(3)
「聞いたよ、ベスから」
さらりと男は答える。
「陣魔術はこの国特有の文化だ。危険が伴うと言っても確証を得ていたわけではない。ことを起こすにはまだ検証が足りなかった。説得できるだけの証拠がなかったんだ。だから『エーテラーナ』『アストララーナ』は図書館の改革が行われるまで重要視されなかったというわけだ。読む人間にある程度の知識があれば、エーテル乖離症の存在を見抜けるっていうのにさ」
「……そこまでわかっていながら、どうしてクリサンセマム家に復讐しようだなんて思えるのよ?」
あたしは腑に落ちない。その台詞を聞く限りではあたしよりも理解があるのではないかとさえ感じられる。アベルをこの世から消し去りたいとまで憎む気持ちはどうしたら生まれてくるのだろうか?
「――ベスが死んだからさ」
「!」
はっとして、あたしはうつむく。――そうだ。お母さんは死んだらしい。でも何が原因で?
「ベスは俺の治療目的でしばらく一緒に過ごしてくれた。君や旦那を故郷に残してきたことを知っていたから、俺に構わずさっさと帰れと説得してみたんだかな。ベスに言わせりゃ、この研究が実を結ぶならこれからのこの国にとってなにものにも代えがたいものになるんだと。俺には家族より大事な物があるとは思えなかったんだが、そう言ってやったらベスはこう答えた。知らずに命を落とす人たちにも家族はいるってさ」
彼はやれやれといった様子で肩を竦めた。
「せめて手紙くらい書いたらどうだと勧めたら、君には知られたくないときたもんだ」
「え?」
あたしは彼の右手に向けていた顔を上げる。
「エーテロイド職人に明るい未来を描く君には重すぎるから、だそうだ」
「そんな勝手なっ!」
――それが本当ならひどいわ、お母さんっ。あたし、そんなに弱くないっ!
「――ま、それは建前だろう。おそらくベスは知っていたんじゃないかな。自分の死期が迫っているってことをさ」
「なんで? お母さん、病気にかかっていたの?」
情報がほしい。お母さんがどんなふうに死んでいったのか。何故命を落とさねばならなかったのか。
男はゆっくりと首を横に振った。
「アンジェリカ。ベスが何の研究に力を入れていたのか覚えているか?」
「お母さんの専門分野ってこと?」
あたしの問いに彼は頷く。
「――ジュン=アンジャベルの研究についてじゃなかったかしら?」
お母さんが研究していたからこそ曾祖父――ジュン=アンジャベルの書物をあたしもよく読んでいたのだ。だから間違いない。
「ジュン=アンジャベルが何の研究者として有名だったのか知っているか?」
「えっと……」
自宅にあった本棚のずらりと並んだ背表紙を思い浮かべる。何の研究者として有名だったかって?
「魂を宿すものに『エーテル』と名付けて、魂を作るものに『アストラル』って名付けたのは知っているけど……」
陣を使う魔術師をエーテリストと呼ぶのは、魂を宿すとされる全てのものをある程度自由に操作できるからである。光や風をも操れるので中には不思議に思う人もいるけど、それらにだって魂を受け入れる素質はあるのだ。魂を宿したそれらを精霊という言葉で特別に表す人もいるくらいだから、名前がつけられている以上そこまで特異なことでもないんじゃないかしら。
「なんでそれらの概念が生まれたのかわかるか?」
「――難しい質問ね」
一般市民よりは知っているといった程度の知識しか持ち合わせていないあたしにとって、それはなかなかに突っ込んだ問いだった。
「ちょっと考えれば君にもわかる。そうだな――ジュン=アンジャベルが何歳まで生きたか知っているか?」
「四十半ばくらいって聞いているけど……?」
なんの話かと不思議に思いながら答える。
「んじゃ、君の祖父母はどうだ?」
「あたしが物心ついた頃にはいなかったわ――!」
そこまで言ってあたしは気付いた。――アンジャベル家は短命なのだ。
この国の平均寿命は六十をやや上回るくらいらしい。きちんとした統計――正確には、協会が魔術と寿命の相関関係を導き出すために国を挙げて取り組んだ調査の功績である――が取られたのは、最近のことだから過去がどうだったのかはわからないものの、おそらく大幅に違うということはないだろう。テンが持ってきた資料に詳しいことが書いてあった。
「わかったか?」
「あたしの家系が長生きできないことは薄々気付いていたけど……」
たまたまではなく、陣魔術師だから寿命が短いってこと?
