彼女の頭にオムソバが乗っている理由について考えてみる
◇
柳一郎太は人の顔を覚えるのが苦手であった。彼は物心ついた頃からそのことを自覚しており、おかげで他の人間が当たり前にできることにも苦労を重ねてきた。例えば小学校時代の昼サッカー。クラス替えをしたばかりとはいえクラスメートの顔を誰一人として覚えていなかった一郎太は、敵味方の判別がつかずにオウンゴールを決めてしまい敵味方を問わずにひんしゅくを買った。例えば中学校時代の上下関係。学校内でも有名な札付きの先輩に呼び出された一郎太は、「失礼ですがどちら様でしょうか」の一言でたちまち集団リンチを食らう羽目となった(彼はその端正な顔立ちのせいで同性を中心に敵が多かった)。
そうして日々を過ごしてきた一郎太が他人に対して興味を失ってしまったのも無理からぬことだろう。高校に進学した頃には特定の友達を作ることも諦め、少しでも周囲との軋轢を生まないよう誰に対しても明るく優しく振る舞った。すると思いがけないことに、多くの人間が彼に対して好意的な態度で接し始める。それは一郎太が選んだ高校が進学校であり落ち着いた生徒が多かったこと、また平凡だった身長が大きく伸びたおかげで更に目立った容姿を手に入れられたことが理由として考えられたが、何はともあれ一郎太は平凡な日々を手にすることができた。顔が分からなくとも問題なくやり取りを交わすことができるし、一部の女子生徒からは何もせずとも告白やデートの誘いなどがやってくる。一郎太の表情には自然と笑顔が増え、同じことの繰り返しだった毎日が充実したものに感じられるようになっていった。
だが、高校に入学して三か月近くが経過したある日のこと。未だクラスメートの大半の顔を覚えることができていなかった一郎太であったが、そんな彼にある意味、衝撃的な出会いが訪れるのだった――。
◇◆
その日の朝、一郎太はいつものように学校近くのコンビニエンスストアを訪れていた。菓子類が陳列された棚の最も目立たない下段にひっそりと置かれていた蒟蒻ゼリー(一〇個入り)を手に取ると脇目も振らずにレジへと向かう。早朝の混雑具合に辟易しながらも表情を変えずにバーコードを読み取り続けていた金髪の女子店員(16)は、一郎太が列に並んでいることに気づくと途端に頬を赤らめ、「ありゃっしゃっしゃー」と訳の分からない言葉を呟きながら加齢臭の漂う男性客たちを次々と退場させていった。そうして二人はようやくの対面を果たしたわけだが、女子店員は気持ちを昂ぶらせ過ぎたせいか「ど、どうも」とおよそ店員とは思えないほどの軽い挨拶を済ませた後、カウンター脇に置かれていた大量のスニッカーズをおもむろに袋の中へと放り込み「こここれおまけですどうぞ」と一郎太に向かって差し出した。彼は相変わらずのオマケ量に戸惑いながらも感謝の言葉を述べ、それを聞いた女子店員ははにかむような見事な笑みを浮かべるのだった。ちなみに彼女はこのときのシーンを気まぐれで早出した店長に見られバイトを首になるのだがそれはまた別の話である。
それから約一〇分後、一郎太は蒟蒻ゼリーと大量のスニッカーズが入った袋を提げながら学校へと到着した。下駄箱前でクラスメートらしき男子生徒と二言三言会話を交わした後、まっすぐに教室へと向かう。一郎太の所属する一年三組は明るい性格の持ち主が集まった活気あるクラスで、朝の教室に「おはよう」の一言を放り投げれば同じ言葉が五倍にも十倍にもなって返ってくるという実に気持ちの良い場所だった。一郎太はさっそく声を掛けてくれた男女数人(やはり顔は覚えていない)に一人ずつ挨拶を返しながら、小さな幸福感を胸に抱きつつ席へと着く。
それからなんとなしに教室の風景を見渡したとき、一郎太はようやく『それ』に気づいた。
窓際にある自分の席から見て斜め前方、そこには一人の女子生徒が頬杖をついて座っていた。ふわふわの白いシュシュで結わえられた黒髪が朝日に美しくきらめいている。席替え直後に頭へ叩き込んだ座席表が正しければ、彼女の名前は栗花落撫子。四月に聞いた自己紹介のインパクトが強かったために存在自体は覚えていたが、会話らしい会話もしたことがないためにどういう人物なのかは分からない。
そんな彼女の頭上に、本来あるべきでないはずのモノが乗っていた。
オムソバである。
一郎太はもちろん目を疑った。だが、眼球を擦ったり頬をつねったりしてみても状況は変わらず、そうしているうちにソースの香ばしい匂いまでもが漂ってきて、いよいよ目の前の光景が現実であると認識せざるを得なくなった。
OMUSOBA ON HER HEAD である。
一郎太は激しく混乱した。どうして栗花落さんは頭にオムソバを乗っけているのだろう。いや確かにオムソバは地上で最も美味しい食べ物だし、濃い目に味付けされた焼きソバとふんわり甘い卵の口中で奏でる絶妙なハーモニーについて世に喧伝したい気持ちも分からないではないが、それにしたって発想が極端すぎる。現実的に考えて、これは何者かによる強制――要するにイジメだろうと一郎太は思った。この平和なクラスでそんなことが起きていると考えたくはなかったが、自分以外の誰一人として栗花落さんに関心を向けていないこの状況はオカシイと言わざるを得ない。
一郎太はどうするべきか迷いながら、教室後方の隅っこで膝を折っている女子生徒に視線を向けてみた。彼女は棚の一つを貸し切って置かれた虫カゴの前に陣取り、中の様子を食い入るようにして見つめている。一郎太は相変わらずの光景に苦笑しながら、しかしそのおかげで安心して声を掛けることができたのだった。
「おはよう、三堂さん」
その人物――三堂佳乃子は華奢な肩をピクリと震わせ、それからゆっくりと振り返った。ボリュームのある黒髪ツインテールが左右に揺れ、怜悧に整った面立ちが露わになる。どこか眠そうに細められた釣り目と無感動な表情のせいで気怠げな印象を持ってしまうが、それすらも彼女の魅力の一つだと一郎太は感じていた(彼が顔と名前を結び付けていられる数少ない人物であった)。
佳乃子はいつものように路傍の石を見るような目で一郎太を一瞥してから、
「お前か。ワタシへの供物はどうした」
「クモツ? ……あぁ、ちゃんと買ってきたよ」
一郎太は手に提げていた袋から蒟蒻ゼリーを取り出す。おかげで一緒に入っていたスニッカーズがバラバラと床に落ちたが、佳乃子は目の前に広がったそれらを拾う素振りすら見せなかった。一郎太は相変わらず素っ気ない子だなと思いながら、蒟蒻ゼリーを栗鼠のようにむぐむぐ食べ始めた後ろ姿を微笑ましく見つめる。
「この前みたいに全部食べたりしないでくれよ。黒鉄の分もあるんだから」
「ほう、たかが虫ケラのためにワタシに遠慮しろと?」
「いやそのゼリー元々黒鉄のために買ってきてるんだけど。むしろ、君が勝手に食べているんだよね?」
「……ふんっ。まぁいい」
