序章 ホンノー城の変 その⑤
得体の知れない不安にざわめく心を抑えながら恐る恐る訊ねた僕に、フランソワーズ様は薄く笑ってみせた。
「お前も知ってのとおり、ヒルダは緻密で隙のない戦術を得意とする当代の名将。そのヒルダが謀反を起こしたからには、成功させるだけの勝算と確信があったからにちがいないわ。となれば、すでに湖岸一帯は彼女の軍勢によって十重二十重に取り囲まれ、もはやネズミ一匹すら逃げることはできない状態のはず。逃げだしたくとも、もはや無理よ」
「へ、陛下!?」
達観したというよりは、どこか捨て鉢的なフランソワーズ様の言葉に僕は声をあえがせたが、一方で、フランソワーズ様の指摘が正鵠を得ていることもたしかであった。
今日までフランソワーズ様が国策として推進してきた、僕に言わせれば誇大妄想としか思えないジパング島征服計画「天下布武」の中心を担い、その前に立ちはだかるあらゆる敵勢力を傑出した知略と武勇で殲滅し、フランソワーズ様の覇道を切り開いてきた人物、それがヒルデガルド将軍なのである。
それだけの人物が謀反を起こしたということは、フランソワーズ様が言われるとおり、高い勝算をもって乱を起こしたことは容易に推察できるし、おそらく事実であろう。
しかし、だからといってこのまま逃げずにいたらどうなるのか。そんな子供でもわかる「近未来予想図」が理解できないフランソワーズ様でもないだろうに……。
「ついてきなさい、ランマル」
唐突に声を向けられて、意識を引き戻された僕は慌ててその顔に視線を走らせた。
視線の先でフランソワーズ様はすでにソファーから立ち上がっていて、胸元が大きく開いていたローブもきちんと直してどこかに向かおうとしていたのだ。
「へ、陛下。どちらへ?」
だが、フランソワーズ様は答えることなく、無言を守りながら部屋を出ていった。
僕も慌てて立ち上がりその後をついて行く。
ほどなく歩き出た廊下で、フランソワーズ様と僕はそこの窓から身を乗りだすようにして外の様子を眺めやった。
このときすでにフェニックス騎士団の軍勢は、岸側に設けられた橋の正門を突破して中腹付近まで攻めこんでいたが、それを城の警備兵たちが弓矢を放つなどして応戦し、それ以上の進入を押しとどめていた。
わずか百人ほどの警備兵の前に、数で圧倒するフェニックス騎士団が攻めあぐんでいる理由は橋の幅にある。
もともと大人数の移動を想定して造られた橋ではないので幅は以外に狭く、一度に通れるのはせいぜい二十人ほど。いかに数千の軍勢とはいえ、警備兵たちにしてみればその二十人に絞って矢の雨を浴びせればいいわけで、まったくこれは幸運としか言いようがない。
とはいうものの、地の利を生かして今は神がかり的な善戦を見せている兵士たちも、生身の人間である以上、気力体力双方でいつかは限界がくる。その前にフランソワーズ様には城から脱出してもらわなければならない。
そう考えた僕はあらためて退城を迫ろうとしたのだが、それよりも早くフランソワーズ様がおもむろに僕に声を向けてきた。
「ランマル、それをお貸し」
「はい?」
「お前が持っているその遠眼鏡よ。さっさとお貸しったら!」
そう言うなりフランソワーズ様は、僕の手から遠眼鏡をひったくるように奪うとそれを窓の外にかざしながら覗きこんだ。どこか興がったような声が漏れ聞こえてきたのは、それからすぐのことである。
「あら、たしかにオ・ワーリ軍の軍旗が見えるわ。それにフェニックス騎士団の旗も。ヒルダが謀反を起こしたというのはどうやら本当のようね」
さっきからそう言っているでしょうがっ! 僕は胸の中で噛みつかずにはいられなかった。
事態はすこぶる深刻でめちゃくちゃ切迫しているというのに、なんだか他人事のようにのんびりとした態度のフランソワーズ様に内心でいらいらしながらも、僕はあらためて城からの脱出をうながそうとしたのだが、その一語を発するよりも早く、大砲の発射音が連続して僕の鼓膜を叩いた。
またしても城のどこかに直撃したらしく、総毛立つような破壊音が立て続けに生じ、これまた同種の崩落音がそれに続いた。
城内の人間も大砲が撃ちこまれたことを察したらしく、あちらこちらから男女の悲鳴重なりあって響いてきたが、こんな状況にあってもフランソワーズ様には城から逃げだそうとする様子はない。それどころか、落ち着きはらった態であいかわらず遠眼鏡を覗きこんでいる。
ここまでくると、もはや剛胆をとおりこして単に「バカ」なだけなんじゃないのかと思ったが、それを口に出したら最後、眼下の湖に頭から突き落とされるのは確実なので、僕もしかたなしに外の様子を眺めやった。
橋の上では忠実な警備兵たちが今なお奮戦していた――と言いたいところなのだが、それもすっかり過去のもの。嵩にかかって攻めかかるフェニックス騎士団の前に兵士たちは城門前にまで押しこまれていた。いかに地の利があっても、やはり兵力差というものはいかんともしがたいようで、あの様子では城門を突破されるのも時間の問題であろう。
かといって、迎え撃ちたくても城にはもう兵士はほとんどいない。
今、城門前で戦っている警備兵たちを除けば、警護の衛兵が二十人ほどいるだけで、あとは僕たち近習の侍従官と女官、さらには城の料理人に清掃員といった非戦闘員のみ。絶望的状況とはまさにこのことであろう。
にもかかわらず城の人間で一番絶望を感じないといけないフランソワーズ様はというと、絶望に顔を蒼白にさせるどころか、微笑すらたたえて橋上の戦いを遠眼鏡越しに「観戦」している始末だ。
まったく、どういう神経をしているんだか。内心で僕があきれた声を漏らしたとき、そのフランソワーズ様がおもむろに遠眼鏡から目をはずして僕に向き直り、そして言ったのだ。
「ランマル、城に火を放ちなさい」