(3)
そうこうして自宅に戻ったのはだいぶ陽が傾いた頃だった。結構長い時間を一人きりにさせていたものだ。不用心だと思われるかもしれないが、あたしの家は店同様に様々な魔術で目隠しを施してある。荒らされてもすぐにわかるようにしてあるし。身につけた魔術知識は有効利用しなくっちゃ。
玄関を抜けるなり美味しそうな香りがあたしを出迎える。はて、一体なぜ?
「ただいま」
なんとはなしに一年以上口にしていなかった台詞を言う。
すると台所からエプロンを身につけたアベルがひょこっと顔を出した。
「おかえりなさい」
そしてにっこりスマイル。あたしには一体どういう状況なのか理解し難いんだけど。
「ぼんやり待っているのもなんなので、夕食を作ってみたんです。もうすぐ出来上がりますよ」
ご機嫌な様子で再び台所の奥に引っ込む。
――えっと……そうじゃなくって……。
「あのさ、アベル……」
バッグを自分の部屋に持って行くのは後回しにして、あたしはアベルを追って台所へ。
「やはりご迷惑でした? 勝手に台所を借りてしまったこと」
食欲をそそる匂いで満たされた空間でアベルが鍋をかき混ぜながら問う。
「ううん。それは構わないんだけど。――だけど、よ? どう考えてもおかしいでしょう? なんで留守番をしているお客さんが、招かれた先の家で夕食をこしらえているわけ? 絶対に普通じゃあり得ないわ」
「初対面の人間に留守番させる人もなかなかいないと思いますが?」
「…………」
さらりと返されてはこちらも言葉が浮かばない。アベルの意見ももっともだ。
「――だからといって、料理を作る理由にはならないと思うんだけど……」
強く言い返せずにぼそぼそ呟く。アベルの押しに負けてしまったようだ。
あたしの台詞が聞こえているのかどうかわからないが、彼は澄ました顔をして鍋でぐつぐつ煮込まれているスープをスプーンですくって味見をする。
「うん、悪くない。――細かいことは気にしないで下さい。もう料理はできているんですから。あなたは居間で待っていてください」
「う、うん……」
あまり気が進まないけども、アベルがそう言うならそうさせてもらおう。
あたしは台所を出て自分の部屋に戻る。持ち出した本とノートをあった場所にしまっていく。
壁一面が全て本棚になっている。そこに並ぶ本は元はお母さんの持ち物で、あたしが譲り受けたものの一部である。内容は魔法陣に関したものがほとんどだ。
そして、これらの本は現在手に入れるのが難しいものばかりである。あたしが生まれる前は国立図書館でいくらでも自由に閲覧できたらしいが、今は国を動かせるほどの力を持つエーテロイド協会の意向で禁止書物扱いと聞く。あたしにはその理由が全くわからない。だって、これらの本に書かれている魔法陣の知識は、エーテロイド職人も傀儡師も必ず使用するものなのよ? 基礎ともいえる研究の成果をないがしろにするなんてあたしには信じがたい暴挙に思える。そういえば、お母さんもこの件については愚痴をこぼしていたっけ。
きちんと整理された本の背表紙の中にはアンジャベルの名も書かれている。母方の家系の姓がアンジャベルで、そこを遡っていった先にいる人物、ちょうどあたしの曾祖父にあたる人物が書いたものが多い。お母さんはあたしが生まれるずっと前から彼の研究をしていたらしい。そしてあたしもまた、お母さんを追うようにしてその研究の成果を学んだ。魔法陣を使った魔術を扱えるのもそのお陰。
祖父の時代までは魔法陣を使う魔術師はごく当たり前のように、それこそ現在そこら中で活躍している傀儡師と同じように存在したと聞く。なのに今、魔法陣を使う人は姿を消している。いるにはいるのかもしれないが、大っぴらに使用する人はいないらしい。そんなこともあるから、あたしもこそこそ使っているんだけどね。肩身が狭いわ。
明日のために机の上に整列した薬品から目的のものを探す。細かな傷を直したり、累積した疲労箇所を補強したりするためのものだ。これらを揃えるのも結構大変だったんだけど、あんまり使う機会がなかったのよね。値段もかなりしたわりには、使用条件が限られているというべきかしら。何にせよせっかくの機会だし、全部使ってしまおうっと。あれだけの人形だ、ケチ臭い修復は無駄な装飾より意味のないことだもん。あたしの美学に反するわ。
道具と薬品を新しいバッグに詰め込むと、あたしは居間に移動した。