蒟蒻ゼリーが虫カゴの横にぽいっと放り投げられる。一郎太はそれを拾い上げると、虫カゴの蓋を開けてすっかり減ってしまったゼリーと交換した。ちなみに黒鉄というのはミヤマクワガタ(♂)のことである。
「まったく感謝してほしいものだな、このワタシが虫ケラの世話をしてやっているのだから」
黒鉄が新しいゼリーにありつくのを眺めながらつぶやく佳乃子。その尊大な態度は美貌の彼女に相応しいように思えたが、実際は身長一五〇センチにも満たない小柄さのせいでどうにも迫力がなかった。一郎太はただ見てるだけじゃないかという本音を飲み込み「アアソウデスネ」と気のない返事をする。
そうして二人並んで黒鉄の様子を眺めたのち、一郎太は意を決して口を開いた。
「あのさ、ひとつ訊いてもいいかな」
「なんだ」
「その……栗花落さんのことなんだけど、ね」
佳乃子は「栗花落?」とつぶやきながら教室の前方へと目をやり、それから「あぁ」と声を洩らした。
「別に驚くことはないだろう、アイツは自己顕示欲の塊のような存在なのだからな」
「えっ、なに……?」
「お前だって十分に知っているはずだ。この虫ケラを我々が世話する羽目になった理由、忘れたわけではないだろうに」
佳乃子の言う通り、黒鉄を学校に持ってきたのは撫子だった。でもそれは『近所で偶然捕まえた』というありふれた理由によるものだったはずだが……。
一郎太が内心で首を捻っていると、佳乃子は隣で小さく嘆息した。
「その顔、どうやら栗花落の意図を分かっていなかったようだな。実に哀れなことだ」
芝居がかった口調を交えながら、佳乃子は出来の悪い生徒に対するような視線を向けてくる。
「仕様がないから教えてやろう……栗花落はな、この虫ケラを教室に持ち込むことで『クワガタの世話をする不思議系少女』を演じようとしたのだ。それが長続きせずに虫ケラからも興味を失ってしまったのは、周囲の反応が芳しくなかったからだろうな」
「周囲の反応って、俺たちクラスメートの?」
「それ以外にないだろう。理由は分からないが、栗花落はとにかく目立ちたかったのだ。最初の自己紹介からそんな調子だったことを考えると、俗に言う『高校デビュー』を狙ったのかもしれん」
「……ということは、あのオムソバも」
「同じ目的だろうな。他の連中もそう考えているからこそ、誰一人として触れようとしないに違いない」
そこまで聞いて、一郎太はようやくクラスメートの一貫した態度を理解した。それと同時に、イジメなどという安易な発想をしてしまった自分が恥ずかしくなってくる。だがそれ以上に、彼の心には引っかかることがあった。
どうして俺は、クラスメートのみんなと同じ発想ができなかったのか――。
「簡単なことだ」
悩み始めて間もなく、隣の佳乃子が口を開いた。
「お前は誰に対しても一歩距離を置く傾向にある。その上に事なかれ主義でもあるから、連中もお前に対しては栗花落の話題を口にしづらかったのだろうよ」
「……っ」
「図星か? 別にからかうつもりはないから安心しろ」
佳乃子がフッと表情を緩める。だがそれはすぐに元の鉄仮面へと戻り、視線は再び虫カゴ内の黒鉄へと向けられる。
「もっとも、連中と歩調を合わせる必要はないと思うがな。おかしいと思ったなら声を掛けてみればいい。それで何が得られるのかは知らないが」
「適当だなぁ」
「それはそうだろう。ワタシは栗花落撫子という存在に何も期待していない。そして他の連中に対してもな」
佳乃子はそれきり話を打ち切った。一郎太は彼女に思うところがあったものの何も言わないまま、振り返って撫子の背中を見つめる。
――おかしいと思ったなら声を掛けてみればいい。
佳乃子の言葉を信じるならば、撫子はかつての目立たない自分から脱却しようと行動に出たのだろう。それは幼い頃から悪目立ちに苦しんできた一郎太には理解できないことであったが、同時にそんな彼女だからこそ興味を持たずにはいられなかった。佳乃子のように顔を覚えられるかもしれないと思うだけで期待が高まったし、そのうえ――。
それ以上の、自分にとって大切な存在になってくれるかもしれない。
そう思い至った時、一郎太は勢いよく立ち上がった。栗花落さんと話をしてみたい。だが無情にもチャイムが鳴り響き、クラスメートたちはそれぞれに話を打ち切ると自分の席へと戻っていく。一郎太も仕方なく席に着いたのだが、ほどなくして今の状況がマズいことに気づいた。
担任がやってくる ⇒ 撫子の頭上にオムソバが乗っていることに気付く ⇒ イジメ問題が発覚する
仮にそうなれば何が起こるか考えるのが面倒なほど面倒なことが起こると感じ、一郎太はとにかくオムソバを回収しようと再び立ち上がった。しかしそうするよりも早く担任の大橋教諭が教室に入ってきてしまい、一郎太は注意を受けて仕方なく腰を下ろした。
「さて、出席を取ります…………ん゛っ?」
教室内を見渡していた大橋教諭が乙女に似つかわしくない声を上げる。無理もないだろうと一郎太は思ったが、驚くべきことに彼女はそのまま出席を取り始めた。
「それでは赤坂君、井上さん、江藤君……」
名簿から視線を上げるたびに大きな胸がブルンと揺れる。そのトレードマークは彼女を他の教師と区別するのに役立っていたが、あるとき胸ばかり見ていたせいか貧乳の養護教諭(28)から「地獄に堕ちろ」と耳打ちされてしまい、それを思い出すたび一郎太はこうして身を震わせ目を背けてしまうのだった。
一方、その悪魔じみた誘惑を必死で断ち切ってきたクラスメートが一人……。
その日のボウズ田中は、端的に言って油断していた。彼は一か月にも及ぶオナ禁を終えたことで達成感に浸りきっており、『ショートホームルーム中は決して机の上から視線を動かさない』という鉄則も忘れてぼんやりと虚空を見つめていた。そんな折、突然の乳揺れテロがボウズ田中を襲う。彼はキカンボウをフルでおっ立てるとともに鼻の両穴から大量の血を噴き出し、隣に座る一郎太を大いに驚かせた。そして「あれなんかパンツ濡れてるやべぇよやべぇ」と思いながらも何もできずに意識を遠ざけていった……。
一郎太はすぐにハンカチを取り出すとボウズ田中の鼻に押し当てた。だが出血の勢いは収まらず、ハンカチから漏れ出た赤色が一郎太の手をも生々しく汚していく。
大橋教諭はそれに気付いていないのか名簿を読み上げ続け、そのたびに豊満な乳房がブルンブルン。
わずかに目を開いていたボウズ田中が再びロケット花火のように血を噴いた。
「もう見ちゃ駄目だっ! 先生、田中君が危ないので保健室に連れていきます!」
「……えっ? あら大変、私も手伝った方がいいかしら」
「いえ結構ですっ! 先生はそのまま出席を取っていてください、あぁなるべく名簿は見ないようにして」
それだけ言うと、一郎太はこのままだと失血死してしまいそうなボウズ田中の目と鼻を塞ぎ、その体を引きずるようにして教室を後にした。
◇◆◇
キャリーこと夏織・ミルキーウェイは走っていた。
