの死に場所と定めた奥の玉座に向かって歩きだした。
女王たる者、死すときも玉座とともにあるべきということなのだろう。気高い為人のフランソワーズ様らしいと僕は思う。
くわえてその歩調には、間近に迫った死への恐怖や焦燥などは微塵も感じられない。
それどころか、敵対した国々から「ジパングの魔女」と畏怖された女王にふさわしい凜とした威厳すらあった。
そんなフランソワーズ様の去りゆく姿を見つめながら、僕は今さらながらに思うのだった。
十七の年にお仕えして以来、僕の青春はあの女王とともにあり、あの女王とともに歩み、あの女王とともに刻んできた。
そして今、その女王とともに自らの人生にも終幕を降ろそうとしているが、それはおそらく八年前から宿命づけられていたことにちがいない、と。
そう、女王の主席侍従官として召し抱えられた八年前のあの日から……。