第三章 ゴッド・セーブ・ザ・クイーン その⑭
僕が王城に帰ってきたのは、日没が間近に迫った夕刻のことであった。
城内に入ると、その足でフランソワーズ様の執務室に向かった。使者の役を無事に務め果たしたことを報告するためだが、その執務室に足を踏み入れたとき僕は驚きのあまりおもわず目をみはった。
それというのも、窓際に立って外界を眺めていたフランソワーズ様が黒いドレスを着ていたからだ。
これまで赤、青、白、ピンクとさまざまな色のドレスを着たフランソワーズ様を見ている僕だが、黒いドレス姿を見るのはこれが初めてのことであった。
僕がなかば呆気の態でその場に佇んでいると、フランソワーズ様が僕に向き直り、
「どうしたの、ランマル。そんなところにぼうっと突っ立って?」
「い、いえ、失礼いたしました」
慌てて低頭すると、僕はあらためて帰城の挨拶と使者の任を果たしたことを告げた。
「ご苦労だったわね。まあ、座りなさい」
僕に椅子を勧め、自らもソファーに腰をおろすと、部屋の扉が開いて二人の侍女が二人分の紅茶を運んできた。
その侍女たちが退室したのをみはからい、フランソワーズ様が僕に訊いてきた。
「それで、カルマン卿はなにか言っていたかしら?」
「はい。御自身および謀反に与した貴族らへの寛大なご処分に、陛下への感謝の意を口にされておいででした」
するとフランソワーズ様は片眉を微動させ、
「……それだけ? ほかになにか言ってなかったの?」
「ほかに……でございますか?」
続けてそう問われたとき、僕は表情の変化を抑えるのに多少の忍耐力を必要とした。
カルマン殿下の別れ際の言葉――フランソワーズ様の行く末を心配されていたことを告げるべきかどうか迷ったのだ。
そして迷った末、僕はあえて黙っていることにした。
理由という理由はこれといってなかったのだが、そうすべきだと直感的に思ったのだ。
「いえ、ほかにはこれといって……」
「そう……お前を使者に指名したくらいだから、なにかあるのかと思ったのだけれど……」
独り言のように応じるとフランソワーズ様は優美な動作でソファーから立ち上がり、そのまま部屋の大窓を開けて露台に出た。
そこで手摺りに両手をおき、しばしの時間、そこから望める城外の景色を黙して眺めていたのだが、やがて室内にいる僕に声を向けてきた。
「ランマル。ワインを一杯、持ってきなさい。赤でも白でもいいわ」
僕は命じられたとおりに赤ワインをクリスタル・グラスに満たして露台に出ると、それをフランソワーズ様に手渡した。
だが、フランソワーズ様がそれを口にすることはなかった。自ら干すために持ってこさせたのではなかったのだ。
凝視するようにグラスの中で微動するワインの赤い液体を見つめていたフランソワーズ様は、やがてグラスを軽く眼前に掲げると、しなやかに手首をひるがえしてワインを地上に向かって流し落としたのだ。
その光景を見たとき、僕はおもわず息を呑んだ。
それは不本意ながらも袂を分かつことになった人への――そう、カルマン殿下への告別の杯であったことを察したからだ。
事実、露台から地上に向かって流れ落ちるワインの液体を、哀愁をこめた表情で見つめるフランソワーズ様の口からは次のような一語が漏れたのである。
「さようなら、お兄様……」
その声はあまりにも低く小さく、おそらくは当人ですら発声した自覚がないのではと思われるものだったが、僕にはたしかに聞こえたのである。
そしてカルマン殿下が夜のうちに軟禁先の子爵邸を辞去し、母親や近習の者らをともない国都を離れたという報告が王城にもたらされたのは、その翌朝のことであった……。