(4)
夕方、部屋に戻るとそこには見たことがないものが置かれていた。
「うわぁ……」
思わず見とれてしまう。扉を開けた正面に、なんとも豪華な装飾が施されたドレスがドレスフォームに着せられた状態で飾ってあったのだ。
「あ、届いたんですね」
部屋まで送ってくれたアベルが、立ち止まったあたしの視線の先に気付いて言う。
「これ、あたしが着るの?」
「そうですよ。特注品なんですから」
あたしが夢現で呟くと、アベルはさらりと答える。
「……あ」
突然、現実に引き戻される。――一体誰がこのいかにも高額そうなドレスの代金を払うんだ?
「どうしました?」
「どうしたもこうしたも、あたし、こんなドレスを買えるだけのお金、持ってないっ!」
すっかり忘れていたが、あたしは首都に行くためのお金すらない状態だったからアベルに便乗してここまで来たのだ。当然、ドレスを買えるだけのお金を持っているわけがない。しかも手に職あれど、今は無職の居候だ。いかにしてお金を工面すべきか。
「差し上げますよ。無理言って式典に出席してもらうのですから」
困惑するあたしの気持ちを知ってか知らずか、事も無げにアベルは答える。
「似合うと思いますよ」
付け加えてにっこりスマイル。
「そういう問題じゃないのよ! あたし、困るっ!」
目が回りそうな値段が飛び出してきそうなそのドレスを着るなんて信じられない。似合う似合わないの問題ではなく、着たらその値段で倒れてしまいそうだ。
「困らないで下さい」
――どんな文句だ?
「困るものは困るんだから仕方ないでしょ?」
「それでは私が困ります」
「…………」
あたしは頭を抱える。
ときたまアベルはこういうお金の使い方をするようなのだが、あたしには全く理解できない。高額の品をほいほいあげる神経のことではなく、お金を使ったときの態度が気になる。坊っちゃん育ちだからか、どうもお金のありがたみをわかっちゃいないみたいに思えるのよね。これでもあたし、人形屋を経営していたから、働いてお金を稼ぐことの大変さを知っているつもりなんだけど。
「あのさ、アベル? あたしが確認しなかったのも問題あるけど、こういう品を買うならもうちょっと相談してくれてもいいんじゃないの?」
「時間がなかったのですからしょうがないではありませんか。サイズなら確認しましたよ?」
とぼけているのか素なのかわからないが、アベルは言って不思議そうに首をかしげる。
「言っておくけど、あたしはあなたに養ってもらうつもりはないし、恵んでもらうつもりもないの。今はいろいろ都合があってお世話になっているけど、本当なら外で宿をとっているはずなんだからね。だからこういうことをされると困るの」
ちっぽけなプライドというやつである。あたしは自分の境遇に見合っただけの生活を望んでいるだけだ。そのためにはちゃんと働くし、それ相当な収入を得たい。それ以上は望まない。
「私の気持ちですよ。遠慮することはありません」
――なんだかなぁ。
「気持ちは受け取るわ。でもドレスは別よ。なんの対価もなしに受け取ることはできない。あなたの気持ちとはいえ、これほど高価なものをありがとうと言って受け取れないわよ」
「素直に喜んでくれたっていいのに」
アベルが頬を膨らませる。
「あたしが安い単純な女に見える?」
「ばかにしたつもりはないんですよ? あなたに着てほしいと思ったからそうしただけです」
「うん、それはわかってるの。気持ちは受け取るって言ったでしょう?」
彼は再び首をかしげた。
「だから――そのドレスに見合うだけの仕事をしたと自分で認めることができたら、改めて受け取るわ。それまでは借りるってことにしておいてよ。じゃないとあたしの気持ちがおさまらないわ」
「あぁ」
はっとした表情を浮かべたあと、アベルは小さくくすくすと笑った。
「な、なによっ」
「いえ、実にアンジェらしいなって思いまして。確かにあなたはそういう人でしたね。失礼いたしました」
言いながらも笑っている。――全く、失礼しちゃう。
「わかってくれたならそれでいいのよ」
なんとなく気にくわなくってむっとした態度になってしまう。
――別に嬉しくないということはない。普通に暮らしていたらこんなドレスは買えないだろうし、買えたとしても着てゆく場所がないだろう。こんな機会は滅多にないことだ。……やっぱり素直じゃないのかな、あたし。
部屋の中に入るとドレスを間近でじっくり眺めた。隣にはアベルがいる。
「それにしても、すごいドレスね……」
金色の糸で絹の生地に細かな刺繍が施してあるのだがこれがまた複雑で、描かれた幾何学模様は幾重にも組み合わさって美しい。とても短時間で作れるようなものではない。刺繍以外ならシンプルな形であり、上等な布らしいということくらいしか特徴はなかった。
「正装ですからね。これくらいしてもらわないと」
――一体式典とはどんなものなんだ? 屋敷もそうだが、その規模が全く想像できないんだが。
「あれ? これは?」
しっかりと首元まで覆うようになっているデザインなのだが、なんか引っかかる。恐る恐る手を伸ばしてついと引っ張ると……。
「げっ」
――外れた。
「どどどどどっどうしよう! はっはずれちゃった!」
おろおろするあたしに対してアベルは実に冷静に頷いた。
「えぇ。そうなるように作ってもらいましたから」
「へ?」
あたしはきょとんとする。――えっと……どういうこと?
