序章 ホンノー城の変 その①
ジパング島内最大最強の大国オ・ワーリ王国。
二十八歳の若き女王フランソワーズ一世が掲げる領土拡大計画「天下布武」のもと、次々と島内に点在する国々を攻め滅ぼし、もはや島を完全に平定するのは時間の問題であった。
そんな一日、フランソワーズは側近で主席侍従官のランマルら、わずかな人数をともない地方視察に出かけ、ホンノー湖内の小島に建つホンノー城に宿をとる。
城内において女王の行幸を祝う盛大なパーティーが催されたその日の深夜。フランソワーズとランマルの人生を一変させる事件は起きたのであった……。
およそ世の中というものは予期できないことの連続で成り立っている。
王立学院で学んでいた学生時代。先生の一人だった哲学者が授業のたびに得意げな顔でそう口にしていたことを、僕はなぜともなく思いだした。
だからこそ人生は面白いのだとその先生は続けたのだが、現在の僕の状況に照らしあわせると面白いどころかはなはだ不愉快でしかない。
それも当然である。
なにしろ今日の僕は、女王陛下の主席侍従官という要職にある者として朝からなにかと多忙をきわめ、それこそ山のように積まれた仕事や案件を処理するため深夜まで奔走していたのだ。
おまけに、そんな仕事の山も日付けの変わる直前にようやくすべて片付けて「これでやっと眠れる!」と寝台に飛びこんで朝まで爆睡しようと思ったら、それから半刻と経たないうちに何者かが、なんともヒステリックな声で僕の名を叫びながら部屋の扉をドンドンと叩いているのだ。それはもう今にも扉をぶち破りそうな勢いで。
これで不機嫌にならない人間がいたら、ぜひともお目にかかりたいものである。
「……な、なんなんだよ、おい。なんの騒ぎだ?」
底知れない疲労と睡魔で半分死んでいた僕は、無神経な訪問者に対する怒りや苛立ちもあって、熟睡をよそおって無視してやろうかと思ったのだが、あの切迫した様子はただごとではないし、なにより他人の部屋とまちがえているのではないことは「ランマル卿、ランマル卿!」と僕の名を連呼していることからもあきらかである。
あの調子ではきっと、僕が応対するまで扉を叩き続けるであろう。
そのことが明白だったので僕はしかたなしに寝台から出ると、乱れた寝着を直しながら扉に向かった。
それにしても今日という一日を振り返ってみれば――正確には昨日だが――朝から不運なことが重なっていたと思う。深夜までおよんだ「激務」などはその最たるものだ。
具体的に言うとこの地への行幸、つまり地方視察にやってきた女王との謁見を求めて列をなす地元の貴族や名士一人一人に応対し、百人を超える彼らの要望をひとつひとつ聞いてまわり、謁見の段取りをきめ、その合間に行幸を祝うパーティーの準備をしたり、そのための人手を手配したり、そのほか細かい仕事まであげたらきりがないので省略するが、ともかく視察にやってきた女王に会いたいという人々の相手をするだけでも大変なのに、女王は女王でそんな僕にねぎらいの言葉をかけるどころか、ここは内陸部なのに、
「今日はカニが食べたいわね」
などとムチャを言いだすもんだから、クソ忙しい中、方々に手をまわしてやっとの思いでカニを取り寄せてやったのに、あの女王ときたらそんな僕にやはり感謝の言葉のひとつもないどころか、
「なんだか疲れちゃったから視察先減らしておいてね」
などと、僕が何日もかけて作成した完璧な行幸予定を無責任にもドタキャンしやがるもんだから、おかげで僕は楽しみにしていたパーティーにも出れず、華やかな宴が催されている同時分、一人寂しく自分の部屋で新たなスケジュールを黙々と練り直していたのだ。パーティーの準備を進めたのは僕なのに!
それ以外にも城内の階段から足を踏みはずして転げ落ちるわ、その姿をお側付きの女官たちに見られて失笑をかうわ、外に出れば出たでカラスの糞を頭にくらうわ、買ったばかりの新品の靴ヒモが切れてすっ転ぶわ、転んだ拍子に目の前にあった排泄したての馬糞をおもくそ鷲づかみするわと、思いだすだけでもはらわたが煮えくりかえるほどの散々な目に遭っていたのだが、そんな不運続きだった一日も就寝と同時にようやく終わりを告げたと安心していたら、今度は寝たばかりのところをたたき起こされる始末である。
まったく、ここまでくるともはや不運をとおりこして「凶運」というしかない。
ともかく僕は扉の前までやってくると、その扉越しに誰何の声を投げつけてやった。
本当は声だけで誰なのかはすでにわかっているのだが、これくらいの意地悪は天上の神々もお許しになられるだろう。
「誰だ、こんな夜中に他人の寝所を押しかけてくる無礼者は?」
「わ、私でございます、ランマル卿! マッサーロにございます!」
うん、それはわかっている。
心の中で意地悪く答えてから僕は扉を開けたのだが、開けると同時にニンジン色の髪の若い男が、僕を突き飛ばさんほどの勢いで室内に転がりこんできた。
幸い、その突進を僕は動物的本能でとっさにかわしよけて事なきをえたのだが、当の本人は勢いあまってすっ転び、さらに部屋の床を五転六転したあげく、背中と腰をしたたかに打ちつけて悲鳴をあげる始末。まったく、夜中だというのにはた迷惑な奴である。
ちなみにこのニンジン色の髪の男は、女王に仕える城勤めの侍従官の一人で名前はマッサーロ。早い話が僕の部下である。
年齢は二十一歳で、並びのすこぶる悪いすきっ歯にくわえ、鼻のあたりに薄いそばかすが広がるその風貌は、一見、間の抜けた印象を見る者にあたえるが、じつはこのマッサーロ。僕の母校でもある王立学院を学年次席で卒業したほどのエリート官吏なのである。
実際、計数に長じ、書類の扱いにも長け、勤勉で几帳面な性格で僕としてもなにかと重宝しているのだが、ごらんのとおり胆力に乏しく、少々のことで狼狽したり、とり乱したりする癖があるので、こちらが気疲れすることもしばしばである。
ちなみに、先年急死した先の国王に侍従官として仕えていた彼の父親もマッサーロという名前で、息子である彼は正確には「マッサーロ二世」もしくは「マッサーロ・ジュニア」と呼ぶべきなのだが、その父親は先王の死とともに侍従官職を辞して王城から去ったし、部下に対していちいちそんなシャレた呼び方をするのも面倒なので、ここはマッサーロで通させていただく。
そのマッサーロだが、どういうわけか血相をかえて僕の寝所に転がりこんできやがったのである。しかもこんな夜中に、上役たる僕をたたき起こしてまで。
いったい何事だろうか。まあ、どうせたいしたことではないだろうが。