(3)
クリサンセマム邸、四日目の朝を迎えた。今日の予定は特にないとのこと。休日ということらしい。そんなわけであたしは午前中を調査準備の時間にあてた。街に出ることも考えたのだが、許可がおりなかったのだから仕方がない。
この屋敷は中で大抵のことを片付けられるが、いざ外で何かをしようと思うと不便だ。まるで鳥かご。生きるには不自由しないが、そこに本当の自由はない。あたしにはここの生活は向かないだろうななんて思う。そういう意味では今までの人形屋の生活があたしに合っているのだろう。好きなものに囲まれて、好きなように働いて……。独りは寂しいけど、あれがあたしらしい生き方なのかなと思える。
――そういえばあたし、式典が終わったらどうすればいいんだろう? アベルはあたしがクリサンセマム家にいられないようなら、また一緒に旅をしないかと言っている。その際には次期当主の権利をレイナに譲り、クリサンセマム家との一切を断ち切ると宣言した。そう決めたからこそ、アベルは実家に帰って式典を行うことを承諾したらしかった。なかなかに思い切ったことをする人だ。あたしに何を求めて期待しているのかさっぱりつかめないけども、彼が彼なりにあたしを必要としているらしいことは確かなようだ。
昼食後の和やかなひととき。あたしが借りている部屋の扉が不意に叩かれた。
「はい?」
机に向かって資料作成の続きをしていたあたしは、とことこと扉に向かうとそっと開けた。
「あの……勉強を教えていただけませんか?」
そこに立っていたのはアベルの妹のレイナ。古そうな本と使い込まれたノートを両手に抱えている。申し訳なさそうな表情にあたしは負けた。
「あたしで良いのかしら?」
「はいっ! アベルお兄様からアンジェリカさんがエーテロイド職人で修復を得意としていることは伺っております。トリプルをお持ちだそうですね。アベルお兄様、まるで自分のことのように話していましたよ」
――アベルが、ねぇ。なんだか照れくさいわ。
レイナが向けるきらきらした笑顔はアベルにはないものだ。見た目はそっくりなのに、この兄妹の持つ表情はどこか根幹となる部分が異なっているように感じられた。
「そう言われると嬉しいです。――さ、中へどうぞ」
扉を大きく開けてやると、レイナはぺこりと頭を下げて中に入った。
正直、この部屋は広い。前に使っていたアトリエはアベルの移動用人形を入れることができるくらいの空間を確保していたが、ここはそこに匹敵、いや、上回る広さを持っている。店より広いのは確実だ。二人は寝られるだろうサイズの天蓋付きのベッドがどんと置かれているのに圧迫感がまったくないんだもの。そりゃ広いわよね。屋敷にはこのような部屋があと二十ちょっとあるというのだから、その辺の宿よりよっぽど規模が大きい。ちなみに離れにはお手伝いさん方が生活している建物がある。庶民代表のあたしには思いつかないスケールの大きさだ。
「――レイナさんは今何の勉強をしているんですか?」
部屋に置かれた小さなテーブルの前にやってくるとあたしは訊ねた。
「傀儡師試験の勉強を」
勧めた椅子にちょこんと腰を下ろしてレイナは答える。
「あっ、今年ですか? 試験は」
レイナがアベルの三つ下であることは前に聞いている。試験は十五になる年から受験できるので、おそらくそのくらいだろう。
「はい」
はきはきとした受け答えには好感が持てる。――こんな妹なら大歓迎だわ。
「――でもあたし、傀儡師については専門外ですが」
「それはご心配なく。お聞きしたいのは『エーテロイド共通基礎』ですから」
レイナは本の表紙をこちらに向けてにっこりとする。
科目『エーテロイド共通基礎』は傀儡師試験、エーテロイド職人試験ともに受験科目に指定されている。これなら確かにあたしも勉強をした。人形に関した基本を押さえている科目であり、人形屋を営む上でも避けて通れない学問だ。
「それならわかるわ。――ですが、もっと適任の方がいらっしゃるのではありませんか? 本当にあたしでよろしいのですか?」
「あら、自信がありませんか?」
あたしの戸惑いの台詞に対し、レイナは不思議そうに首をかしげる。
「えぇ」
素直に頷く。だってここは首都であり、しかもクリサンセマム邸だ。優秀な家庭教師はいくらでもいるだろう。あたしがでしゃばるところではない。
「そんなご謙遜を」
レイナは上品にくすくすと笑った。
「謙遜もなにも事実ではありませんか」
「ご存知ではないのですね」
「?」
なんのことかとあたしは首をかしげる。
「あなたが受験したあの年の試験、首席で共通基礎をクリアしているんですよ」
「誰が?」
あたしの問いは不自然じゃないはずだ。
「アンジェリカさん、あなたが」
そしてにっこりスマイル。無邪気な笑顔は嘘をついているようには見えない。
「まさか、ご冗談を」
――担がれても何もでないわよ?
