(2)
「あの本を……読んだのか……?」
「そうよ。この指輪が証拠よ。母さんも持っていたんじゃない?」
右手の薬指にはめられた指輪を見えるように掲げる。
「ならばなおさら疑問だな。重大な事実を隠している協会側になんでいられる?」
戸惑うように男はわずかに視線をそらし、たんたんとした口調で問う。
「……あなた、知っていたの?」
これには驚いた。協会が隠している事実を彼は知っている? その上でクリサンセマム家を憎んでいるの?
「そのせいで犠牲になったんだからな」
言って男は表情を歪めた。様子がおかしい。
「ちっ……」
舌打ちをして、こっそりと右手をかばう。あたしの記憶が正しければ、そこには凶器を生む魔法陣があったはずだ。――あれ?
「まさか……」
あたしはすかさず男の右手を取る。
「や、やめっ……!」
「あなた……」
その手の状態を確認したあと、彼を見上げる。脂汗が浮いていた。
「エーテル乖離症を発症しているの?」
エーテル乖離症――それは魔術の過度な使用により発症する。魔術を使用するに当たって体力が奪われるのは、人体を構成するエーテルが壊されるからなのだ。エーテルは簡単には回復しない。よってその疲労はどんどんと蓄積され、閾値を越えると死に到る。エーテルは霊魂を繋ぎ止める役割を果たしているがためにそういうことが起こるのだ。
――そう、これが協会がずっと隠してきた国を危うくさせる重大な事実。
「……あぁ」
男は視線を外したまま頷いた。
――だから襲撃できなかったってこと? こんな状態では当然大きな魔術は使えない。いや、魔術自体を使うことができないかもしれない。
「それもかなり重度の……。どうしてこんな……。術の使用を控えればまだなんとかなるかも」
「いや、もう手遅れだ」
あたしが男の右手をさすりながら言うと、彼はきっぱり否定した。
「手遅れってことはないわよ! そんなことわからないでしょっ!」
むきになって言うと、彼は懐かしむような表情を浮かべた。――この人もこんな優しい顔ができるんじゃない。
「ベスとおんなじだな。親子ってそんなところまで似るものなのか?」
言って彼は空いていた左手であたしの頭をなでた。ごつごつとした感触はあの晩に感じたものとは違う気がした。
「変な質問をするのね。似るところは似るものじゃないかしら」
「ふぅん……。俺には物心がついたときから親がいないもんでね。そういうのってわからないんだ」
「!」
唐突に始まった身の上話にあたしは違和感を覚える。――とても嫌な感じがする。
「だから俺にはベスが母親みたいに思えていたんだろうな。――この図体になって母親を恋しく思うなんてあんまり恰好のつくものじゃないが」
「おかしくはないわよ。誰でもそういうところってあると思う」
なんでだろう? 両手でしっかり包んでいるはずの彼の右手がどんどん温もりを失っていくように感じられる。あたしは温めるようにぎゅうっと握った。
「……優しいな。君から母親を奪ったと言っても過言じゃないってのに」
「そんなの気にしないわ。あたしにはたくさんの想い出があるもの。いろいろ教わったものが残っているもの。ちょっと寂しく思ったことはもちろんあったけど、きっとあなたには及ばないわ」
「……知ったような口を」
男は馬鹿にするような感じで小さく笑う。しかしそこには力がない。
「――君の母親を死なせた直接の原因が俺にもあると言っても、君は俺に優しくできるか?」
その台詞にあたしの身体はびくりと反応する。手を握ったままだったから、それが男に伝わってしまったのだろう。彼は悲しげに笑んだ。
「許してくれとは言わないさ」
「一体お母さんの身に何があったって言うの?」
衝撃的ともいえる告白を聞いてもなお、あたしはその手を離さなかった。ここで放してしまったら、消えていなくなってしまいそうな気がしたから。
「……話しておくか。あの本を読んだのなら、何か役に立つかもしれないし」
「どういうこと?」
「――俺がエーテル乖離症を発症させたのは二年前だ。自分の身に何が起こったのかを知りたくて、陣魔術師の間で最も優れていると言われていたエリザベス=アンジャベル……まぁ、その頃はダイアンサスだけど、その君の母親を訪ねた」
――二年前?
あたしはすぐにでも訊きたいことがあったが、まずは黙って聞いてみることにした。
男は続ける。
「状態を知ってもらうために一度会いたいと手紙を書いたんだ。こと細かに症状を記した上でね。そしてそう経たないうちに彼女から返事がきた。――会って確認させてほしい、と」
そこで小さくため息をもらす。
「俺はその返事を書き、会うことになった。ベスは俺の手を看るなり険しい表情を浮かべて答えた。――こんな症状は見たことがないってな。そんなことを彼女に言われたら、他にあたってもそう芳しい答えを期待できるものじゃないだろうとおとなしく諦めることにしたんだ。だから俺は礼を言ってそのときはひいた」
――二年前……消息が完全に途切れる前まで、お母さんはよく家を空けていた。それまでも曾祖父の研究のためにまとまった期間留守にすることはあったが、しかし当時の様子はそれとは違っていたらしい。とはいえ、あたしも詳しくは知らないのだ。なんせその頃といったらあたしは職業訓練校の最終学年であり、学校に泊まりがけで課題や勉強をしていた時期だったから。そんなこともあって、そのときお母さんが何を調べるために国中を駆け回っていたのか全く知らなかったのだった。
「だからしばらくして、ベスが俺を訪ねて来たのには驚いた。しかもいきなり説教するし」
男はそう言って苦笑する。お母さんのことだから、ある程度の原因を掴んで知らせに行ったのだろう。そうしたら症状が進行していたので叱ったといった感じじゃないかしら。
「そこでおおよその話は聞いた。これがどんな理由で起こるのか、それをエーテロイド協会は知りながら隠していることをな」
「でも、それにはちゃんと訳があって――」




