第三章 ゴッド・セーブ・ザ・クイーン その⑧
ふとわれに返ったとき、いつしか自分がフランソワーズ様の寝所近くまで足を運んでいたことに気づき、僕は驚かずにはいられなかった。
それも当然で、カルマン殿下の部屋を出てからこの場にいたったまでの記憶がまるでないのだ。
おそらくはぼんやりと考え事をしながら歩いていたからであろうが、われに返った今では何事を考えていたのかもまるで思いだせなかった。
それはともかく、時間も時間なので僕はすぐに踵を返して自分の部屋に戻ろうとしたのだが、その足は三歩進んだところで止まった。室内からなにやら言い争うような声が聞こえてきたのだ。
その声に驚いた僕はためらいつつも扉をノックして部屋に足を踏み入れたのだが、そこではソファーに座るフランソワーズ様に妹のエマ様が詰めよって、なにやら声を荒げている姿があった。
「こんな夜分にいかがされたのですか? そのように声を荒げられて……」
「あっ、ランマル!」
僕の姿を見るなりエマ様が駆けよってきた。その顔は半分泣いているようにも見えた。
「どうされたのですか、エマ様?」
「ランマル、あなたからも姉様にお願いして。カルマン兄様をお許しになってって!」
「エ、エマ様……」
その一語でおおよその事情を察した僕は、ソファーに座るフランソワーズ様を見やった。
不機嫌という言葉を絵に描いた姿が視線の先にはあった。
今にも閉じそうな眼といい、ぼさぼさと乱れた髪といい、おそらくは寝ていたところを起こされたあげくエマ様からカルマン殿下の「助命懇願」をされたのであろう。憮然とした顔つきでグラスに注いだ水を喉に流しこんでいる。
そんなフランソワーズ様をよそに、エマ様が懸命の顔つきで僕に訴える。
「そもそもカルマン兄様には姉様に逆らう気などまったくなかったのよ。その証拠に兄様は何度も何度もダイトン将軍たちを説得して、姉様と敵対しないようにずっと働きかけていたんだから。でもダイトン将軍やほかの貴族たちはそんな兄様の説得を無視したばかりか、強引に盟主にして謀反を起こしたのよ。悪いのは全部あの人たちなのに、姉様はカルマン兄様を処罰しようとしている。こんな理不尽なことが許されていいの!?」
「…………」
なんと言っていいかわからず沈黙を守っていると、怒号にも似たフランソワーズ様の声が僕の鼓膜をうった。
「いいかげんにおし、エマ!」
鋭く厳しいその声に、エマ様がたちどころに口を閉じる。
その場に立ちすくんだまま唇を噛みしめるそんなエマ様に、さらにフランソワーズ様が強い語調で言い継いだ。
「たとえ身内であろうとどんな理由があろうと、女王に弓引いた罪は重いのよ。古来より罪には罰をもって報わせる。そうでなければ一国を治めることなどできはしないのよ。お前も王族なら、そのくらいのことはわきまえなさい!」
「だ、だってぇ……」
涙を浮かべて口ごもったエマ様を見やり「ここはひとつ、恋人らしくカッコイイ台詞で慰めてやるか」と考えた僕は、ひとつ息を吐いた後にやや気どった口調でエマ様に語りかけた。
「申しあげにくいことですが、エマ様。大公殿下はすでにお覚悟を決めておられます。いや、おそらくは同盟の盟主に就いたときからすでに……」
「姉様のバカーッ!」
「あ痛ッ!」
一瞬、僕は悲鳴をあげて跳びあがった。エマ様が吐き捨てるなり僕のスネをおもいっきり蹴飛ばしたのだ。おかげで僕は足を抱えながらピョンピョンと飛びはねるハメに。
いや、痛いのなんのって、涙がポロポロ止まらないのだ。珠玉のように光るエリート侍従官としては恥ずべき醜態だが、本当に痛いときにそんなこと言っていられない。それにしても、なんだって僕がこんな目にあわなきゃならんのよ……。
やがて室内が静けさを取り戻し、ことのついでに僕のスネの痛みもやわらいだとき、ソファーの上でフランソワーズ様が疲れたように吐息した。
「まったく、エマにも困ったものね。ほんと、子供なんだから……」
苦々しげにつぶやくフランソワーズ様であったが、その声の端々からはエマ様に対する隠しきれない愛情も感じられた。なんだかんだ言ってもエマ様が可愛くてしょうがないのである。
そのフランソワーズ様がふと僕を見やり、
「ところでランマル。お前、こんな時間にどうしたの?」
「えっ?」
いぶかるような口調で質されて、僕はとっさの返答に窮した。
たしかにフランソワーズ様がいぶかるのも当然である。なにしろ僕は別に召し出されて部屋を訪れたわけではないのだから。
カルマン殿下の執務室を出た直後になぜか「記憶喪失」におちいって、気づいたときにはこの部屋の前にいただけなのである。
とはいえ、さすがに本当のことを告げるのはためらわれたので、僕はごく短時間、脳細胞をフル稼働して別の返答を考えた。
「明日の式典に関するすべての準備が終えましたので、そのご報告に参りました。おもだった方々は現在、国都に滞在されておりますので、明日の夜には確実に登城されるものかと」
「そう、ご苦労さん」
満足そうにうなずいてコップの水を飲むフランソワーズ様に、僕はおそるおそる声を向けた。
「あ、あの、陛下。カルマン殿下の件なのですが、やはりご意志は変わりませんか?」
するとフランソワーズ様は、凄みのある目つきで僕の顔をじろりと見やり、
「まさか、お前までつまらないことを私に進言するつもりではないわよねえ?」
「い、いえ、めっそうもありませんです、はい!」
まさに猛禽類、いや肉食獣さながらの目つきで睨まれて僕は慌てて首を振った。
妹のエマ様は叱責で済んだが、これ以上、僕なんかが余計な差し出口をきいたら、おりからの不機嫌さもあいまってキレたスイカップに城の露台からロープで逆さ吊りにされて、そのまま朝を迎えて陽光を拝むハメになるのは見えている。
「明日の戦勝式典の場で彼らの処分を発表するわ。段取りは任せたわよ、ランマル」
「は、はい、かしこまりました」
僕は一礼して部屋を出ると、今度こそ眠りにつくべく自分の部屋に向かって歩きだした。
もっとも、ベッドに入ったところでとても寝付けるとは思えなかったが……。