「アンジェが首の痣を気にして隠しているのはわかっているつもりです。ですが、私は気にすることではないと思うんですよ。むしろ綺麗なんだからもっと見せてもいいと思うんですよね。ですからあなたが了承してくださるなら、是非ともその部分を外した上で着て欲しいなって」
「却下」
あたしは即答する。だってこの痣、かなり目立つのよ? 髪を下ろしているのだって、首の辺りを隠すためなんだから。
「――その痣はアンジャベル家の証のようなもの。てっきり私はアンジャベル家を誇りに思っているからこそ、クリサンセマム家に対してわだかまりがあるのだとばかり思っていたのですが」
アベルの冷やかな瞳はあたしの心をえぐる。
「べ、別にあたしは……」
――否定できるだろうか、彼の台詞を。だってアベルの言う通りじゃない。この痣はアンジャベル家の証。アンジャベル家の末裔だからこそあたしの身体に刻まれているのだ。血をひいていることを誇りに思うなら、それを見せたって構わないんじゃないの? ならばどうしてためらう? 誇りに思ってないなら、どうしてクリサンセマム家を恨むの? なんで悪夢にうなされるの? ――おかしいでしょう?
「どちらでも構いませんよ」
アベルはふうっと小さなため息をついて寂しげに笑んだ。
「……まだのようですね」
「ごめんなさい」
あたしの心は涙で濡れていた。本当に泣いてしまいそうで、そっとうつむく。
「何が足りませんか? 『エーテラーナ』『アストララーナ』を読み終えてなお、あなたの心に引っかかっているものはなんですか?」
――それはきっとあなたへの不信感。信じて委ねることができないゆえの葛藤。
「ごめん……」
――あなたはこんなにも優しくしてくれるのに。あなたはこんなにも想ってくれるのに。
――どうしてあの男の言葉が過ぎるの?
「何故、謝るのですか? あなたは悪くない。むしろ無力な私を許してほしいくらいだ」
「……ごめんなさい」
声に涙が混じってしまう。――溢れる気持ちに耐えられないよ。
「泣かないでください。何が悲しいんですか?」
「……ばかぁっ」
アベルが伸ばした手を払って、胸に飛び込む。泣き顔を見られたくなかったんだから仕方ないでしょ?
「あたしの気持ちを知っていてそんなこと言うなんてずるいわよっ。あたしがあなたをどうしようもなく好きでしょうがないことをわかっているくせにっ!」
――好きなのに信じることができないの。こんなにも大好きなのにあなたについていけないの。変なプライドが邪魔するし、難癖つけて拒否したくなっちゃうの。あたしがアンジャベル家の人間であなたがクリサンセマム家の人間だからという理由だけじゃない。本の謎ならもう解けたし、納得している。ならばこの気持ちはあなたへの想いがあなたへの不信感に混じって歪んでしまった結果なの。それが悪夢に変わるのよ。――ごめんね、アベル。
「アンジェ」
アベルはそっとあたしを抱き寄せ、優しくその両腕で包み込んだ。
「私は嬉しい」
耳元で囁かれる声に温もりを感じる。
「やっとあなたの気持ちを聞くことができた」
温かい。彼の優しさがあたしの心にしみる。
「――好きなだけ泣いてください。あなたの気が済むまでそばにいますから」
――ダメだ……。流されちゃう。甘えてしまう。ずっと気を張ってきたせいだ。優しくされたら拒めないよ。
「ごめんね、アベル……」
その台詞は果たしてちゃんと声になっていただろうか。
あたしは彼に言われた通り、気が済むまで思いっきり泣いた。アベルはその間もずっと抱きしめてくれて、あたしの泣き顔を見ようとはしなかった。