まだ早朝だというのにギドギドに汚れてしまったコックシャツを揺らしながら、白い額に浮かんだ玉の汗を吹き飛ばさん勢いで手足を振り乱している。通行人の老婆がぎょっとして振り返ったのにも気付かず、路地裏から伸びていた猫さんの尻尾を踏みつけても気にしなかった(ちなみにこのとき街中に張り巡らされた猫さんネットワークを通じて闇の支配者である猫さんギャングに被害の報告がなされたのだがもちろん彼女は知る由もない)。
キャリーは一郎太たちの通う学校近くにある飲食店に調理員として勤務している。といっても業務としてはすでに成形されたハンバーグを焼いたり茹で上がったパスタの上に既製のソースをかけたりする程度なので、コックと呼ぶには少々大げさすぎる仕事であった。キャリーもまた、出来上がった料理を無意味にフライ返ししていく中で『何かコレじゃない感』を常に感じており。
そう、彼女には生まれつき与えられた使命がある……ような気がするのである。
「はぁ……はぁ……む、無銭飲食っ、許すまじ……!」
そんなキャリーを現在進行形で駆り立てているのは、少し前に店の前を通りがかった女子高生の社会的に許されざる行為だった。彼女はこの日もフライ返しからのすっぽ抜けという黄金リレーで多くの通行人たちを犠牲にしてきたが(店の入り口から調理室までは障害がなく、ドアは何故かいつも開いていた)、問題となったのはソースまみれのオムソバが何者かの頭上へと見事に着地してしまったことである。さすがにマズいと思ったキャリーはすぐにタオルを持って駆けつけたのだが、被害者であるはずの女子高生は何事もなかったかのようにスタスタと歩いていったのだった。
キャリーは土下座で謝ろうとしていた気勢を削がれ、そして推理した。
――もしやあの子は頭上から降ってきたオムソバに驚きつつもよく考えたらラッキーじゃんこのままお昼ご飯にしちゃおうと考えたのではないか……?
仮にそうであれば、あの女子高生は堂々と無銭飲食を働こうとしていることになる。それを立派な大人のれでぃーであるキャリーが見逃すはずもなかった。彼女は自らが過ちを犯したのだということをすっかり棚に上げ、女子高生からオムソバを取り戻すべくこうして学校へ向けて急いでいるのである。なんなら校長室に飛び込んで一言言ってやろうとすら考えているのだから始末に負えない。
そうして猫さんの尻尾を軽く一〇本は踏みつけた後、キャリーは女子高生の通う学校へと到着した。客として入るわけにもいかないので生徒玄関から、抜き足差し足忍び足を使って中へと侵入していく。時を同じくして校舎前にたどり着いた猫さんギャングの一員であるホワイティ(♂)は、両手を水平に広げ爪先立ちで歩く後ろ姿を見て「おいおい不法侵入か」と最寄りの交番に駆け込む構えだったが、このままターゲットを見失ってはボスに顔向けできないと思い直すと予定通り尾行を開始した。キャリーは背後の尾行猫に気づかないまま、廊下をしゅたたたと歩き、階段を上がって二階へと進んでいく。
そのとき、キャリーの目に信じられないものが映り込んだ。
「これって、血……?」
踊り場の白い床を横切っていたのは、まるで血にまみれた死体を引きずったかのような生々しい形跡だった。キャリーは驚きのあまり言葉を失い、それから我を取り戻して血痕の続く先を目で追った。
幸いなことに死体は見つからなかった。それどころか一階と同様に誰もおらず、血痕だけがずっと先まで続いている。
――この平和そうな学校で、いったい何が起こっているというの……?
キャリーは目の前の光景に戸惑いながらも、内に秘めていた探偵魂が強く駆り立てられるのを感じた。そうよ、きっと私は飲食店のバイトなんかじゃなく探偵となる運命だったのに違いないわ。これが自らの使命であると直感したキャリーは、立ちはだかる恐怖心を抑えて学校内を調査することを決意したのだった。
「お、オレ、もう帰っていいかな……?」
猫さんギャング(笑)のホワイティは震え声で呟いたが、ボスの言うことは絶対だと思い直しキャリーの後をついていった。
◇◆◇◆
栗花落撫子は、少し垂れがちな瞳に泣き黒子、ふっくらとした頬がチャームポイントの実に可愛らしい容姿をした女の子である。
そんな彼女がネットアイドルとしてデビューしたのは中学に上がってすぐの頃であった。アニメ・ゲーム関連のイベントに参加した際に好きなキャラクターのコスプレをしていたところ、しま○らで売っていそうなチェックシャツの似合う素敵なお兄さま方に見初められ、撮影したコスプレ写真をホームページ上にアップするという活動をスタートしたのである。
当初は恥ずかしさばかりが先行していた撫子であったが、撮影会を重ねるごとにその感情は薄れていき、代わりに「かわいい」と言ってもらえることが素直に嬉しく感じられるようになっていった。写真に対するネット上の反応も増え始め、徐々にその活動にのめり込んでいく。ホームページのアクセスカウンターは面白いように回り始め、一年後には『新進気鋭のネットアイドル』として二次元関連サイトのインタビューを受けるまでに成長した。
だが、二年あまりが経過したころ、『ネットアイドルつゆりん』は唐突にその短い生涯を終えた。なぜなら活動の事実を堅物の父親に知られてしまったからである。現実の栗花落撫子は内気な性格で彼氏どころか友達もほとんどいなかったから、生きる目的にすらなりつつあったコスプレ活動を取り上げられてしまい、あっという間に自分の殻へと閉じこもってしまうのだった……。
そんな撫子に転機が訪れたのは今年の四月。あえて学区内の最も遠い高校を受験した彼女は、今度こそ内気な自分から脱却しようという気概に満ちていた。そのため入学前の一週間は寝ずに自己紹介の内容を考え、当日は心臓が破裂しそうなほどの緊張を抱えながら必殺のセリフを口にした。
――わたしのことはぁ、つゆりんって呼んでね☆
初々しい空気に満ちていた教室が一瞬して凍り付いたのは言うまでもない。
それでも、撫子はめげなかった。たった一度の高校生活を少しでも楽しんで過ごしたいという強い思いから、次々と自己アピールを繰り出していったのである。しかしその一つとして誰かの心を揺さぶることはなく、もはや日常の光景として流されるに至って撫子はゆっくりと椅子に腰を下ろした。そうして二度と立ち上がることができないまま、再び深い殻の底へと閉じこもってしまったのである。
だが、撫子は神から見放されてはいなかった。なにしろキャリーの暴投したオムソバが頭上に乗ってしまうというアクシデントに見舞われながら、そのおかげで密かな想い人である一郎太に関心を向けられ始めているのだから。ちなみに彼女がオムソバに気付かなかったのは歩行時に視覚と聴覚以外を遮断してひたすら物思いにふけるというワザを体得していたからであり別に設定を忘れていたとかそういうのではない。
そして今、撫子は物凄くそわそわしていた。
――やっぱり、こっちを見てる……よね?
