(1)
翌朝、あたしは気持ち良く目を覚ました。嘘みたいに悪夢から解放されたのである。あ、もちろん自分の部屋で目が覚めたんだからねっ。部屋につれこまれてたまるもんか。
「――目が腫れてしまいましたね」
朝食の食卓にてアベルがあたしに声を掛ける。彼がやや眠そうにしているのは夜遅くまであたしに付き合ってくれたからだ。
「明日の式典までにはおさまるわよ。心配いらないわ」
「よく眠れました?」
「お陰様で」
あたしはにっこりと微笑む。アベルはほっとした様子で笑んだ。
「なんとかあなたの悩みは解決したようですね」
「あれだけ騒いで解消されなかったら、ここにはいられないわよ」
おどけて答える。わだかまりがまだ残っているとしたら、あたしには思い当たるところがない。キースの件についてはかなりショックだったけども、くよくよしているのは彼に悪いような気がしてなんとか立ち直った。あとは明日の式典に備えるだけだ。
「ところでカイルさんはどうしたの?」
アベルの頭の上を指定席にしていたカイルの姿が見えない。昨晩見掛けてから一度も会っていなかった。
「兄さんは……その……」
「?」
「このあと、時間ありますか? 付き合ってほしいのですが」
「えぇ。構わないけど?」
改まってどうしたのだろう。
「良かった」
アベルはそれきり食事の間ずっと黙っていた。どこか思い詰めた表情があたしの心に引っかかった。
アベルに連れられてやってきたのはエーテロイド協会にある会長室だった。そこに続く廊下から装飾ががらりと変わるのだから大したものである。扉も細かな装飾が施されており、それだけでも他の扉と比べて金額が一桁、いや二桁ほど違うだろうと感じられた。
「失礼します」
アベルが扉を叩いて中に入る。――そういえば、アベルの服装はいつもの真っ白なローブではなく、エーテロイド協会の制服を着ている。これから何が行われるのだ?
部屋の中はとても広く、手前に応接セット、奥には立派な机が鎮座していた。肩にカイルを載せたテンがソファーに座っている。
「忙しい中、悪いね」
「いえ、あなたにお聞きしたいこともありましたから」
アベルはテンと向かい合わせになる席に腰を下ろす。立っていても仕方がないのであたしはアベルの隣に腰を下ろした。
「お父様は?」
「すぐにいらっしゃるかと」
そのタイミングで扉が開く。
「そろっているようだね」
部屋に入ってきたクリストファーにあたしは頭を下げて挨拶をする。この場に呼ばれた理由がわからないのだが。
クリストファーがテンの横に腰を下ろすと、テンが切り出した。
「カイル君の件ですが、約束どおり今日をもって契約を破棄するつもりです」
「……そうか」
寂しげにクリストファーは頷く。二度息子を失うようなものだろう、つらくて当然だ。
「約束ってなんのことです?」
その問いはアベル。
「次期当主が確定するまでという約束で私はカイル君と契約したのです。明日は式典。その役目は終わりました」
「……身体は大丈夫なんですか? エーテル乖離症を良く知っているでしょうに」
「カイル君が言っていたことを気にしていたんですか?」
アベルはすんなりと頷く。
「しばらく休息が必要だと思いますがね。長期休暇の申請は通っていますから問題ないですよ」
確認の意味を込めてテンはクリストファーの顔を見る。
「ならばよいのですが……。あともう一点。お父様たちはカイル兄さんがエーテル乖離症を発症させていたことを知っていたんですか?」
クリストファーはそのアベルの問いに重々しく頷いた。
「遺体の様子から不審に思ってな。テンに呼んでもらったのだ。訊ねてみれば、カイルは認めたよ。コーネリアもそれについては知っている」
――あ、だからあたしが『エーテラーナ』『アストララーナ』を借りに行ったとき、あんな悲しげな表情をしていたのか。急に冷たさをまとったのはあたしが訪ねるのが遅かったからかしら。もっと早く訪ねていれば、結末が変わっていたかもしれないから……。
