第二章 救国王侯同盟 その⑫
翌朝、代官所を発った僕たちはそのまま領境を越えて件のウェミール湖に向かい、昼過ぎには現地に到着して湖岸の南端に陣を敷いた。
フランソワーズ女王、領境を超えてウェミール湖に進軍す。どうやらこの情報はたちどころに相手側にも伝わったようで、こちらが陣を敷いて早くもその三刻後には、ブルーク城に拠っていた同盟軍もクレマンス将軍が自らひきいて湖に進軍し、僕たちとはちょうど反対側に位置する北側の湖畔に陣を敷いた。
かくして現在、両軍、湖をはさんで睨み合いをしているわけなのだが、僕としてはいささか無視しえない状況である。
同盟軍にはブルーク城という後方拠点があり、いざとなれば武器でも食料でもすぐに湖まで取り寄せられるが、こちらの拠点たるカナン城ははるか数百フォートメイルも離れた辺境にあるのだ。
仮に早馬を飛ばして物資の補給を要請しても、こちらに届くまでは往復五日はかかるであろう。湖畔に陣を敷いて以降、同盟軍が動きださないでいるのは、僕らのそういった事情を見越しているからなのは明白である。
いぜんフランソワーズ様がこの湖を戦場に定めた真意は僕にはわからないが、ともかくそうと決めた以上は先の理由からも短期決戦を挑むべきなのではと僕などは思うのだが、当のフランソワーズ様はというと湖に軍兵を進軍させたものの自らは同行せず、この地における陣屋として借りうけた(というより、いきなり押しかけた上に強引に居座っている)さる商人所有の屋敷にとどまり、のんびりと過ごしていた。
この日も朝から屋敷の露台に出て、屋敷の主人から献上された(というより強引にぶんどった)年代物のワインや熟成されたチーズなどを堪能しながら、のほほんと日向ぼっこに興じる始末。
まったく、目と鼻の先にある湖は今にも一触即発の状況だというのに、どこまで呑気なんだかね、このスイカップは……。
「うーん、このブルーチーズはほんと絶品ね。赤ワインとよく合うわ。ちょっとクセはあるけど舌の上でよく溶けるし、お前もひとつどう、ランマル?」
……呑気というよりは、もはや脳天気の域に達するフランソワーズ様の態度に、さすがに僕はたまらなくなって声をはりあげた。
「陛下! 臨時主席侍従武官としてご意見申しあげます!」
すると、フランソワーズ様は驚いたように両目をパチクリさせ、
「な、なによ、急にあらたまっちゃって……?」
「湖畔に陣を敷いて今日で丸一日。地の利を有する反乱軍とはことなり、わが軍の後方拠点ははるか遠方にあり、いざというときも補給をうけるのも容易ではありません。彼らが動かずにいるのは、われらのそういった事情を見越してなのは明白。ならば今すぐ交戦のご命令を下し、短期決戦を挑むべきではありませんか?」
「拠点なら、ちゃんとこの屋敷があるじゃないのよ。なにが不満なの?」
不満だらけだから言っているんですよ! 僕は胸の中で噛みついた。
武器も食糧も備蓄されていない商人の屋敷を戦いの拠点にしてどないすんじゃいと、僕は内心でさらに吐き捨てたが、声にだしてはこう続けた。
「拠点の問題だけではありません。戦いには〈機〉というものがあります。それを逃しては勝てる戦にも勝つことはかなわないでしょう。あのとき動いていればと後日になって悔いても、時すでに遅しということになりかねません」
「ふうん、機ねえ……」
フランソワーズ様はひと口ワインを呑むと、薄笑いまじりに僕を見やり、
「それで、臨時主席侍従武官殿が考える機というのはいつかしら?」
「もちろん、今すぐにも動くべきかと」
「今すぐにもどういう手を打つの?」
「ど、どういう手と言われましても……」
僕はとっさの返答に窮し、声を詰まらせた。
正直、そんな具体策まで考えてはいない。地の利がないことから持久戦になることを心配しているだけで、作戦の中身まで考えている訳じゃない。そもそもからして僕は軍師でも参謀でもないのだから、そんなこと聞かれても困るのである。
「それは、実際に戦いの指揮を執るヒルデガルド将軍らが判断されることなので、自分などが口出しすべきことではないかと……」
僕が巧妙に逃げを打つと、それに対してフランソワーズ様はなにか物言いたげに微笑したが、
「なるほど、機を逃してはならないというお前の言うことも一理あるわね。よろしい。では、さっそく今夜にも動くことにするわ」
「さようですか、今夜に……えっ、今夜?」
フランソワーズ様の言葉に、僕は驚いて両目をパチクリさせた。
「こ、今夜と申しますと、つまり、今日の夜ということでしょうか?」
「辞書を引けはそうでるんじゃない」
愉快そうに笑うと、フランソワーズ様はふいに上空を指さした。
「見なさい、ランマル。あの雲を」
「雲?」
言われるままに僕は頭上を見あげた。透きとおるような青空が広がるその一角に、わずかに灰色がかった厚い雲を見つけたのは直後のことだ。
どうやら雷雲や雨雲のようではなさそうだが、気のせいかその灰色の厚雲はだんだんとその面積を広げているように僕には見えた。とはいえ、よく見慣れたなんの変哲もない雲ということにかわりはない。
「あの雲がどうかなさいましたか?」
「あの雲が私たちの勝機を運んでくるのよ、ランマル」
まるで意味のわからないフランソワーズ様の言葉に、僕は空を見あげたままただポカンとするしかなかった……。