場面は一・二時間目の体育授業。女子の種目であるバレーボールの準備をしながら、彼女は自分に向けられる視線が誰のものであるのかチラチラ確認していた。目が合いそうになると慌てて顔を背け、再びそろーりと様子をうかがう。頭を動かすたびにオムソバのソバ部分が落下して背後にいたクラスメートの笑いを誘ったが、撫子は仮に気付いていたとしてもそれどころではなかった。
――あの柳くんが、どうしてわたしなんかのことを……。
柳一郎太は『美人にもブスにも優しいイケメン』として知名度急上昇中の男子生徒である。休み時間にはクラスの垣根を越えて親交を深めようとする同級生や、学年の壁を越えて様子を伺いにくる上級生があとを絶たない。撫子はそんな彼女たちを疎ましく思っていたが、一方で羨ましくも感じていた。なぜなら、好きな人に対してはどんな形であっても関わりたいというのが恋する乙女の気持ちだと自負していたからである。
そのため、撫子は少し戸惑っていた。自分はあのビッチたちのように行動を起こしていない、それなのになぜ……?
あれこれ考えたすえ、ほとんど妄想に近い想像が頭の中で形作られていく。
――もしかして、柳くんはわたしの頑張りをずっと見ててくれたのかも。あの子ヘンだなって思いつつも、少しずつ注目し始めて、いつの間にか目が離せなくなっていたみたいな……。
考えてみれば、柳くんと目が合う回数って他の人より多かった気がする。そんな風に過去の記憶を都合よく思い出していくと、撫子は自らの飛躍した想像を止められなくなってしまうのだった。
――も、もももしかして、柳くんはわたしのことを……。
「ぶひぃ」
興奮したせいで頬がかっと熱くなる。そういう瞬間にブタの鳴き真似をしてしまうのは彼女の癖だったが、それを聞いてしまったクラスメートは『なんだこいつ今度はブタプレイで周囲の気を引こうとしているのか』と邪推せずにはいられなかった。
一方、撫子の妄想は加速度的に膨らんでいく。
――どどどどうしよう告白とかされちゃったら……。わたしは柳くんのことが好きだし、いきなりオーケーしちゃってもいいよね? でも、大切なことだからちゃんと考えなくちゃとも思うし……。あーもう、どうしよどうしよっ!
頭を振り乱しながらもとろけるような笑顔を浮かべる撫子。ソバが何本も飛び散って周囲のクラスメートが盛大に吹き出したが、撫子は全く気付かない様子で妄想を続けた。
そして、そんな彼女を心配そうに見つめる人物が二人……。
そのうちの一人である一郎太は、大橋教諭がオムソバについて一向に触れようとしないことについて頭を悩ませていた。まさかとは思うが、アレをファッションの一部かなにかだと勘違いしているのでは……?
大橋教諭の視線を追う。彼女もまた撫子を気に掛けているようだったが、躊躇う理由でもあるのか当人には話しかけようとすらしなかった。もしもこのまま撫子がバレーボールに参加するようなことになれば、先ほどクラスメートの数人が吹き出したのとは比較にならない大惨事となるだろう。それはできることならば避けておきたいところである。
一方で大橋教諭は、一郎太の想像した事態が起こるのを全く別の理由に基づいて危惧していた。彼女はクラスメート全員がこの集団イジメに加担していると思っており、撫子がサーブでも打った瞬間にオムソバが飛び散るのを見て全員で笑うつもりなのではないかと思っているのだ。
もしそうだとしたら、なんて陰湿な生徒たちだろう。大橋教諭は自らの想像に身を震わせながら、自分が教師としてやるべきことについて考えを巡らせた。まずは栗花落さんと対話の場を設けてイジメの状況について聞き出す。それからイジメの首謀者を見つけ出して今回の件が起こるに至った経緯を説明させる。必要であれば他の生徒にも事情聴取し、最終的には二度とこのようなことが起こらないようクラス全体で話し合わせる……。
シナリオはすでに決まっていた。しかしそれを行動に移すことができず、大橋教諭はただ撫子の姿を見つめ続ける。
懸念していたのは、保護者への対応だった。
クラス内でイジメが起こってしまった以上、担任にはその説明責任があるだろう。それはいい。だが、こちらがどれだけ誠意を尽くしても納得してくれない保護者というのは存在する。俗に言うモンスターペアレント(MP)というやつだ。
――もしMPがいたらどうしよう……立場の差を利用した説教を延々と繰り返された挙句に休日も嫌がらせの電話が掛かってくるようになってノイローゼになってしまいそこにつけ込まれて要求を呑んでしまうと今度は他の保護者や教職員から責められて立場がなくなり退職するに至って全て失ったことに気付き身投げする羽目になったらどうしよう……。
撫子とは逆方向に妄想力豊かな人であった。
一郎太はそんな教諭の態度を訝しみつつも、自らもまた何もできずに撫子がコートへと向かう後ろ姿を見つめた。彼女が自分の意志でオムソバを頭に乗せている以上、こちらにそれを止める権利はない――。そう考え、とりあえずは静観を決めることにする。
「栗花落さん、サーブお願いね……ブフッ」
クラスメートの一人がボールを手渡す。一郎太はいきなりかよとツッコミたかったが、遅かれ早かれプレーには参加するのだからもうどうしようもないだろうと思い直した。
一方の大橋教諭は教師としての責務とMPへの恐怖に板挟みになり、白い肌がすっかり青くなってしまっている。
「い、行きます」
撫子が独り言のように呟く。大橋教諭が目を閉じて現実逃避しようとしたその瞬間、ボールが勢いよく相手コートに向かって放たれた。オムソバは……無事である。一郎太はホッとしたがそれも束の間だった。なぜなら撫子のサーブボールを相手チームのメンバーが拾い上げ、トスからスパイクという流れるようなプレーで返球してきたからだ。ボールはものすごいスピードで撫子のほうに向かっていく。一郎太は今度こそマズいと思い、大橋教諭は見ていられずに顔を背けたが、撫子は何とかレシーブを成功させるとチームはそこから見事な連携でポイントを取ったのだった。
そんなシーンを幾度となく繰り返し、試合が終了する。
そして驚くべきことに、オムソバは最後まで無事だった。
「栗花落さん!」
大橋教諭がその大きな胸に負けないほどの感動を抱きながら撫子の下へと駆け寄る。彼女は撫子が陰湿ないじめに抗うため必死でオムソバを落とすまいと努力したのだと解釈していたが、実際は時間の経過でオムソバが髪に張り付きうまいこと落ちなかっただけだった。なので撫子は突然の出来事に戸惑うばかりである。
「ありがとう、貴方のプレーを見て目が覚めたわ。あと少しで教師としての本分を見誤ってしまうところだった。いくらMPが怖いからってどうかしていたみたい」
「は? えっと……」
「良かったら、このあと職員室で話さない? ぜひ貴方のことを聞かせてほしいの」
