第二章 救国王侯同盟 その②
「ほげべっ!」
突如としてわが身、というか顔面を襲った得体の知れない衝撃と痛みによって、僕はエリートらしからぬ悲鳴をあげて床にひっくり返った。
そして顔を押さえながら起きあがったとき。僕の目に一番に映ったのは、きらびやかな刺繍細工がほどこされた女性用のパンプスだった。どうやら僕の顔面を襲ったのはこれらしい。
「パ、パンプス……!?」
「この最低オトコ! あんたなんかチーズの角に頭をぶつけて死んじゃえばいいのよ!」
ふいに鼓膜を刺激したその怒号に驚いた僕は、とっさに前方を見やった。
すると、そこには赤色を基調とした豪奢なドレス姿の少女が一人廊下の角に立って、目端をつりあげた凄い形相でこちらを、つまり僕を睨みつけている姿があった。
「エ、エマ様!?」
その姿を視認するなり、僕は驚きのあまり声を失ってしまった。
それも当然である。彼女の名はエマニュエル内親王といい、フランソワーズ様の妹、つまり王族の一人なのである。ちなみにエマというのは彼女の愛称だ。
妹といってもフランソワーズ様とは腹ちがいの異母姉妹なのだが、それでもフランソワーズ様はエマ様をことのほか溺愛している。骨肉の争いを演じた王族の中で唯一、自分と敵対することのなかった人間だからかもしれない。
そのエマ様は御年十六歳になられる。小柄でちょっと丸顔の、やや癖のかかった赤毛とふっくらとした唇がとても印象的な女の子なのだが、ここだけの話、じつは僕とエマ様は王族と臣下という立場を超えた「いい仲」なのである。
ようするに恋人同士というわけなのだが、しかし、そんな僕たちの関係を知る者はフランソワーズ様も含めて城内には一人としていない。それも当然で、僕もエマ様も周囲には秘密にして交際を続けていたからだ。
理由は簡単で、なにしろいくら女王側近のエリート侍従官とはいえ、こちらはしょせん家臣の身。対してエマ様は傍流とはいえバリバリの王族である。とてもじゃないがこの交際が周囲に知られでもしたら、互いの身分を理由に強制的に別れされられるのは目に見えているからだ。
否、別れさせられるだけならまだしも、
「よくも吹けば飛ぶこっぱ家来の分際で、私の可愛い妹に手を出してくれたわねぇぇ!」
と、激怒したフランソワーズ様に不純異性不敬罪(そんなのあるのか?)を言い渡されて、首チョンパならぬ「玉チョンパ」の刑にされる恐れだってあるのだ。
いや、誤解されると困るのだが、僕とエマ様はいたって「清い仲」であり、けっして「オトナの仲」ではない。そりゃまあ、さすがにチューくらいはしているが、しかし、天地神明に誓ってそれ以上の関係ではなく、したがって「玉チョンパ」されるいわれはないのだが、エマ様に対するフランソワーズ様の溺愛ぶりを知っているだけに安心はできないのだ。
それはさておき、そのエマ様がどういうわけか、廊下の先で今まで見たこともないもの凄い形相を浮かべて僕を睨みつけているのだ。まさに絵に描いたような憤怒の態であるが、いったい何事であろうか? すくなくともここ最近、エマ様を怒らせるようなことをした憶えはなにもないのだが……。
「な、なにをお怒りになられているのですか、エマ様?」
「なにを白々しい! 聞いたわよ、今度、縁談をするんですってね!?」
「え、縁談……?」
一瞬、僕はエマ様の言っていることがよくわからずポカンとしたのだが、ややあって言葉が脳裏に染みわたると、ようやくエマ様の怒っている理由を察することができた。
どうやらエマ様、フランソワーズ様への縁談話をなぜか僕の話と誤解して、それで嫉妬のあまり怒り狂っているらしい。
なにかと思えばまったく嫉妬ちゃって、ほんと可愛いんだからって……いや、今はそんな呑気なこと言っている場合じゃない!