「教えてくれたって良かったではありませんか?」
アベルが不満そうに言う。
「お前がすぐに戻ってきていたなら伝えたさ。次期当主の権利を持つということは、陣魔術の隠された特性を知ることと同義であるのだから」
「あれ? では、レイナさんはこのことを知らないのですか?」
クリストファーの答えに対し、あたしは疑問を述べる。
「あぁ、そうだ。娘はエーテル乖離症のことも、カイルがそれによって命を落としたことも知らない」
――そっか。そうなんだ。
「…………」
あたしが黙るとアベルが続ける。
「その件ですが、私は明日の式典にてエーテル乖離症についてを公表するつもりです。兄さんもそれを望んでいますから」
「そうか。資料も集まったことだ。充分説得できるだろう。好きにしなさい」
――もしや、クリストファー=クリサンセマムという人は始めから憎まれ役を演じようとしていたのではなかろうか。すべては国の発展と継続のために。
「……お父様?」
「なんだ?」
アベルは言いにくそうに切り出す。
「どうしてこんな方法を取ったのですか?」
「こんな方法とはなんだね?」
「このまま私が公表したら、それはあなたを批判することになる。お父様の立場が危うくなるのではありませんか?」
「何を今さら」
にこにこしながらクリストファーは答えたが、笑顔を浮かべて言える台詞ではない。
「――やはり覚悟をしていたんですね」
迷うようにアベルは告げる。
「当然だろう? ――できれば、ジュン=アンジャベルの予言が当たらなければ良いと思っていたよ。しかし結果は昨日渡した資料の通りだ。いつか、誰かがしなければこの国はやがて滅びる。それが今だというだけの話。それくらいわかっていた」
――クリストファー=クリサンセマム、この人物は確かにただ者ではない。今の地位を利用してやれるだけのことを行い、次の代のことまでしっかり考えている。自分のことだけではなく、回りや将来のことさえ考えられる人物なのだ。
そしてそれは今のあたしにはできない。だけど、これからのあたしはしなくてはならないことだ。あたしが始めなければ、陣魔術に未来はないし、ひいてはこの国の未来さえ左右するのだ。憧れているだけではいけないところにあたしは来ている。
「私が退いたあともテンはお前についていってくれるそうだ。全て任せてある」
「ローズさんが?」
アベルは驚いた顔をしてテンを見つめる。
「私の特技にはまだまだ出番がありそうですからね。協力しますよ」
「それは心強いです。助かります」
その場ですぐにアベルは頭を下げた。テンは笑う。
「大変なのはこれからだ。一人でやるには難しいだろうからね」
「そうだ」
顔を上げるとアベルはあたしを見た。――はて、何かしら?
「アンジェリカさんも協力してくれることになりました。プログラムの件、通っていますよね?」
視線をテンに向けて訊ねる。彼は嬉しそうに頷いた。
「もちろん伺っています。式典で発言する機会は用意してありますよ」
テンは視線をあたしに向けた。あたしは答えて頷く。
「ありがとうございます。――ですがあたし、何をどう話したら良いのかわからなくて……」
言わなきゃいけないことは整理できたが、どうもうまく文章にならない。
「思う通りのことを言えばいい。――なんなら、その場を借りて婚約宣言でもしてみたらどうかね?」
「お父様っ!」
アベルが顔を真っ赤にして立ち上がる。あたしの頬も熱くなっている。恥ずかしくなって思わず視線をテーブルに移す。
――アベルの両親はどうしてあたしに好意的なのかしら? あたしがアンジャベル家の人間だから気に入られているのかな? それにしても何故アベルをからかうの? ――いやまて、あたしは試されているのか?