「えっ? それってどういう」
「(教頭先生の)美味しいケーキもあるから、遠慮しないで、ね?」
そんな二人のやり取りを、一郎太は少し離れた位置から見ていた。体育館内の騒音のせいで会話の内容までは分からない。だが、撫子の硬い表情を見る限り決してポジティブな内容ではないだろう。あるいは先程のプレーで撫子の頭上に乗っているのが本物のオムソバだと分かり、イジメられているのではないかと問い詰められているのかもしれない。そう思い至った時、一郎太の足は動いていた。撫子はクラス内で目立ちたいと思っている。それはつまり、クラスメートのみんなと仲良くしたいということだ。だとすればオムソバによるアピールがイジメだと解釈されることは撫子の意に反する。一郎太は彼女の努力を無駄にしたくないと思った。
「先生、違うんです」
その一言に、大橋教諭がこちらを向いた。撫子は頭上に「!」がつきそうな表情をしている。
一郎太は更に歩み寄ると、得意の人好きのする笑顔を浮かべた。
「栗花落さんはイジメられてなんかいません。ただ頭がちょっとアレなんで、やり方を間違えているだけなんです」
誤解を招きかねないアレな表現だったが、撫子は聞こえていないのか顔を赤くするばかりだった。一方で大橋教諭は眉ひとつ動かさず、その表情を徐々に険しいものに変えていく。
「なるほど、そういうことね」
「?」
「語るに落ちるというのはこのことよ。柳くん、あなたも一緒に職員室へいらっしゃい」
このタイミングで教師に向かってイジメを否定してくるなんて、コイツが首謀者に違いない――そう思った大橋教諭は、沸き上がってきた義憤に駆られるまま一郎太を連行しようとする。
だが、突然の出来事にも一郎太は冷静だった。
「あの先生」
「なに」
「まだ授業中ですが、いいんですか?」
「……あ」
大橋教諭は立ち止まり、頬を赤くしながらこちらを向いた。
「間違えちゃった、てへっ☆」
それは教諭なりに精一杯のギャグだったが、一郎太と撫子の二人はひたすら冷めた視線を送り続けた。
◇◆◇◆◇
一郎太たちのクラスで体育の授業が始まった頃……。
三堂佳乃子は一人体育館を抜け出し、再び教室を訪れていた。心ここにあらずといった表情でいつもの定位置へと近づいていく。
そうして立ち止まると、佳乃子は棚に向かって額を打ち付けた。
がんがんがんがんがんがんがんがん。
しかしミヤマクワガタの黒鉄は特に驚きもせず、食べづらい蒟蒻ゼリーにグチグチ文句をいいながら食事を続けている。
「どうしてワタシはこうなんだ……」
佳乃子は額から血を流しながら崩れ落ち、床にぺたんと女の子座りをした。
「なにが『実に哀れなことだ』だ……。最も哀れなのは他でもないこのワタシだというのに」
今朝の一郎太とのやり取りを思い出す。今日こそはと思っていた「おはよう」の一言を口にできなかったのを皮切りに、一郎太が落としてしまったスニッカーズを拾ってあげることもできず(躊躇っているうちに彼は片づけ終わってしまっていた)、挙句の果てに「お前は誰に対しても一歩距離を置く傾向にある」などと偉そうに語ってしまったのだ。佳乃子はいっそ殺してくれと思いながら、いつものように虫カゴの中をのぞき込む。
「おい、何とか言ったらどうだ」
無茶ぶりはやめてくれ、と黒鉄は言いたかったものの彼には残念ながら人語を操る能力はなかった。代わりにアゴを小刻みに動かしてみせると、佳乃子は「またそれかよ」と実に勝手なため息を吐く。
彼女は思っていることを素直に表現できない性格だった。そのせいで家族や友人の誤解を生み、その誤解が更なる誤解を呼ぶという誤解無限ループに幼いうちから陥ってしまったのである。そこから脱出するには身近な人間を頼るのが一番だったが、不器用な彼女はその方法すら思いつかなかった。そうして暗い青春時代を送り続け、いつしか華の女子高生と呼ばれる年齢まで成長していたのだ。
「華は華でも、ワタシの場合は『鼻』だけどな……はは」
自分でも意味が分からなくてほんともう死にたい。別に鼻がチャームポイントというわけでもないのに、いったい何が言いたかったんだワタシは。
佳乃子は深く落ち込み、それからいつもの独り言を呟いた。
「柳ぃ……気付いてくれよぅ……」
彼女は柳一郎太のことが好きだった。自分のような存在を気に掛けてくれることが嬉しかったし、無茶なことを言ったりひどい態度を取ったりしても見捨てずにいてくれた。それどころか、他のクラスメートに対するよりも優しくしてくれている……気がする。
「ワタシは、お前のことが……す、す」
すだこ、と黒鉄は茶化してしまいたい気持ちに駆られた。だっていい加減にじれったいのだ。毎回こうして話を聞かされる身にもなってほしいと黒鉄は思ったが、あいにく彼はクワガタだったので佳乃子に自分の考えを伝えることはできなかった。
結局、佳乃子は「好き」を口にすることができず(誰もいない教室なのにである)、情けない自己への失望に苦しんだのち、ガバっと立ち上がるとブレザーの胸元に手を突っ込んだ。
黒鉄は瞬時に湧き上がったピンク色の妄想に興奮を隠せなかったが、やがて戻した手に握られていたモノを見てかつてないほど戦慄した。
「済まないが、お前には今日ここで死んでもらう」
いや全然意味が分からないんだけど、と黒鉄は思ったがたとえ人語を話せたとしてもそれどころじゃなかった。
佳乃子は拳銃を持っていた。しかもどこからどう見てもそれと分かる、ものすごくリアルなやつだ。
黒鉄はどうせモデルガンだろと思いながらも、本能的に抱いた恐怖感によって自らがバラバラに殺虫される未来を想像した。
「お前がいるからいけないんだ……。お前がいるから、ワタシは柳に話しかけられたくて教室の隅に身を置いてしまう。でも、本当は他のみんなとも話したいんだよ。普通に友達を作って、何気ない話題で盛り上がって……そういう普通の女の子になることができたら、きっと柳に気持ちを伝えられる気がする。だから……」
佳乃子が虫カゴのふたを取り、中の黒鉄に対してモデルガンの銃口を向けた。
「お前はここで殺すんだっ!」
なんだそれ理不尽すぎるだろと黒鉄は思ったが、考えるより先に体が動いてモデルガンから放たれたBB弾を回避した。勢いに乗ったまま翅を大きく広げ、虫カゴの外へ飛び出すと教室の入り口に向かって全力で飛翔する。
「あっ、コラ待て!」
黒鉄は聞く耳を持たず(クワガタなので当然だ)、BB弾をスルスルと避けながら廊下の向こうへと姿を消した。
◇◆◇◆◇◆
そして、三堂佳乃子が教室に戻ったのと同時刻……。
キャリーこと夏織・ミルキーウェイは言葉を失っていた。
血痕の続く先を追って保健室までたどり着いたのは良かったものの、そこで繰り広げられていた光景にはさすがの彼女も驚かずにはいられなかった。
「大丈夫、すぐ終わるから……ね」