「事実ですよ。成績優秀者表彰式に参加なさらなかったでしょう? あのとき発表がありましたのに」
「!」
――本当のことっぽい?
「名字がダイアンサスになっていましたが、住所から考えてもあなたですよね?」
「……本当にあたしのこと?」
「始めからそう言っておりますでしょう?」
ダイアンサスは父方の名字。お父さんの死後、遺言により名字をアンジャベルに改めたのだ。だから試験を受けたときとは名字が違う。
「――アンジェリカさんはどうしてエーテロイド職人試験を受けたのですか?」
興味津々の表情であたしの顔を覗く。あたしはまだレイナが言ったことが信じられなくて半ば呆然としていた。
――だってよ? あたし、成績優秀者表彰式に呼ばれたこと自体夢だったんじゃないかって思っていたのよ? 確かに勉強は誰よりも頑張ったつもりだったし、密かに自負していたけれど、そこまでの実力があるとはさすがに思わない。トリプルを取得できたのだって奇跡的にギリギリで通過したものと考えていたんだから。
「えっと……」
そうだ。あたしがエーテロイド職人を目指した理由。それは……。
「……お父さんが人形屋を営んでいて、身近に人形がいたからかしら。それが一番影響を受けていると思います」
「傀儡師を選ばなかったのはどうしてですか?」
本当に興味があるのだろう。レイナは身を乗り出してあたしに訊ねた。
「……繋ぐ職業だから、かな」
具体的な言葉が浮かばず、濁すように答える。
「繋ぐ職業?」
レイナはすぐに首をかしげる。どういう意味だろうと真剣に悩んでいるらしい様子が伝わってくる。
「うーん、なんといえばしっくりくるかしら」
あたしは視線を天井に向けて考える。
「想いを繋ぐ仕事だなって、漠然と認識していて……えっと、例えば、ある傀儡師が一体の人形に出会って契約したとする。あたしは人形には永く主人と連れ添って欲しいと考えているの。そのためには定期的なメンテナンスが必要不可欠。傀儡師、人形双方の負担を減らすことができるからね。それを怠ると互いを傷つけることになってしまうのよ。――あ、その辺の話はエーテロイド共通基礎で勉強することになっているんだったわね。――で、できるだけベストの状態でいてもらうためにはどうしたらいいかって思ったら、エーテロイド職人になって修復の仕事をするのが良いかと……」
どうにも要領を得ない台詞で恐縮するが、仕方がない。レイナはあたしの説明を聞いてにこっと笑んだ。
「傀儡師と人形の絆を守りたいからこそ、その仕事を選んだんですね。素敵です!」
再びきらきらとした眼差しがこちらに向けられる。――照れくさい。
「そこまで大袈裟なことじゃないですよ。――さぁ、雑談はこの辺にして、勉強を始めませんか?」
「はいっ! よろしくお願いします」
嬉しそうにレイナは微笑む。
あたしが彼女の期待にそえるかはわからなかったが、誠意を尽くしてにわか家庭教師になることにしたのだった。