「私は本当にそれで構わないと思っている。互いを必要だと、人生の上で欠かせぬ存在だと認め合っているのなら反対しないよ。
――ここだけの話だが、コーネリアと婚約したのは図書館を手に入れるための政治的意味合いが強かった。だが今となっては大切なパートナーだ。彼女なしでは現在はなかっただろう。それも彼女が協力し、支えてくれたからだ。パートナーがいるのといないのとでは全く違うものだよ、アベル、そしてアンジェリカさん」
あたしは頬を赤くしたままクリストファーを見て、それからアベルを見た。彼もこちらを見ていて、偶然目が合う。
「あたしなら、構わないわよ?」
「えっ! 式典で発表するつもりなんですかっ!」
明らかにアベルは動揺している。思考がおかしい。あたしに初めてキスをしたあの時の様子が脳裏を過ぎた。
「そうじゃなくって」
あたしは真面目な顔を意識的に作って手を横に振る。
「正式にパートナーとなっても構わないって言っているの。あたしじゃ足りないかしら?」
――もう迷わない。気持ちは固まっているから。
「アンジェ……」
「今さら断らないでよね? こっちだって結構悩んだんだから」
――どれだけ悪夢にうなされたと思っているのよ? 全部アベルのせいなんだから。責任取ってもらうわよ?
「――まるで夢みたいだ。起きてますよね、私?」
クリストファーとテンに向かってアベルは訊ねる。二人は微笑みで答えた。
「こりゃ忙しくなりそうだな。ローズさん、もう少しこっちにいたら駄目ですか?」
ずっと観賞目的の人形みたいになっていたカイルだったが、あたしたちのやり取りに感化されたのだろう。テンの耳元で問いかける。
「君は私を道連れにしたいのですか?」
さわやかにテンは返すが、表情がひきつっている。そろそろ限界なのだろう。ひょっとすると、カイルがあまり動かなくなったのはテンの疲労が限界に近付いているからかもしれなかった。
「いえいえ。言ってみただけですよ」
翼を上下させて肩を竦める。
「そうは思えませんでしたが」
「…………」
カイルは再びもの言わぬ置物に戻る。何事もなかったような澄ました顔をしている。
「……寂しくなるよ」
テンは表情をふっとゆるめてカイルの頭をなでた。かなり長い間、起動させっぱなしだったのだ。疲れはたまっているだろうが、その分心の結びつきは強くなっているはずだ。ましてや生前からの付き合い。容易に忘れられるものではないだろう。
「――まずは式典を無事に終えるところからだな」
言ってクリストファーは立ち上がる。
「は、はい!」
アベルは背筋を正して頷く。――そうだ。まずはアベルの次期当主を引き継ぐ式典が終わってからだわ。そこからが勝負なんだから。
「午後は明日の予行練習を行うとしよう。そのあとにカイルを送り出そうか」
その台詞のあとでカイルはふわりと飛び立ち、クリストファーの肩に載る。
「――お父様。今までお世話になりました。親不孝者ですみません」
「なに。これが私の選んだ道だ。エーテル乖離症を隠してきた罪がお前のところに行ってしまったのだろう。こちらこそすまない」
――結果として、キースが望んでいたようにクリサンセマム家にも犠牲者が出ることになった。クリストファーにとっては覚悟してきたことだろう。あたしは彼らの悲しみを背負って立たねばならない。……あたしにできるのだろうか。
「アンジェ」
不意にアベルはあたしに声を掛けて手を握る。優しい感触にいつかのキスを思い出す。
「一人で背負うことはありませんよ」
「え?」
――あれれ? あたし、喋っていたのかしら?
「気持ちは通じるものです。それが好きだってことでしょう?」
「ばっばかっ! こんなところでそんな台詞を言わないでよっ!」
もうちょっと時と場所を考えてほしい。でもそんなところがアベルらしいと言えばアベルらしいのだけども。
あたしは全身を火照らせながら頬を膨らませる。
「本当に仲が良いな」
クリストファーがあたしたちのやり取りに突っ込みを入れると、カイルとテンは声を立てて笑った。
――もうっ! アベルのばかぁっ!