養護教諭らしき白衣の女性が、血まみれの男子生徒に覆い被さらんとしている。彼女の手はすでに真っ赤に染まっており、この場で何が起こっていたのかは火を見るより明らかだった。
キャリーは豊満な胸に手を当てて深呼吸をし、それから意を決して叫んだ。
「その子の傍から離れなさい!」
女性の肩がピクリと反応する。それから彼女はゆっくりと振り返ると、その見事なほどに整った顔貌を露わにした。キャリーは思わず後退ったものの、気持ちで負けていては駄目だと思い直し一歩前に出る。
白衣の女性は怪訝そうにキャリーの全身を眺めたのち、その艶やかな唇を開いた。
「あなた……誰? 制服を着ていないところを見ると、ウチの生徒ではないみたいだけど」
それはもっともな質問だったしこの時点で冷静さを取り戻すことができれば良かったのだが、あいにくキャリーは場の雰囲気にすっかり興奮してしまっていた。
「私は……そう、探偵よ」
物陰から様子を窺っていた猫のホワイティ(♂)は思わず「なに言ってんだこいつ」と呟いたが、それは人間たちにとってにゃーにゃーという鳴き声に聞こえるだけであった。
白衣の女性もまた、少し呆れたようにため息を吐く。
「あのねぇ……ここは学校で、生徒か教職員かお客さんしか入ることを許されていないの。あなたはそのどれにも当てはまっていないわ。悪いけどお引き取り願える?」
「申し訳ないけど無理な相談よ。私が探偵である以上、目の前で起こった犯行を見過ごすことなんてできない」
「は? 犯行?」
「しらばっくれようとしたって無駄よ。その手にべっとりついた血が何よりの証拠なんだからっ!」
キャリーがビシッと指を差す。白衣の女性は手元に視線を向け、それからようやくキャリーの言わんとしていることを理解した。
「どうやら勘違いがあるみたいね。見ての通り私は養護教諭で、彼は保健室にやってきた生徒。何をしようとしていたかは分かるでしょう?」
「殺人ね」
「だからちげーっての!」
養護教諭が激昂する。だが、すっかり探偵気分のキャリーは怯んだ様子もない。
「何が違うというのかしら? あなたはその男の子にずいぶん近寄っていたみたいだし、何度も言うけどその手は完熟トマトみたいに真っ赤っか。つまり、あなたが彼を殺したんだわ」
「どんだけ安直な発想だよ! あたしはただこの子の手当てをするつもりだっただけだって」
「はいはい犯人はみんなそう言うんですよ」
「言わねーよ! 本当に殺してたらもっとまともな言い訳するだろ普通っ」
「まぁ、それは一理あるわね。だったらあなたは何の手当てをしていたというの?」
「……鼻血」
「は?」
「だから、鼻血だって」
「もう少しまともな言い訳しろよ」
「てんめええぇぇぇぇぇぇぇええええええ!!!」
養護教諭がキャリーに掴みかかる。その華奢な肩が前後に激しく揺れ、おかげで大橋教諭にも劣らない豊満な胸がブルンブルン。
図ったようなタイミングで目を覚ましたボウズ田中がそれを見て、今度は保健室に汚い花火を打ち上げた。
「た、田中くんっ!?」
養護教諭がキャリーを放り出して駆け寄る。しかし血しぶきの勢いは衰えることなく、養護教諭の貧相な胸元を生温かく濡らし続けた。このままでは本当に失血死してしまうかもしれない。
「きゅ、救急車! 早くっ!」
養護教諭が叫ぶと、すっかり目の前の光景に呑まれていたキャリーはハッとして携帯電話を取り出した。あれ119だっけ911だっけと思いながら、猫のホワイティが全身で猫文字を作ったのを見て前者を選ぶ(彼は人間の心を読む能力に長けていた)。
ほどなくして救急車が校門前に到着し、連絡を受けた養護教諭がボウズ田中を背負って保健室を出る。キャリーは申し訳なさから手伝いを申し出たが、けんもほろろに断られてしまった。
「お前なんか満員電車で汚いおっさんにレ○プされればいい」
その養護教諭らしからぬ暴言は、キャリーの心にいたく突き刺さったという。
◇◆◇◆◇◆◇
一郎太と撫子は、大橋教諭に先導されながら廊下を歩いていた。目的地はもちろん職員室。教諭の背中越しに揺れた乳房が見え隠れするのを、一郎太はおいおいマンガかよと思いながら目が離せず、撫子はやっぱり柳くんも大きい方が好きなのかなぁと一五歳にしてすっとんとんな胸を気にした。
三人とも無言のまま、休み時間の賑やかな廊下を通り過ぎていく。
その中で、大橋教諭は顔を青くしていた。体育館では教師としての本分を取り戻したなどと息巻いた彼女だったが、ここまで来る途中に思い出してしまったのだ。
柳一郎太の母――柳智登世が今年度のPTA会長を務める重鎮であったということを。
そんな重要なことを失念していた自分を愚かしく思いながら、大橋教諭はこれからどうするべきか必死で頭を回転させていた。撫子をイジメの魔の手から救ってやることは教師として絶対に為さねばならぬことだ。だが、そうすれば主犯格として罰せられるであろう一郎太の母が黙ってはいないだろう。「ウチの子はそんなことしません」と言いながら、大勢の保護者を味方につけて一教師の自分を厳しく非難してくるかもしれない。
――どうしよう……街中に張り巡らされた保護者ネットワークによって常に居場所が特定され動向が監視されることでゲームセンターのUFOキャッチャーの窓をガンガン叩く癖があることを知られてしまいそれを店に密告され警察から事情聴取を受けることになり学校からは懲戒処分ということで一年間の休職を言い渡され生活が立ち行かなくなり身投げする羽目になったらどうしよう……。
さっき妄想したのとは違う未来だったが、方向性がネガティブであることは変わっていないかった。
クーラーの効いた校舎内でダラダラと汗を流すその横顔を、一郎太は訝しげな目をして見つめる。
「先生」
「は、はひっ!?」
「何ですかその反応。職員室、通り過ぎましたよ」
「……あ」
大橋教諭は立ち止まり、振り返ってこちらを向くと再び顔を赤くした。
「間違えちゃった、てへっ☆」
また同じギャグかよと思いながら、一郎太と撫子があえて反応しないことで居たたまれない空気が出来上がる。
そうして、大橋教諭が「すいませんでした」と頭を下げようとした五秒前――。
「み、見つけたっ!」
唐突に飛んでくる声。三人がほぼ同時に振り返ると、そこにはキャリーこと夏織・ミルキーウェイが立っていた。ギドギドのコックシャツはボウズ田中の噴き出した血によって真っ赤に染まってしまっている。それに気付いた撫子が「ひぃ」と声を上げると、キャリーは突如として猛然と走り出した。
「わたしのオムソバを返せえぇぇぇええええ!!!」
鬼気迫るような勢いに三人がたじろぐ。キャリーは思い出していたのだ、自分がしがないレストランで調理アルバイトをしていることを、そして親の脛をかじって生きている学生風情が無銭飲食を働こうとしていることに怒りこの場に足を運んだのだということを。そうよ、きっとわたしは若者の腐った性根を叩き直す優しいお姉さんとなる運命だったのに違いないわ。何なら教師になってもいいかもしれないと考えたキャリーは、ひとまずオムソバを持ち逃げした撫子に体罰を与えるべく廊下を走り続ける。