「ご、誤解ですよ、エマ様!」
「なにが誤解よ! 私、フランソワーズ姉様からちゃんと聞いたんだからね。自分の勧めた縁談話をあんたが喜んで承諾したって!」
「へ、陛下が!?」
エマ様の意外な一語に僕は仰天したが、仰天したのと同時に、おおよその事情を察した。
どうやらフランソワーズ様が自分の縁談話を僕の話にすりかえて、それをエマ様に伝えたらしい。
で、それを信じたエマ様が「自分という恋人がいながら、よくも、よくも……!」と妬心まじりに怒っているというわけだ。
まったく、あの底意地の悪いスイカップ女王め。いくら僕とエマ様の関係を知らないからってしょうもない嘘をつきやがってと、僕は底知れない怒りをおぼえたのたが、それよりなにより今はとにかくエマ様の誤解を解かなければならない。
「そ、それは僕の、いえ、私の話ではありません。陛下にございますよ!」
僕が「冤罪」であることを必死に主張すると、エマ様はそれまでの憤怒の態から一転、きょとんとした顔になり、
「……陛下? もしかして姉様の縁談話なの?」
「そ、そのとおりにございますよ!」
一連の話を僕が詳しく説明すると、ようやく誤解であることを理解したエマ様はたちどころに笑顔になった。
「なんだ、姉様の話だったの。どうりで変だと思ったわよ。だってランマルはまだ十七歳なのに縁談なんてね。怒って損しちゃったわ、フフフ」
「理解していただけて私も嬉しく思います。ハハハ……」
と、僕も笑って応じたのだが本音はというともちろん別で、「そういうことは靴を投げつける前に気づいてくださいね」と文句のひとつも言いたかったのだが、ここは年上の恋人として(たった一歳ちがいだが)大人の態度をとることにした。
それにしても、まったくフランソワーズ様も人が悪い。自分への縁談を僕への話にすり替えて、しかもよりによってエマ様に話されることはないだろう……あれ、ちょっと待てよ?
ふと僕の脳裏にひとつの疑問がよぎった。そもそもからして、どうしてフランソワーズ様は話をすり替えてエマ様に伝えたのだろうかと。
まさか僕とエマ様の関係に気づいているとか? いや、さすがにそれはないか。もし気づいているのなら、とっくに僕のチ○コは胴体とアディオスしているはずなのだから……。
そんなことを考えていると、エマ様の疑問の声が耳に入ってきた。
「それにしても、姉様に縁談を勧めてくるなんてどういう心境の変化なのかしら? 先の戦いでアジュマン兄様とアドニス兄様が亡くなられて、そのことを理由にミノー国王はわが国を敵視していると聞いていたのだけれど……」
「エマ様はご存じでしたか」
「城の人間なら誰でも知っていることよ。アジュマン兄様かアドニス兄様のどちらかに国王になってもらって、このオ・ワーリ王国を意のままにしようとしていたのに、それをカルマン兄様やフランソワーズ姉様に阻止されて恨んでいるんでしょう、ミノー国王って。なのにどうして縁談なんか持ちかけてきたのかしらね」
「だからこそにございます」
僕が縁談を勧めてきたミノー国王の思惑を話して聞かせると、エマ様は得心したようにうなずき、
「なるほどね。今度は姉様を利用しようという考えなのね」
「はい。ただ話を持ちかけてきたミノー国王自身も、今回の縁談を陛下が素直にお受けになるとは思っていないでしょう。おそらくは断られることを前提とした縁談話と思われます」
「つまり、ミノー国王には別の意図があるというわけね?」
「さようにございます」
このあたりの察しのよさは、異母姉妹とはいえフランソワーズ様とよく似ている。
僕が内心で感心していると、後方からなにやらヒステリックな声が響いてきた。
なにごとかと思って振り返ってみると、一人の侍従官が血相をかえて廊下をこちらに走ってくる姿が見えた。僕の部下の一人で名前は……いや、名前なんかどうでもいい。どうせ、この後もう登場することはないのだから。なので、ここでは某侍従官とさせてもらう。