あたしがまだ学校に通っていた頃、お母さんの論文を読んだことがある。当時の知識じゃ書いてあった内容は理解できなかったのだが、一つだけよく覚えていることがあった。お母さんは論文を出すときは決まって旧姓を使っていたのだ。それに違和感を覚えて訊ねるとお母さんはこう答えた。――アンジャベルの名を受け継いでいるのはわたしだけだから、なくしてしまうのはしのびないでしょ、と。つまりあたしには生きている親戚――母方に限定されるけど――はいないし、その名を継いだあたしは最後の末裔にあたるのだ。
「ベスがジュン=アンジャベルに興味を持ったのは、その研究が自身の家系が短命であることに触れていたからだそうだ。――そこから推察するに、ジュン=アンジャベルもまた、自身の家系が長生きできない理由を探るためにこの研究を始めたんじゃないかな。そのためには生命とは何かを定義する必要がある。エーテル、アストラルという言葉や『エーテラーナ』『アストララーナ』という書物、そしてエーテロイド職人、傀儡師といった職業や彼らが扱う魔術は、多分彼にとっては副次的な物だったのだろうと思う」
――副次的な物にしては影響範囲が半端じゃないんだけど。……でもそっか。そうなったのはクリサンセマム家が利用、よくいえば後押ししてくれたおかげなんだもんね。そうなるように仕掛けたのはクリサンセマム家で、それを条件付きで了承したのが曾祖父なのだ。
「つまり、元をただせばこれらの概念は寿命を延ばすために生まれたものなのさ。その結果知り得た事実がエーテル乖離症であり、アンジャベル家が長生きできないのもそれが原因というわけ」
「じゃあお母さんはエーテル乖離症を発症して死んだってこと?」
――そしておそらく、解決策が見つからない場合はあたしも同じように死ぬことになる。
男ははっきりと頷いた。
「すまない」
「なんで謝るの?」
言いにくそうに彼は視線を外す。
「彼女の寿命を縮めたのは俺だ。彼女の命を使って生き長らえたのも俺なんだ」
声が震えている。あたしは彼の手を握り直した。
「状況がよくわからないわ。何があったの?」
――二年前に何が? 責めているみたいに聞こえないように、努めて優しく訊ねる。追い詰めるようなことがあってはいけない。
「……研究は半年ほどかかった。その間もちろん俺も研究を手伝っていた。興味があったからな。次第にエーテルと霊魂との関係やそれらがいかに結び付いているのかといった仕組みが明らかになったが、俺の症状はどんどん悪化していった。特に魔術を使用していたわけじゃない。ベスが口を酸っぱくして忠告していたしな。それと同時に、ベスにもその症状が現れるようになった。研究に区切りがついたのは、いよいよあとがなくなったと俺が覚悟を決めた頃だった」
「研究、完成したの……?」
完成したにしては変な言い方だ。区切りがついたって言ったわよね?
「いーや。彼女が完成させたのはな……」
男はそこで言いよどむ。
「何?」
「――肉体の時間を遅らせる魔術だ」
「なっ!」
干渉系の魔術は様々だが、中でも生きている状態のものに対して行うものは難しいとされる。傷を治す魔術もこれにあたるのだが、それは結構大変なことなのだ。ちょっと考えてみてほしい。誰もが魔法で怪我や病気を治せるのだとしたら、病院はいらないし、外科医も薬剤師もいらないでしょ? 瞬時に治せるなら包帯を巻く必要もないじゃない。あたしの身体に刻まれている陣はかなり珍しいものなのよ――って、これが一番人体に負担をかけているんじゃ……。
「こともあろうに、ベスはそれを自分にではなく俺に対して使った。つーか、そうなるように彼女は始めから仕込んでいたんだ。術が発動するまで説明すらしなかったんだからな」
男は不満げな顔をする。
「術は成功した。しかしその反動で彼女は命を落とした」
――あれ? 成功したならどうしてこんな状態に? やっぱり魔術を使用したから?
あたしが引っかかりを感じて悩んでいる間も彼は続ける。
「君にこのことを伝えるべきだと思ったんだ。だがベスの遺言で、知らせるわけにはいかなかった。死んだことを知らせたら、必然的にエーテル乖離症の存在を知らせることになる。だが証拠がなくてはその現象を信じてもらえないだろう。それにベスは君に教えるのではなく、自分から気付いて欲しかったみたいなんだ。――エーテル乖離症という存在を認識し立ち向かっていくには、押し付けたものでは耐えられない、そう判断したのだと俺は思う」
確かにあたしはエーテル乖離症という現象を知った直後は半信半疑だった。納得できるようになったのはテンが持ってきた資料に因るところが大きい。だから自分で納得し、だからこそ逃げないことを誓った。
「しばらくはベスを失った悲しみと、この魔術に対する驚きと恐れで家に引き込もっていた。しかしそのうちに怒りが込み上げてきたんだ。――今の政策は何かおかしい。この事実が公表されていればもっと研究は進んで、解決策を生み出していたかもしれないのに。……始めはそんな思いからだった。その気持ちはやがて恨みに変わった。エーテル乖離症で家族を失うことの悲しみを、協会の人間も味わうべきだってね」
声の雰囲気ががらりと変わった。深い悲しみと怒りに満ちた声。今でこそ魔術を使えない状態だから怖くないが、怒りや恨みはまだ消えていないことが伝わってくる。復讐の念は消えていない。
「それでまずは、国を放浪していると聞いていたカイル=クリサンセマムを狙うことにした。いきなり現当主クリストファー=クリサンセマムは難しいだろうし、成功したとしても国の混乱は免れないからな。カイルに会って話を聞き、様子を窺ってみようと考えたんだ」
――アベルのときは有無を言わさずに強襲したくせに、やたら平和的な台詞ね。
「で、カイルさんを襲ったわけ?」
「それが……」
男は言いかけたが、途中でぴたりと止めて視線を遠くに移した。屋敷のほうだ。