一方で不審人物の狙いが撫子だと気付いた一郎太は、誰だよコイツと思いながらもその前へと立ちはだかった。
キャリーはピクリと眉根を動かし、そして燃えるような感情に従って激昂した。
「どけ色男ぉぉおおお!!」
学生風情のくせに自分を守ってくれる男がいるなんて。しかもちょっとタイプだったことから、キャリーの怒りは過去最高潮に達した。床を蹴るスピードがどんどん速くなっていく。なんだこいつこのままタックルしてくる気かと一郎太が身構えていると、更に別の方向からも刺客が現れた。
ミヤマクワガタの黒鉄である。
バタバタと汚い羽音で飛んできた彼が撫子の頭上に着地すると、大橋教諭はそれを黒光りするGと勘違いし、一瞬にして気を失うとそのまま床面へ崩れ落ちた。一郎太はその光景を視界の端で捉えたがキャリーの突進に対処するので精いっぱいで、代わりに撫子が抱き起そうとするも彼女はなぜか身を低くすることができなかった。
なぜならば、撫子はそのとき浮いていたからである。
「きゃああああああっ!?」
悲鳴を上げつつ両足をばたつかせる撫子に視線を向けると、一郎太はその先に一人の少女が走ってくるのを見た。あれは……そう、三堂佳乃子だ。おそらく黒鉄を逃がしてしまい慌てて探しに来たのだろう。そう思った一郎太であったが、それから佳乃子は信じられない言葉を口にした。
「死ねぇぇぇえええええ!!」
手に持ったモデルガンらしきものを乱射してくる。BB弾が一郎太の顔や手をしたたか打ち付け「痛っ」と声が漏れたが、佳乃子は錯乱しているのか撃つのをやめとうとしない。
一方で撫子は、黒鉄にオムソバごと持ち上げられたまま屋上の方へと連れ去られようとしている。
その信じられない光景に驚く暇もないまま、一郎太は廊下の両側から走ってくる少女たちに視線を向けた。
――栗花落さんを助けたいけど、俺が逃げたら二人がぶつかって人格が入れ替わる例のアレが発動するかもしれない……。
そうなれば余計に面倒なことが起こるだろうと悟り、仕方なく身を挺することを決めて静かに目を閉じたのだった。
◇◆◇◆◇◆◇◆
屋上には夏の爽やかな風が吹いていた。
黒鉄は運んできた撫子を適当な場所に降ろすと、およそ数か月ぶりに使った翅を丁寧に仕舞う。久しぶりに運動したせいで喉がカラカラだ。早く蒟蒻ゼリーで喉を潤したいと考える黒鉄であったが、そうじゃないだろうと慌ててアゴを振る。
今日まですっかり忘れていたが、自分には為すべき大切な使命があるのだから――。
黒鉄は五万光年離れた小惑星MYMからやってきたれっきとした宇宙人であった。彼は一兵士として母星の平和と安寧の為に尽力していたが、あるとき世襲の弊害として誕生したバカ王子に地球を調査するよう命じられ、ついでにこう言付かった。
――余が気に入りそうな地球人女性を見つけたら、ぜひとも連れてきてくれたまへ。
お前みたいなアゴの短いデブには地球人どころかウジ虫の野郎だって近づかねーよと思ったが、逆らえばアースジェットの刑が待っているので仕方なく了承した。あれは苦しいのに死ねないから本当に始末が悪いんだよ……とまぁ、それは置いておくとして。
そうして黒鉄は地球へとやってきた。だが美しい景色の数々に見惚れていた隙に現れた撫子によって捕われてしまい、虫カゴという閉ざされた空間の中で生活することを余儀なくされてしまったのである。おまけに食糧らしい食料も与えられず、黒鉄は生まれて初めて生命の危機を感じた。このままでは干からびて腐葉土の一部と化してしまう。そんなときに救いの手を差し伸べてくれたのが、今の主人――柳一郎太であった。与えてくれる食糧に若干の不満を感じつつも、彼には心の底から感謝している。
そして一方、自らを拘束し放置した撫子に対しては怒りの感情を抱かずにはいられなかった。彼女を屋上へと連れてきたのも、ここまで乗ってきた宇宙船を呼び寄せてその中に押し込め、あのバカ王子の元へと発送するつもりだからである。罰としては少々キツすぎるかとも思ったが、恩ある主人に近づけないためにもそうするのが得策だろう。
――食べ物で異性の気を引こうなどと……あさましいにもほどがある。
撫子の頭上には相変わらずオムソバが鎮座していた。アレをアプローチの道具に使うなんてけしからんと思う黒鉄であったが、そういえばオムソバって食べたことないなと少し好奇心をそそられてもいたのだった……。
一方で撫子は、身投げをするべく転落防止のフェンスに手をついていた。
思えば今日はおかしなことばかりである。意中の一郎太に好かれているらしいと思えば、バレーで思わぬ活躍をしてクラスメートから大げさなほど賞賛されたり、大人のれでぃーとして憧れていた先生からお茶の誘いがあったり、飛んできたクワガタに頭を掴まれてそのまま運ばれたり……。
最後だけ明らかに異質だったが、撫子は全部ひっくるめてこう考えた。
これは全て夢であり、わたし自身の妄想の産物である――と。
だって都合がよすぎるのだ。ずっと想いを寄せていた一郎太と両思いだったなんて……そんなこと、少女漫画はともかく現実で起こり得るはずがない。そのことに気付いたとき、撫子の考えは急速にネガティブな方向へと傾いた。頬をつねってみると少し痛かったが、それは経験した痛みだから妄想できたのだろうと、そうまでしてひたすら現実逃避しようとする自分を恥ずかしく思った。
ここから飛び降りてみよう。
それによる痛みは経験したことがないし、何ともなければ夢だと分かって目を覚ますに違いない。
だが、その確認法には致命的な欠陥があった。それは『もしこれが現実だったらマジで死んじゃうヤバイよヤバイよ〜』ということである。
撫子が何をしようとしているのか察した黒鉄は、その考えが理解できないながらもひとまず止めようと動き出した。だが撫子の方が一歩早く、柵に掛けた片足を外側へと投げ出そうとする。
そのとき、キイイという甲高い音とともに屋上の扉が開いた。
現れたのは一郎太と、その腕に寄り添う佳乃子だった。あのあと一郎太は突進してきた二人の少女に挟まれ無事負傷したのだが、佳乃子がすぐに介抱してくれたことでここまで来ることができたのである。
「やなぎ……まだ痛むか?」
「少しね。両側から押された回転ドアよろしく回転したときはどうなるかと思ったけど」
「本当にごめんな。私、あの時どうかしていて……」
「大丈夫。三堂さんはいつもどうかしてるから」
「そうか……って、え?」
「あはは、冗談だよ」
「やなぎぃ〜!」
佳乃子が一郎太の胸を叩く。なんだあの娘キャラ崩壊してるじゃないかと黒鉄は思ったが、ようやく素直な気持ちになれたのだなと思い直し微笑ましい気持ちになるのだった。