その某侍従官が廊下を駆けながら声を飛ばしてきた。
「こ、こちらにおられましたか、ランマル卿。大変でございますぞ!」
「なにごとだ、騒々しい。内親王殿下の御前だぞ」
という僕の一語と、その僕の後背からエマ様がひょいと顔を覗かせたことで、ようやくその存在に気づいた某侍従官はたちどころに立ち止まり、恐縮した態で深々と低頭した。
「こ、これはエマ王女様、失礼いたしました!」
「気にしなくていいわ。それよりなにかあったの?」
「は、はい。じつは今しがた、北部ノースランド領主のグレーザー男爵の急使が城に到着したのですが、その急使によればあの黒狼団がまたしてもあらわれて、領内の村々を襲っているとのことです」
「な、なに、黒狼団が!?」
某侍従官の報告に驚いた僕とエマ様は、おもわず顔を見交わした。
黒狼団とは、おもにジパング島中部帯を活動域としている盗賊団のことである。その歴史は古く、結成されたのは三十年前とも四十年前とも言われている老舗(?)の盗賊団だ。
僕は今、盗賊団と言ったが、やっていることは盗賊家業にとどまらず、村々を襲っては殺人や誘拐を繰り返すばかりか、人身売買に麻薬の売買と、およそ悪事ならなんでもござれの極悪集団で、他の盗賊団とくらべてもその非道さは頭ひとつ抜けている。
その黒狼団なのだが、先王オーギュスト十四世の時代に一度、わが国を含めた近隣諸国の連合軍によって壊滅においやられたことがある。当時の頭目だったジアドスとかいう人物にいたっては、理由や経緯は定かではないがともかくこの王城に忍びこんで時の王妃を誘拐したばかりか、宰相をはじめとする城内の人間を次々と殺害するなどさんざん暴れまわった果てに、最後は病死するという壮絶な最後を迎えたという。ちなみに誘拐された王妃は死体で発見されたというから、まったく痛ましいというしかない。
ともかく組織は壊滅して頭目も病死し、以来、黒狼団の名は聞かれなくなっていたのだが、それが過去形で語られるようになったのはここ四、五年ほどのことである。再結成でもしたのか、国内で誘拐や強盗といった凶悪事件が起きるたびにその名が取りざたされるようになったのだ。
まあ、それはいいとして(ちっともよくないが)疑問なのは連中の行動である。
事件を起こすつど「われわれは黒狼団である!」と、犯行が自分たちの所業であることをわざさわざ声高にアピールしていくのは、再結成したことを世に広めるためと理解できなくもないが、一番の疑問はわが国においての活動範囲というか、とにかく出没するエリアがどういうわけか国土の北部帯に集中しているのだ。おまけにその行動は神出鬼没をきわめ、派手に暴れまわったと思えば一人残らず霧のように姿を消すなど、およそ盗賊団とは思えないほど集団行動における統制が働いているのだ。
ゆえに連中の正体は盗賊などではなく、盗賊を騙る某国の兵士。はっきり言ってしまえば、北部帯と国境を接するミノー王国の軍兵なのではないかと、事件の捜査や警戒にあたっている憲兵隊や国軍の内部ではまことしやかにささやかれていた。領土の接する北部帯で暴れまわり、捕縛の手が迫ったらさっとミノー領内へ逃げこむ。これなら連中がこれまで一人として捕まえられないことも説明がつくからだ。
いずれにせよ、その黒狼団があらわれた。それもフランソワーズ様に縁談話が持ちこまれたのと前後しての出現である。鼻がひん曲がるほどのキナ臭さを僕が感じたのも当然であろう。
とはいえ、連中があらわれたというのなら好機ともいえなくもない。今度こそ一人でも捕縛して、奴らの正体を暴きたいところだが……。
「いかがされますか、ランマル卿?」
某侍従官の声で思案の淵から脱した僕は、
「よし。ともかくも陛下のご裁断を仰ごう。すべてはそれからだ」
と、すぐさま踵を返し、フランソワーズ様の執務室に戻っていったのである。