一方で撫子は、眼下に真っ赤な服装の女性を見つけ、どこかで会ったような……と首を捻っていると。
「栗花落さんっ!」
一郎太が叫んだ。撫子は目を見開いて振り返り、もう一度びっくりしてひっくり返りそうになる。
「危ないっ!」
追いついた黒鉄が背中に回って支える。撫子は不思議な力が作用したと勘違いし、ああやっぱりこれは夢なんだなと心底がっかりした。
「危ないから、そこから離れるんだ」
一郎太がゆっくりと近づく。彼はこのパフォーマンスも撫子流の自己顕示なのだと認識しており、それは十分に伝わっているということを言い聞かせてあげたかった。
だが撫子は、フェンスに乗ったまま激しくかぶりを振った。
「来ないでっ!」
乾いたソバがぽろぽろと下に落ちる。偶然にもそこを通りがかっていたキャリーこと夏織・ミルキーウェイは何事かと空を見上げ、屋上のフェンス際に人影を見つけると途端に慌て始めた。猫さんギャングの一員であるホワイティもまた、これは緊急事態だと判断し本部へ応援を要請する。
一方の撫子は、いつでも身投げできる覚悟だった。その瞳はいつしか涙の紗幕で覆われている。
「わたし、どうかしてる……現実が受け入れられないからって、いつもこうやって夢ばかり見て……。ずっと変わりたいと思ってた。そのために努力もしてきたつもりだった。でも、何一つ上手くいかなくて……またこうやって現実逃避してる。結局、わたしは何も変わってないんだよね……」
涙に濡れた声が耳朶を震わせる。一郎太は飛び出したい衝動に駆られながらも、ゆっくりと歩み寄って言った。
「違うよ」
びしょ濡れの顔がこちらを向く。その目には言葉通り諦めの色が浮かんでいる一方、差し伸べられる手を期待しているようにも感じられた。
だからこそ、一郎太は撫子に向かって手を伸ばす。
「上手くいってないなんて嘘だ。君の想い、俺にはちゃんと届いてるから」
その言葉が胸に沁み渡ったとき、撫子は激しく泣き出していた。まるで生まれたての赤ん坊のように、人目をはばかることも忘れて。傍らに立っていた佳乃子は嫉妬心を抱きつつも拍手をし、黒鉄は仕舞ったばかりの翅を取り出すとそれを震わせ祝福した。
そうして撫子は一郎太の手を取り、屋上の床面へと降り立とうとする。
そのとき――。
「きゃあっ!?」
フェンスの淵に足を滑らせ、そのまま外側へと転落してしまう。咄嗟に手を掴み直そうとする一郎太だったが、空振りした結果オムソバを掴んでしまい、固着した黒髪がブチブチと音を立てる。
「痛たたたたたたっ!?」
だが、それも長くは続かなかった。
オムソバは頭上から無事回収され、撫子は眼下のアスファルトへと吸い込まれていったのだった――。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇
そして、同時刻の地上にて……。
キャリーこと夏織・ミルキーウェイは慌てふためいていた。何しろ屋上で生徒が身投げしようとしているのだ。こんな場面には遭遇したことがないし、どうしていいのか分からない。
キャリーは校舎内で一郎太を回転ドアよろしく回転させたあと、負傷したらしい彼を見て「べ、別に私は悪くないんだからねっ」と責任逃れのツンデレを披露し外へと飛び出していた。オムソバは惜しかったが背に腹は代えられない。罪悪感から必死で目を背けながら、キャリーは抜き足差し足忍び足で学校を後にしようとした。
そんなとき、目の前にソース焼きそばが落ちてきたのである。
「こんなことなら見ないふりをすればよかったわ」
さりげない呟きに「こいつクズだな」と思わずにはいられないホワイティであったが、それよりも彼にはやるべきことがあった。偶然にも通りがかった子猫に事情を説明し、本部に応援を要請する。間に合うかどうかは不透明だった。
一方のキャリーは逃げたい気持ちに支配されながらも、さすがにそれは人としてどうかとその場をうろつき続ける。
うろうろ。
うろうろ、うろうろ。
と、そのとき。
「落ちるぞっ!」
ホワイティが唐突に叫ぶ。キャリーは何だこいつ急に鳴きやがってと思ったが、その首が上向いていることに気付くと自分もまた空を見上げた。
ごちんっ!!!!!
この世のものとは思えない鈍い音とともに、キャリーと撫子はその場に崩れ落ちた。撫子の頭上には未だ三分の一ほどのオムソバが残っており、彼女はおぼろな視界の中でそれを見つけ「これ、いいアイディアかも……」と思いながら気を失ったのだった――。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
それから一週間後……。
あのオムソバ事件を経て、一郎太の周囲はすっかり賑やかになっていた。どこか浮世離れした感のあった佳乃子はすっかり懐いてくるようになったし、クワガタの黒鉄は虫カゴを飛び出し教室内を元気に飛び回っている(放し飼いを案したのは他ならぬ一郎太であった)。隣席のボウズ田中とは気軽に世間話を交わす間柄となり、大橋教諭はなぜか怯えた様子ながらも以前より気に掛けてくれるようになった。
そして、撫子はというと――。
見た目は一週間前と何一つ変わっていない。だが、その中身は明らかに変貌していた。
「おはよっ、一郎太くんっ☆」
背後から腕に抱きつかれる。女性特有の柔らかい感触があるのかないのか微妙なところではあったが、そうされることは男として純粋に嬉しかった。隣に立っていた佳乃子が撫子をキッと睨み付け、反対側の腕へと抱きつく。
「ちょっと泥棒猫、その腕を離しなさいよ」
「なにを言ってる、柳を先に見出しのはこのワタシだ。お前が退くのが道理だろう」
「なによっ!」
「なんだっ!」
一郎太の頭越しににらみ合う女たち。佳乃子はともかく、撫子はこんなに恥じらいのない女の子だったか……? と内心で首を傾げていた、そのとき。
「みんなおはよう、ホームルームを始めるわよ」
大橋教諭がやってきて、撫子と佳乃子が名残惜しそうに体を離した。クラスメートたちが散り散りに席へと着く。
「出欠を取る前に、今日は新しいクラスメートを紹介します」
教諭がそう告げると、扉から一人の女子生徒が入ってきた。大きな瞳に太目の眉、それに活発そうに弧を描いた大きな唇。なんだろう、どこかで見たことがあるような……。
「初めまして、夏織・ミルキーウェイと申します。キャリーって呼んでください」
女子生徒が丁寧な口調で挨拶をする。そうだ、この子は空から降ってきた撫子と頭ごっちんこしたあの不審人物……。一体どういうつもりだと一郎太は思ったが、それよりもずっと気になるモノが彼の意識を支配していた。他のクラスメートたちもまた、拍手一つせずに教壇の横に立つ彼女の姿を見つめている。
なぜなら、その頭上には――。
またしても、オムソバが乗っていたのだから。